岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 3


脱線講義

1) 学生と生徒

 入学おめでとう。長い灰色の受験生時代に別れを告げて,今日から晴れて大学生である。大学生活はどんなだろうかと,胸をふくらませていることと思う。私が入学した時に,教養学部の先生からこんなことを言われたことがある。
「諸君は昨日まで『生徒』であった。徒らに生きてきたのである。これからは『学生』,みずから学んで生きていって欲しい。」
大学は受け身に勉強を教わりに来るところではなく,みずから学ぶところであると,この先生はおっしゃりたかったのであろう。私も,この言葉を皆さんにも贈りたいと思う。

2) 学年×10分

 小学校のPTAに行ったら,「最低,学年×10分は宅習をする習慣を身に付けさせてください」と,言われた。皆さんは13年生に当たるのだから,下宿に帰って少なくとも2時間勉強しなければ,小学生並みでない。まして,『学生』である。一層勉強しなければならない。

3) 講義と黒板

 したがって,大学の講義は受け身の高校の授業と,本質的に異なる。高校では,先生の板書を一生懸命ノートして憶えたに違いない。しかし,大学の先生は,概して板書が下手で,黒板はメモ程度にしか使わない。理系ではスライドを多用する人も多い。大学教員には教員免許なしになれるから,教育技術の未熟さを示すマイナスの側面でもあるが,みずから学ぶためのヒントや方向づけを教えるのが大学の講義だという面もある。それ故,話の本筋から離れた雑談,いわゆる脱線の中に,先生が一番伝えたかった学問に対する姿勢や人生観がこめられていることが多い。最近の学生は板書しか写さないが,話の要点をメモするクセをつけると共に,こうした脱線からも含意を汲み取って欲しい。

4) ソーセージパン

 教養学部でさきの先生とは別の先生がこんなことを言われた。
「諸君,研究なんて所詮体力の勝負だよ。昼めしにあんパンを食べるのなら,ソーセージパン(今のホットドッグのこと)を食べたまえ。」
もちろん,研究は独創的な発想が基本であるが,それを実証するためには,粘り強い努力が必要である。研究者になって,この言葉の意味がよく分かった。大学はレジャーセンターではない。大いにがんばろうではないか。

(1986.3.26 稿)


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更新日:1997年8月19日