岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 2


卒論発表会に思う

 卒論発表会の季節がやってきた。下級生を総動員してビラ書きに大わらわな者,徹夜をしたのか赤い目をしばたいている者,はては学生室の片隅でシュラフにくるまって寝ている者など,例年通りの風景が見られる。学生時代の良い思い出になることであろう。
 こんなにも苦労しなければならない卒論とは一体何だろうか。卒論を必修として課している意味を考えてみたい。もちろん,大学や学部・学科によっても異なるから,私の属する理系学部を例にとってみる。それは私たちの考える大学教育の目的そのものに深くかかわっている。今卒論を書いている4年生は間もなく実社会に出て行く。大学で学んだ専門知識や身に付けた技術を社会で生かそうと胸をふくらませているに違いない。しかし,大学で教わったことなど,10年もすれば役に立たなくなる。何時の時代でもそうだが,まして現在のような技術革新時代には知識の陳腐化はもっと早まるであろう。また,OA化FA化の進行に伴い,専門技術職が減って研究開発部門と営業部門の比重が増していくという。いわゆる職人的な技術屋で定年まで勤められる牧歌的な時代は終った。これからはどんどん新しい分野に挑戦していかないと生き残れない。尻込みして手慣れた仕事にしがみつくような人はいわゆる窓際族の運命が待っている。
 単に企業利益の追求にとってだけでなく,社会進歩にとっても,広い視野と柔軟な頭脳を持ちチャレンジ精神に富んだ人材が求められている。大学はこうした人材を社会に送り出す責務がある。私たちが卒論に期待するのもそこにある。単に分析技術や鑑定能力を身に付け,機械操作に習熟するのが目的ではない。それなら各種学校である。先生の指図に従うばかりでなく,自分自身の頭で考えたオリジナルな研究をやり,ほんの少しでもよいから新しいことを見出した喜びを味わって卒業して欲しい。労苦をいとわず地道にデータを集めた経験も貴重である。卒論で得た自信が社会に出てからのバネになると思う。卒論は青春を燃焼させた証であり,青春のモニュメントである。しかし,最近の卒論を見ると,従来の研究を一歩でも半歩でも前進させようとの覇気が感じられない。一部ではあるが,昨年度卒業できた最低線なみで満足し,意識的にそれ以上の努力をしない者もいる。不完全燃焼では将来悔いを残すだけである。美しい青春時代は二度と来ない。大いにがんばって欲しいと思う。

(1986.2.7 稿)


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更新日:1997年8月19日