岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 19


ブロイラーのしあわせ

 駅頭で共産党の議員さんが演説をしている。社会主義国では福祉行政が進んでいて衣食住に不自由していない。それにひきかえ,わが国は……といった話だった。渋滞中の車の中で助手席の妻がうなずく。私は,あまり社会主義国を持ち上げると後で引っ込みがつかなくなるから,やめたほうがいいのではないか,と言った。資本主義国のマスコミの為にする報道だけでなく,社会主義国に留学した知人らの話を総合すると,共産党員は特権階級であり,アカデミー会員など要路の人々は帝制時代の貴族以上,巷は怨嗟の声に満ち満ちているとのこと。北朝鮮やルーマニアの同族支配が典型的だが,終身権力や個人崇拝など繰り返し現れるのはどこか体制的に欠陥がある。ユートピアとはほど遠い。だから妻に言ったものである。衣食住だけ保障されても自由がなければケージの中の鶏と同じである。人間は決してブロイラーの幸せはとらないものだ。人はパンのみにて生きるに非らず,と古人も言っているではないか。民心の離れた政権は,一見どんなに強大に見えても,遅かれ早かれ崩壊するであろう。
 それから何年もしないうちに,ペレストロイカに端を発した東欧の民衆革命が成功し,世界体制としての社会主義体制が崩壊した。予言が的中したことを誇るわけではない。「民心の離れた…」云々は単に公理を述べたに過ぎないからだ。ただ,日本共産党は政治的色眼鏡で情勢を見ていたので,社会主義国では民心が離れていることを見抜けなかったのである。くもりのない目で事実を事実として見れないようでは科学的社会主義の“科学”が泣こうというものだ。
 閑話休題,私は政治学者ではないから,ここで東欧革命を論じようというのではない。ブロイラーの話である。西側大国のわが日本には本当にブロイラーはいないであろうか。確かに言論の自由はあるしKGBもない。しかし,自らケージの中へ進んで入り,その枠から一歩も外へ出られない人種がかなりいるように見受けられる。困ったことに未来を担うべき若者に多い。飼い慣らされ自らはばたく術を知らないように思える。
 昨年(1990年)暮,学生巡検(地学見学旅行)で岡山へ行った。倉敷に宿をとり,バスで阿哲台や高梁などあちこち見学したのである。授業である以上,もちろん地質の見学が主,観光はほとんどない。有名な観光地の倉敷に何泊もしたのに,これではかわいそう。土・日ゆっくり遊んでくるようにと考え,金曜日に現地解散することにした。学生から何時解散かとの質問が出た。大原美術館などの閉館時間を気にしているのだろうと,午後3時解散とした。ところがである。3時なら新幹線に乗れば土曜の授業に間に合うという。クソ真面目というか,唖然とした。結局,この数人は備前駅でお昼に汽車に乗せて帰した。
 今回の巡検で,もう一つ唖然としたことがある。どうせ学生が値切った安宿,家庭用の小さな風呂しかない。これでは20何人全部入るのに大変な時間がかかる。銭湯に行っていいか,との声。こちらは当然呑みに行きたいとの意思表示だと受取った。陳腐な手だ。われわれの時代にもよく使ったものである。「いいけど,あまり遅くなるなよ。宿に迷惑かけるから。それに長湯するとのぼせて顔が赤くなるよ」とニヤニヤ。こちらもかつては遊び好きの学生だった。武士の情けである。ところがところが,本当にお風呂にだけ入って帰ってきた。私の言葉を真に受けて,烏の行水で済ませてそそくさと上がってきたのだろうか。いくら真面目といっても度が過ぎる。ウーム,これではさぼり方・遊び方まで手取り足取り教えなければなるまい!?
 彼らは幼小の頃から教育ママゴンにしつけられ,学校では悪名高き校則の下徹底した管理主義教育を受けてきた。はみ出すことができないのである。ケージから出されたブロイラーはじっとうずくまって飢えるという。飛び回る楽しさも知らないし,畑の虫をついばむことも知らないからである。彼らの姿はこのブロイラーそのもの,何とも哀れだ。
 ある企業のトップがおっしゃるには,企業というところは昨日と同じものを今日売っていたら明日はつぶれる,とのこと。国全体にしても同様である。旧弊を墨守しているだけでは進歩がない。若者は常に老人たちのひんしゅくを買いながら時代からはみ出してきた。今日の経済大国を築いてきた世代も,戦後民主主義の申し子として,アプレゲールと呼ばれ,怒れる若者たちと呼ばれていたのだ。中堅どころは安保世代であり,全共闘世代である。こうしてはみ出した若者たちが次の新しい時代を切り開いてきたといってよい。
 今の若者のように,目に見えないケージにとじ込められ,はみ出すことも怒ることも知らず,青春を主張する術を知らないようでは,来たるべき21世紀が心配である。一体,文部省や教育委員会は何を考えているのだろうか。連帯を恐れ反体制を恐れるあまり,角を矯めて牛を殺してしまった。東欧の党官僚と発想は同じである。今の教育は国をあやまつものと言っても過言ではない。
 もっとも若者の三無主義も一種の無抵抗不服従運動,若者の真の気持を理解できないだけであって,単に私が歳をとった証拠なのかも知れない。そうならば大変うれしいのだが。

(1991.3.2 稿)


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更新日:1997年8月19日