岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 13


大学間格差

 知合いの子がピアノのコンクールで入賞した。彼は小さなときから鹿児島の先生についてピアノを習っていた。小学校高学年以降,毎週土曜日曜には学校を休んで,福岡まで個人レッスンに通っている。そのことの是非はともかく,福岡の先生の言を聞いて考えさせられた。「鹿児島の先生から何を教わったのか。音の創り方の基本がなっていない。もうかなり年齢が上になってしまったから,修正できるかどうかきわどいところだ。」というのである。あたら才能をつぶしてしまうところだった,といいたかったらしい。おそらく鹿児島の先生はピアノを弾くという技術だけを教え込んだのであろう。
 われわれ教育者にとって,これは大変恐ろしい言葉だ。ダメ教師は,学生のもつ能力を十分引出し開花させることができないというにとどまらず,その学生の才能をつぶし,悪いほうにねじ曲げてしまうというのだから。学部は本学の卒業で,他大学の大学院に行った人が学会発表をしたときのことである。私の友人が講演を聞いて,本学の卒業だと知らずに,「手筋が悪いなあ」と,一言感想を述べた。彼は碁が好きだから,よく囲碁の表現を使う。最初にケンカ碁のような品性のない碁を覚えると,せいぜい初段どまりで,絶対にそれ以上上達しないそうである。つまりはピアノの先生と全く同じことを言っている。その大学院生は,直接私が教えたことのない古い卒業生だが,やはりショックだった。胸に心当たりがあるからである。
 残念ながら大学間格差は厳然として存在する。これは決して施設設備の良否ではない。もっぱら教員の質の問題であり,したがって学生の質の問題である。私は,旧制帝大,新制大学発足時から理学部の大学,そして本学のような文理学部改組組みの大学と,いろいろ転勤して歩いた上での,率直な感想である。
 まず転勤してきて驚いたのが,職員名簿である。麗々しく理博・理修などと肩書が印刷してある。学位所持は自立した研究者の最低条件であるから,大学の教員なら所持するのが当然であって,名簿に書くまでもない。さらによく見ると,教養部はもとより理学部でも持っていない人がかなりいるので二度ビックリ。普通は10年経っても取れないようなら,恥かしくて自ら身を引くはずである。1ヵ月で取れる運転免許を,何ヵ月もかかるようでは,運動神経が鈍いと言われても仕方がない。たとえ,やっと免許を取っても,そんな人の車には乗せてもらうのは恐くてゴメンである。いわば無免許運転で学生を大勢乗せているようなものだ。どこに連れて行かれるのか学生がかわいそうである。
 そのうちに,民主的な研究者の会合があったので顔を出した。ほとんどが若手である。まだ開会には間があり,みんな雑談している。10万円する将棋盤を買ったとか,カヤ盤が最高だとかいった話が聞えてきた。場違いなところに闖入したような気がして,アッケにとられた。以前いたところでは,学問の話に花が咲いていたからである。専門の違う人が久しぶりに集まるのだから,よい耳学問の場になり,会合の合間の雑談が一番楽しみだったように思う(現に今,私は科研費で他大学工学部の人と共同研究をしているが,そのテーマは,学問とは関係ない会議で知り合った際,雑談の中で生まれたものである)。ともかくも,この会合では革新を名乗る若手に清新な若さが感じられず,革新の息吹がなかった。研究者の生きざまである学問の面で,常にbreak throughをしていないからであろう。これでは政治屋に過ぎない。深く失望してしまった。
 最近も考えさせられることがあった。学会で定年間近の老先生にお会いした。退官記念に『ヒスイの科学』という本を出版される由。単なるヒスイ生成の熱力学といった話だけではつまらないから,世界のヒスイ産地のレビューをすることにした。ところが,ロシア語圏でずいぶん採れる。結局この歳になって,ロシア語の辞書と首っ引きで,こんなに文献を読む羽目になったと,指で10pくらいの厚さを示しながら笑っておられた。ひるがえって,わが大学の老先生たちはどうであろうか。学問にまだ情熱を燃やし続けておられる方は数少ない。
 大学における教育とは,学問に対する情熱を学生に伝えることである。一たび学問に眼が開かれれば,学生は持前の若さと柔軟な頭脳を武器に,学問を一歩先に推し進めてくれるに違いない。過去,学問はそのようにして進歩してきた。教員は火つけ役であり,跳躍台である。したがって,教員が学問に対して目をキラキラ輝かせている,その姿自体が何にもまさる教育だと思う。学生時代に教わった通り十年一日のごとくルーチンの作業をしているようでは,学生にとって学問が魅力的であるはずがない。常に若々しく新しい分野に挑戦してこそ研究者という名に値する。
 本学の学生は確かに偏差値が低く,基礎学力に欠けているが,受験勉強ですり減らされていないナイーブさがある。負け犬根性さえふっきれば,力を発揮できるものと信じている。しかし,職業技術教育が伝統になっており,教員も学生もその呪縛から解き放たれていない。一番大切なのは,彼らに情熱を吹き込み,学問の面白さを理解させる教育であり,その方向での教師集団の意志統一だと思う。

(1986.9.12 稿)


ページ先頭|地質屋のひとりごともくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日