岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 11


私の研究遍歴

 先日,新入生が「教官めぐり」と称して,インタビューにやってきた。血液型から趣味まで,いろいろ聞き出していった。もちろん,研究が主要な話題である。私の場合,レパートリーを広げすぎたため,一言で説明するのに困ってしまった。自分でもあきれ返っているが,何十年もおなじことをコツコツやっておられる方をみると,とても真似はできないと思う。本質的に浮気者なのだろうか。ちょうど良い機会だったから,自分の研究歴を振り返ってみた。

1) 東京大学時代

 1962年木村敏雄教授によって,東京大学理学部地質学教室に初めて構造地質学講座が開かれ,その時たまたま学生だった私が最初の構造地質学の専攻生となる巡り合わせになった。その頃の構造地質学は,生層序学に基づいて地質構造発達史を論ずるといったいわば地史学的構造地質学であった。すなわち,化石時代から不整合の時間間隙を認定し,そこに○○時階の造山運動を想定するといったやり方である。しかし,運動というからには地層や岩体になんらかの物理的な変形を与えているはずであり,変形論的なアプローチが不可欠である。そこで,いわば“変形の化石”(変形した化石ではなく変形作用の証拠の意)を見出して造山運動を力学的に捉え直してみようと考えた。
 北上山地は,化石が多産する古くからの地質学の名所で,古生代末(本州造山運動)や白亜紀前期(大島造山運動)などいくつかの造山運動が知られており,その点では格好のフィールドである。気仙沼付近の綱木坂向斜において,従来ほとんど注目されてこなかった小褶曲の形態や機構を研究する小構造解析を行った。確かに古生層には劈開褶曲が,中生層には曲げ褶曲が発達しており,一見前者は本州造山運動によって,後者は大島造山運動によって形成されたとするとうまく説明がつく。しかし,実際には三畳系にも劈開褶曲があり,ジュラ系には曲げ褶曲と劈開褶曲の中間形態が見出せる。つまり,両者は漸移しており,スレート劈開の発達程度も深部で著しく,浅部に行くほど悪くなっている。こうして温度封圧の関数としての深さに応じて褶曲の機構が変化するという褶曲の構造階層という概念に到達した。なお,中古生界の間に構造的差異がなく,一見形態の著しく異なる褶曲も中生代の造山運動によって形成されうるとしたこの結論は,本州造山運動によって古生代末に日本列島は陸化して現在の骨格が形成されたとする当時の定説を真っ向から否定するものとして,学界では不評であった。その後,コノドントや放散虫などの微化石が発見され,本州地向斜の主部は中生代まで海域であったことが明らかになり,この考え方が受入れられるのに10年を要した。
 また,その頃は変成岩は岩石学者が岩石化学的に研究するもの,地質学者は堆積岩だけを研究するものと考えられていたが,そのタブーにも挑戦し,構造階層の概念を変成岩にまで拡張した。すなわち,深部から浅部に向かって,層面片理の不規則な褶曲を主とする流れ褶曲−片理とちりめんじわ劈開の共存する褶曲−スレート劈開による劈開褶曲−劈開褶曲と曲げ褶曲との漸移型の褶曲−曲げ褶曲の一連の系列が認められる。それぞれの圧力条件についてもある程度の見積りを行った。こうして構造階層の概念は一応の体系を整えた。 以上,東大時代は構造地質学の草創期を担う者として暗中模索をした時期であったが,従来の生層序学一辺倒の地質学から脱皮するのに,多少は貢献できたのではないかと自負している。

2) 新潟大学時代

 1969年新潟大学理学部に地盤災害研究施設が新設された。新潟地震調査の際新潟大学の先生方と知り合いになったのが縁で,翌1970年博士失業の憂き目に遭うところを助手として採用していただいた。
 それまでの構造階層の研究では専ら変形の場の問題を追究してきたが,同じ場に置かれても変形する岩石の物性が異なれば,違った挙動をするのは自明である。すなわち,状態方程式とレオロジー方程式を連立させて解かなければ正しい解は出ない。そこで岩石物性の研究に着手し,岩石の三軸圧縮試験を行った。もちろん,地盤災害研に席を置いている以上,災害の問題と無縁であってはならない。新潟県は全国有数の地すべり県であるから,三軸試験の供試体には地すべりの素材となる第三紀層の泥岩いわゆる軟岩を用いた。
 地すべりが断層や褶曲軸に沿って帯状に配列するのは経験的に知られていたが,なぜ空間分布が一致するのか不明であった。それまで褶曲の研究をしていた強味を生かして,まず背斜軸上に配列する地すべりを対象とした。まず,地すべり地の基盤をなす不動地の軟岩をさまざまな構造的位置から採集してきて三軸試験を行った。同層準同岩質ならば,背斜軸へ近づくほど,ダクティリティーと圧縮率は増大し,ヤング率は減少する。これは軸部ほどよりひずみやすく流動しやすいことを意味し,褶曲時に相対的に大きな流動があったことを示している。つまり,この褶曲は曲げ流れ褶曲である。古くから新潟地方のいわゆる油田褶曲の形成機構について議論があったが,ここに岩石物性のほうから一つの結論がでたわけである。従来の岩石力学は実用主義的な岩盤力学として土木建築方面で行われるか,地震の発生機構との関連で地球物理学で行われてきた。いずれも岩石物性そのものを興味の対象としており,実際の地質学と結びつけて議論した例(少なくとも地質図付きの岩石力学の論文)は,世界でもこれが最初である。
 また,同時に小断層や節理などの小構造解析を中心とする構造地質学的な野外調査も行ったが,背斜軸部では褶曲軸に直交する開口型の引っ張り節理がよく発達していることがわかった。すなわち,褶曲の軸部と翼部では褶曲時の造構環境が異なり,軸部は流動が相対的に大きく,岩石の内部構造が乱れて“弱く”なっている上に,さらに引っ張り応力下におかれたため,開口型の節理が発達してマスとしても強度が低下した。この割れ目に地下水が浸透するなどして風化も促進された。以上の要因に,新潟地方のような活褶曲帯では背斜軸部の継続的隆起による地形的条件も重なって,背斜部に地すべりが集中的に発生するのである。
 以上の他,油田褶曲地域の小断層解析による古応力場の復元や岩石の間隙水圧試験なども行った。

3) 鹿児島大学時代

 1976年,前述の地すべりの仕事が地すべりの教科書にしばしば引用されたためか,応用地質の専門家と思われ,鹿児島大学の応用地質学講座に助教授としてお招きをいただいた。他大学の応用地質学講座は金属鉱床学の講座で(昔の応用地質学 Economic geology は鉱山地質学と同義語であった),現在普通に使われている意味での応用地質学 Engineering geology の講座は,鹿児島大学のものがわが国では唯一である。
 赴任した直後,梅雨前線豪雨によって大規模なシラス災害が発生し,鹿児島市内で32名の犠牲者が出た。うち4名は鹿大の学生であった。自分のところの学生が死んだということは大変なショックである。大げさに言えば人生観が変った。新潟大学時代は地すべりの研究をしたとはいうものの,アカデミックな褶曲の研究のいわば副産物にすぎない。副業ではなく本腰を入れて災害の研究に取り組まなければならないと決意した(研究成果が行政に生かされ,住民に周知しなければ災害を無くすことはできない。以後,論文は英文ではなくやさしい日本語で書くことにした)。
 従来,シラス(約2万年前の火砕流堆積物)は柔らかくて崩れやすく,南九州の大部分を覆っている以上,シラス災害は宿命だと言われてきた。そこで急傾斜地域に限って危険地域に指定し,コンクリート擁壁を設けるなどの対策工を少しずつ行っている。しかし,今回崩れたのは鉛直に近く急斜したところではなく,かえって比較的緩いところであった。そこではシラス崖本体は崩れていず,それを覆う新期の降下軽石層(約1万年前に噴出した桜島火山起源のもの)が滑っていた。降下軽石層は,地表を流れてきた火砕流と異なり,空中を飛んできたものであるから,大変分級がよくルーズであり,しかも斜面上にも地形に平行に堆積する。当然,地下水にとって格好の通路になるから,地質時代を通じて地下水が浸透し,風化が進行して粘土化している。ところが斜面に堆積しているということは,その斜面は堆積物の安息角以下の緩斜面であることを意味する。したがって,宅地や畑地・果樹園として大いに利用されてきた。そのため,降下軽石層は台地上でも崖下でも切り出され露出させられた。雨水の浸透口と出口を人工的に作ってやったようなものである。結果としてパイピングを誘発し,粘土化した部分から滑ったのである。
 以上の事実は防災対策にも大きく影響する。シラス自身は流水の侵食には極めて弱いから,鉛直のほうが安定する。一見危険そうに見えるが滑るべき堆積物が載っていないから,常識に反してかえって比較的安全である。危険なところは降下軽石層の載った緩斜面である。したがって,降下軽石の降る前,すなわち1万年前には既に谷筋であったような古い谷が危ないのである。何十万箇所もあるシラス崖一般が全部危険なのではなく,地形発達史を考慮して降下軽石層の載る古い谷筋を抽出すれば,ハザードマップが作成できる。そこだけ事前の防災対策をほどこせばよいのである。それも崖面全体をコンクリートで張る必要はなく,降下軽石層に水を浸透させないように切り出し口を覆う程度でよい。これならば財政負担も少なくて済む。宿命としてあきらめる必要はない。
 こうした私の提言が受け入れられ,少しずつ対策が行われるようになったためかどうか知らないが,それ以降多数の犠牲者を出すようなシラス災害は発生していない。心から喜んでいる次第である。
 その他,崩災では九州山地にしばしば発生するクリープ性の大規模崩壊も研究している。素因となるのはスレート・千枚岩などの片状岩で常時クリープしてせり出しており,数十年のオーダーで小規模な末端崩壊を起こす。それがさらに進行して臨界状態に達すると,突然大規模な崩壊を起こすのである。植生から判断してこの大規模崩壊は数百年に1回の頻度で発生するらしい。したがって,二重山稜・凸状のはらみ出し地形・末端崩壊・根曲がり樹木などクリープに伴う諸現象に着目すれば,危険箇所を予知できる。なお,こうした野外調査と並行して,片状岩のクリープ特性を岩石力学的に究明している。
 また,最近では自然保護と山崩れといった面から,環境庁の委託を受けて屋久島や大隅半島の自然環境保全調査も行っている。応用化学の人に協力して,屋久杉の年輪や岩石・土壌の中の鉛の同位体比の経年変化から汎世界的大気汚染について研究し,化学会で発表した。環境地質学の体系化を模索しているところである。
 こうした災害地質学や環境地質学とは別に構造地質学プロパーについても研究を続けている。南九州は西南日本弧と琉球弧の会合部に当たっており,白亜紀の四万十帯が大きく屈曲するなど,地質学的に大変興味深い現象が見られる。一部の人たちからは,九州四万十帯は覆瓦状構造をなしていて,アクリーションテクトニクスの標式地であるとされてきた。しかし,基本的には島弧方向の古い褶曲とそれに直交する新しい褶曲が重複した結果形成された緩い波曲状構造が主体である。覆瓦状構造とみなされてきたのは,○○帯と○○帯との間には必ず大規模な構造線があるとする,従来の地質学上の固定観念に支配されてきたためでもあるらしい。また,その根拠とされた低角スラストと言われたもののかなりの部分は現生の岩盤地すべりを誤認したものらしい。中でも“延岡構造線”という第一級の断層によって白亜系四万十帯と古第三系日向帯とが境されると言われてきたが,今回,われわれの調査によって“構造線”の両側から古第三紀の化石が発見されたたため,地質調査所も新しい地質図幅では改定を行なわざるを得なかった。すなわち,今まで一番古いとされていた地層が一番新しくなったのである。
 上記のような野外研究と同時に,褶曲の形成機構に関する岩石力学的研究も続行している。同じ白亜系で地理的にも極めて近い熊本県天草島と鹿児島県北薩地方の四万十帯とでは,岩石物性が著しく異なる。砂岩を例にとると前者に比べて後者はP波速度が大きい。同じ孔隙率ならば,一軸強度・三軸強度共に後者のほうが小さい。すなわち,四万十帯は海溝に面したもぐりこみ帯に位置しているため,強く圧密を受けて孔隙は減少した。しかし,同時にはげしい褶曲や島弧の屈曲に伴って潜在的な微小割れ目が多数形成され,その結果,強度が低下したのであろう。それぞれのテクトニクスの違いを反映しているのである。なお,この研究に用いた三軸試験機も自分で設計し(科研費一般A),より使いやすいものを作成した。
 現在,科研費の試験研究で行っているのは,岩石破壊過程におけるフラクトグラフィーの研究である。従来の岩石力学は,岩石を完全に破壊した後,その破壊強度やダクティリティーを記録紙の上で計測するのが常であった。確かに建設基礎の岩盤強度を問題にするにはこれでよい。しかし,岩石の破壊過程において,割れ目がどのように生成されていくか,そのメカニズムを解明することは,構造地質学や地震学の基礎研究にとって重要である。同時に,割れ目の三次元的方位や密度(発達程度),割れ目の空隙容積を知ることは,鉱脈型鉱床や石油・地熱の裂か型貯留岩の探鉱・鉱量評価にとって基本的に重要である。
その他,割れ目の問題は,岩脈テクトニクスや火山の噴火予知(恐らくマグマ溜りは球体ではなく割れ目群であろう),あるいは石油地下備蓄や地下発電所などの地下構造物建設など,多方面に深い係わりを持つ。もちろん,岩石力学自身にとっても重要だと考える。例えば,石灰岩など一部を除けば,普通の岩石は珪酸塩鉱物(主として石英)から成っており,それは極めて弾性的にふるまう。岩石の塑性流動とは降伏点以降割れ目が生成し出すということであって,レオロジーではなく弾性体力学プラス割れ目で説明できるのではなかろうか。そこで,岩石供試体を一つのフィールドないし地球と見立てて,金属学で開発されたフラクトグラフィーの手法を応用してみようというわけである。現在,割れ目の三次元的方位を偏光顕微鏡下で多数簡便に測定するディジタルユニバーサルステージを開発して計測中である。また,こうした静的解析と平行して,実際に岩石が破壊するときの様子を動的に捉えるために,光ファイバースコープを用いて,高圧容器の中で起きる現象をビデオに撮る装置も開発した。
 最後に,多少数理地質学とも係わっている。今後の地質学は,単にハンマーとクリノメーターを持ってフィールドを歩くだけでは勤まらなくなるであろう。応用地質業界でもコンピュータの導入を真剣に考えている。これは,省力化合理化の側面もあるが,地質データを設計施工に生かすためには,いかに定量的なデータを取ってくるかが問題となっているからである。調査方針や調査の姿勢そのものに深く係わっている。幸い日本鉱業会の「鉱床探査のための数理地質学的手法の開発研究委員会」の委員にさせられたため,この問題も勉強しているところである。

 こうしてみると,環境が変る度に研究テーマを変えている。自分では,それなりの必然性があって,次の仕事に移行していったように思っていたが,置かれた立場で精一杯努力をしたら,結果としてこうなったというに過ぎないのかも知れない。学生時代教わったことから一歩も出ようとしない人が多い中で,少々度が過ぎたお人好しなのであろう。

(1986.6.28 稿)


ページ先頭| TARGET="mainFrame">地質屋のひとりごともくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日