岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 10


官民学共同のあり方―まず殻を破って,自主・民主・公開の交流を―

 言葉は使われているうちに特定の意味合いを持つようになる。「便所」があまりに直截的だとのことで「御手洗」になったが,やはりこれにもニオイが染みついたため,代りに「トイレ」になり,最近ではついに人形マークだけになってしまった。同様に,「産官学共同」なる語も,特定のニオイを発している。つまり,「進歩的」な陣営に言わせれば,「大企業の利益に奉仕することを目的とした産・官・学の研究者総動員体制」ということになる。確かにそう極めつけられても仕方のない面が多々あったし,今も存在する。そこで,本シンポジウムでは,無用の誤解を避けるために,「官民学共同」なる新語を創造したのであろう。言うまでもなく,学問は「学」の専有物ではないし,真の意味で学問を人類社会の福祉に役立てるためには,これら三者の密接な協力が不可欠である。とくに,「官」や「民」は国民の生活と密着しており,「学」だけ独り善がりになっていても,国民の生活は少しも改善されないからである。なお,このシンポジウムでは,「民」を民間会社の「民」とみなしているようだが,もう一つの大事な「民」,つまり国民の「民」・住民の「民」が欠落している。本来の「官民学共同」はこの意味の「民」にすべきものと思う。しかし,出発点が「産」の代語としての「民」だから,やむをえないのかも知れない。
 まず,「共同」を問題とする前に,それぞれの現状と問題点について触れておきたい。もちろん,小論では,一般論ではなく,筆者の専門である応用地質関連分野(土木・建設・環境・防災など)を中心に考察する。また,「学」の立場から見た側面であるから,一面性を免れないし,誤りもあることと思う。ご叱正いただければ幸いである。

1) 官庁の現状と問題点

 一口に「官」といっても,研究所と現業官庁では異なるし,国と地方公共団体でも異なる。とくに,研究所はそれ自体の問題を持っているし,「学」と類似した点もある。恐らく別項で論じられるだろうから,ここでは省略する。わが国における応用地質学の歴史を振り返ってみると,行政面で生きた現実と直面していた官庁技術者が,いつも新しい分野を開拓してきた。しかし,高度成長期の頃から,調査研究は民間に委託され,官庁技術者が直接手を下すことがなくなった。そのため,年輩層を除き,現場経験のある者が少なくなってきている。したがって,民間から提出された成果品を正しく評価することができない。結局,会社名を信用するしかなく,最近では,特定会社の特定個人を指名する,アメリカ的ないわゆるプロポーザル制になりつつあるという。官庁技術者のレベルダウンは,民間会社にとっては仕事が増えて結構な話である。しかし,こうした現場のわからない技術者が,行政の企画立案に当たることになり,大変心もとない。防災行政を例にとると,災害の予知予測の研究を行い,文字通り災害を未然に防ぐことが技術者の主要な責務のはずなのに,災害復旧費の陳情のための資料作りや復旧工事の設計監督に追われている。官僚は,2・3年先のことしか見ていず,国家百年の大計を考えないと,よく言われる。地質屋のように本来ロングレンジの発想ができる者が,大いに活躍しなければならないにもかかわらず,一般の事務屋と同じ使われ方をしているのは,大変憂うべきことである。

2) 民間会社の現状と問題点

 応用地質学は現場の科学である。その点では,民間会社が一番進んでいる。しかし,会社の社風によっても異なるが,ケーススタディーの積み重ねを一般化理論化して公表する姿勢に乏しい。施主との関係・守秘義務・企業秘密などの壁があることはよく理解できるが,もう少し何とかならないものであろうか。日本全体でみると,膨大な量のデータが蓄積されているにもかかわらず,残念ながらオープンに利用できる状態にない。
 また,現地踏査に対する評価が不当に低い。これは,施主である官庁側が地質調査の重要性を認識していないからである。物探・ボーリング・原位置試験・土質試験などの機器を使ったほうが金になるという。したがって,踏査は商売にならないから,どうしても手を抜くはめになる。現場だけの極く狭い地質図は作るが,周辺の広域地質図を作る余裕がない。本当は周辺の類似の事例から教訓も汲み取れるし,その現場の地質学的な位置づけがはっきりしてこそ,ケーススタディーも生きてくる。地質屋が現地を歩いただけで,どれほど多くの有益な情報を引き出すことができるか,官庁の土木屋さんたちに理解させる努力をすべきであろう。

3) 大学の現状と問題点

 大学は,相変らず象牙の搭に閉じこもっており,一番旧態依然としている。資源・エネルギーを外国に依存するようになり,金属・石油・石炭など鉱業が不振になって以来,わが国の地質学は経済的下部構造から切り離されてしまった。そこに,プレートテクトニクスが登場し,ますます実社会から遊離していった。現在の若手研究者層は,その頃育った人々だから,実学を亜流の学問として軽蔑する。その人たちが大学で教鞭を取っている以上,そうした雰囲気が拡大再生産されており,学生たちも,泥くさい地質調査業よりも,小ぎれいなコンピュータ産業などへ就職したがる。一方の年輩層は,肩書きを利用して知識を切り売りし,「官」や「民」に寄食するだけで,業界等で急激に進んでいる技術革新に対応できていない。いずれにせよ,今のカリキュラムは新時代にマッチしていない。地質学に対する社会の要請が資源開発から土木建設へ,そして環境保全へと重点を移してきているのに,教育内容は昔のままである。工学や農学など境界領域の人と対等に会話できるだけの共通の言語をもっともっと教えるべきだと思う。また,好むと好まざるとにかかわらず,数理地質学的手法の導入が避けられないのに,相変らず数学に弱い地質屋しか養成されていない。

4) 官民学共同の現状と問題点

 大学人が直接社会とかかわるのは,マスコミや住民運動と官庁の審議会などであろう。前二者についてはいろいろな問題もあるが,主題からはずれるので省略する。
 もっとも一般的なのが各種審議会の委員になることである。しかし,その審議会たるや,官僚がお膳立てをして,結論が先にあるような御用審議会が大部分と言ってよい。環境審議会が環境基準をゆるめたり,災害調査団が「未曾有の天災であって,国には瑕疵がない」などと結論づけるのがそのよい例である。さもなくば,議会答弁用の隠れ蓑に使われる委員会に過ぎない。「只今,偉い学者先生に研究していただいておりますので,暫時御猶予いただきたい」と,野党の追及をかわすわけである。したがって,こうした審議会の委員は,たとえ良心的な人であっても,住民側から見れば,十把一からげ「御用学者」とみなされてしまう。また,公団や協会など,各種の外郭団体を通じて行われる委託研究がある。これまたいろいろ,中にはキチンとした良心的な研究が行われる場合も少なくないようであるが。その他,地方公共団体でしばしば見られる例だが,本来,行政で行うべきルーチンの調査研究まで,大学に委託することがある。専門職の地質屋を雇うよりも,僅かの金で大学の先生を使ったほうが安上がりだからである。それに大学の“権威”も利用できて一石二鳥である。
 「民」とのかかわりは,国公立大学の場合,公然と顧問などには就任できないから,こっそりとアルバイトをする形でしか接触できない。しかし,最近成立した研究交流促進法で公然と産学共同の道が開かれたし,現行の科研費でも研究分担者に民間人を加えることが認められるようになったから,今後は産学共同という形で増える恐れがある。なお,一部の大学では,卒論指導を民間会社に委託する例があるようである。会社にとっては人手,学生にとってはアルバイト,大学は手抜き,というのではなく,「民」「学」の緊密な協力の下に行えば,生きた現場から新しいテーマが生まれる可能性がある。
 結局,今の官民学共同は,「官」や「民」は「学」の“権威”と第三者性を利用し,「学」は小遣い稼ぎをするといった程度で,お互いに適当に利用し合っているに過ぎない。
 最後に,「官」と「民」との関係は,基本的に発注者と受注者との関係でしかない。もっとも,こうした関係では金銭が絡んでくるから,ここが変に緊密になると,汚職や癒着といったかんばしくない事態が生じる。

5) 自主・民主・公開の交流を

 私は,新潟から鹿児島に転勤して来たが,鹿児島では毎年のように災害で尊い人命が失われているのに驚いた。新潟は全国一の地すべり県なのに,あまり犠牲者が出ていなかったからである。もちろん,地すべりと崖くずれでは運動速度が違うためであるが,その他にも行政の姿勢にも問題があるように思った。当時,地すべり学会の会員が,新潟県庁には100人以上いたが,鹿児島県庁は実にゼロだった。新潟県庁の技術者は,地すべり地に移動量計や水位計を備え付けて,適切な時期に避難命令を出せるよう,日頃から調査研究を続けている。中には立派な論文を書く実力者もたくさんおられる。一方の鹿児島県では,防災関係に地質屋はゼロで,土木屋さんは災害復旧などの後始末に追われ,とても予防策を研究する余裕がない。こうしたことが犠牲者数の違いに反映しているのではないだろうか。ひるがえって,新潟県庁に研究的な雰囲気が形成された理由を考えてみると,内部の人たちの努力の賜物ではあろうが,その他に新潟応用地質研究会という官製でない自主的な組織があり,「官」「民」「学」の人たちが立場の違いを越えて,対等に研究交流ができる場があったことも大きく影響していると思う。この中で培われた学問的な雰囲気が県庁内に自然と持ち込まれたのである。同時に,民間会社にも持ち込まれたから,会社の新潟支店にいる人たちもよく『地すべり』誌に論文を書いていた。また,この会を通して地質学の有用性が土木屋さんたちに印象づけられたから,県庁や会社にずいぶん地鉱の卒業生を採用していただいた。現在,新潟応用地質研究会は活動が停滞しているようであるが,1980年に山形応用地質研究会が発足し,活発に活動している。
 こうした経験に学び,まず,お互いが立場の違いを乗り越えてもっとフランクに交流することが第一歩であると思う。その際,自主・民主・公開の原則を貫くことが重要である。委員手当をもらうような「官」丸抱えの組織では,住民側から納得してもらえないし,癒着の原因にもなる。また,地質屋だけで狭くかたまるのではなく,土木・建築・砂防・林学・水理・等々関連分野の人たちも含めて,学際的な会にしていく必要がある。いずれ応用地質学は,地質工学だけでなく,環境地質学もそのレパートリーに含むようになるし,地質コンサルタント会社の仕事も,土木建設関連部門にとどまらず,環境アセスメントや防災アセスメントの比重が増大していくと思うからである。

5) 真の官民学共同とは

 本当の意味での官民学共同は,単なる研究交流にとどまるものではない。実際に学問的成果を行政に反映し,災害にも安全で,環境的にも優れた,住みよい街づくり・国づくりをめざすものでなければならない。したがって,開発計画や都市計画あるいは防災計画等の企画の段階から,三者が協力してプランニングに加わる必要がある。当然,地域住民の利害と直結するから,やはり,彼等にも主体的に参加してもらうことが大切である。ここで,冒頭に述べたもう一つの「民」の問題がクローズアップする。現在のように,「官」は秘密裏に計画し,土地収用法など強権を発動して実行する,それに対して,住民は長期の裁判闘争に訴えるといった図式は,一日も早く払拭さるべきだと思う。計画当初から参加していれば,いわゆる地域エゴの問題もある程度解決するのではないだろうか。
 このように「産」「官」「学」「民」の四者が協力共同して,豊かで住みよい日本を作る国土計画が実行できれば最高である。しかし,現段階では夢物語に過ぎないから,当面,地団研がやれることは,前述したような自主・民主・公開の交流を積極的に推進することであろう。各地各分野で,大小さまざまの組織ができればすばらしいと思う。

(1986.5.21稿 『地団研第40回総会シンポジウム資料集』掲載)


ページ先頭|地質屋のひとりごともくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日