岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

明日の地質学をめざして 1


防災科学と私

 ここ数年,毎年のように大きな斜面災害が起こり,社会問題になっている。しかし,あまり地質学者の関心を引いていないようである。災害=地震であって地震学者のやることであり,自分たちとは関係がないと思っている人が多い。とくに若い世代は無関心である。どうしてこうなったのであろうか。
 近代地質学は産業革命の申し子として誕生したという。つい20年ほど前までは,わが国でも地質学科卒業生の大部分は,資源エネルギー関係に就職していた。地質学を学ぶのは社会に貢献するためである,ということは自明であった。しかし,鉱山業が斜陽になるとともに,地質学は社会という下部構造から切り離されていった。その頃から高度成長期に入り,土木建設関係に卒業生が進出するようになったが,まだ土木技術者の脇役的存在だった。そこで,本来,応用地質学分野を強化し,新しい情勢に対応できる人材を養成すべき立場にあった大学が,自己改革を怠り,旧態依然たる教育体系のままで済ませてきた。いや,全国的に見れば,鉱床学の比重が低下した分だけ,ますます現実社会から遊離していったというべきであろう。もちろん,大学は産業界の要請にストレートに答えるべきだと一面的に主張しているわけではない。しかし,全くそこと遊離した趣味の世界であってはならないと思う。しかも70年代に入ると,プレートテクトニクスが一世を風靡し,マスコミにもてはやされるようになった。派手さを競うようになり,ますます地味な実学がうとんぜられるようになってきた。加えて,80年代の安定成長期になると,時代閉塞の状況が学生気質にも反映し,進取の気性が失われ,学習意欲が低下していった。それとともに社会的関心も希薄になり,自治活動も低迷状態にある。こうした状況が相乗して,現実社会で解決を迫られている問題が山積しているにもかかわらず,地質学者が己が城から一歩も出ようとしない風潮を生んだのであろう。ものの本によると,「壷中の天地,愚者の楽園」というのだそうである。
 かくいう私も,実は若い頃,地域問題や災害問題には全く無関心であった。確かに私の学生時代は60年安保闘争に明け暮れしたし,大学院時代は東大闘争の渦中にいた。つまり,闘争に始まり闘争に終った世代だから,私のような田舎出身のノンポリ学生でも,否応なしに社会に対して眼を開かされた。しかし,自分の生きざまであるところの肝心の研究は,「褶曲形成の場」,具体的にはスレート劈開の形成機構という極めてアカデミックなことをテーマとしていた。
 新潟大学の助手になってからも,「褶曲の形成機構に関する岩石力学的研究」にたずさわっていた。そうはいっても,地盤災害研究施設に所属している身であってみれば,メシを食わせてもらっている以上,月給分ぐらいは災害の仕事をしなければならない。そこで,地すべりと基盤の岩石物性や褶曲構造との関係について,いくつかの副業的な論文を書いた。むろん,私の意識としては,あくまでも自分は褶曲の研究をしているのだ,と考えていた。地すべりも単なる自然科学的興味だけでアプローチしたのであって,災害を社会現象とは見ていなかった。人間のことは眼中になかったのである。
 ところが皮肉なことに,この地すべりの論文が地すべりの教科書にしばしば引用されたため,人からは地すべりの専門家と思われるようになった。こうして10年ほど前,鹿児島大学理学部地学教室から応用地質学講座にお招きをいただいた。しかし,転勤を決めたのも,人事の交流を主張していた手前,同じ大学で昇格するのはよくない,と考えていたからであるが,何よりも九州は島弧の会合部に当たっており,四万十帯という未解明の地帯もある,フィールドとして構造地質学的に面白そうだ,というのが最大の理由だった。
 赴任した直後の1976年6月25日早朝,梅雨前線豪雨によって歴史的なシラス災害が発生した。鹿児島県内で32名,市内で14名の犠牲者が出た。うち4名は鹿大の学生であった。大学近くの学生下宿が崖くずれの直撃を受けたのである。早速,調査に出かけた。もう遺体は収容された後だったが,下宿の1階はまだ泥に埋っていた。泥まみれの目覚まし時計があった。6時半を指したままである。冷たい泥の中でもがき苦しみ窒息して死んでいった学生たちの姿が思い浮かんだ。
 この時計が私の人生観を大きく変えた。自分のところの学生が死んだというのは大変なショックである。新潟の地すべりでは死亡者の出ることはまずない。単なる学問的興味でもよかった。しかし,遺体発掘現場に花束をそなえ,線香をあげるとき,災害問題は片手間ではなく,本腰で取り組まなければダメだ,と痛感した。自分の持つ学問の非力を思い知らされた。
 地質学は地球を対象とする学問である。災害のようにローカルなことに首を突っ込むと,学界から忘れ去られてしまう。それでもよい,人の命は地球より重いのだから。こうして,私は応用地質学を本業とするようになった。

(1985.10.1 稿)


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更新日:1997年8月19日