岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

こどもと教育 12


科学する心を押しつぶす高校理科教育

―鹿児島大学理学部学生のアンケートから―

1) はじめに

 大学生が高校理科の教員免許を取るためには,自分の所属する学科以外の科目も満遍なく修得しなければならない。鹿児島大学理学部では,こうした学生のために「○○学概論」と称する教職科目をおいている。「地学概論」は,理学部の物理・化学・生物学科学生がそれぞれ約30人,それに農学部学生が約10人計100人くらい受講する。高校時代に地学を履修したことのない学生を相手にするのだから,なかなか大変である。しかし,最近は浪人を除き,大部分の学生は理科Tで曲がりなりにも地学分野の教育を受けた経験がある。そこで,今年の試験の時,「あなたの高校時代の地学教育(浪人は理科教育と読み替える)を振り返って,自分ならどのように改善しようと思いますか」といったアンケートのような出題をしてみた。なお,地域性をみるために,出身地を付記してもらった。「高校の先生方の勤務評定をしようというのではないから,高校名が特定されないよう,何県何郡程度でよい」と言ったにもかかわらず,学校名を書いた人は,得てして,その高校に対する恨み辛みを書いたものが多かった。なお,鹿児島県出身者は全体の57.5%である。以下,集計結果の特徴的な点を,生の声を中心に紹介する。◎印が引用である。句読点や漢字・かなづかいも含め,すべて原文のままとした([ ]は筆者の挿入)。

2) 高校教育全般について

 地学教育(理科教育)としぼって指定したにもかかわらず,高校生活全般について感想を述べた人がかなりの数いた。「灰色の高校時代」などと言われて久しいが,どうも近頃はそれ以上で,「高校とは思い出したくもないところ」であり,教師は怨嗟の的でしかないらしい。
◎ 全般的に今の高校教育はまさに“予備校”そのものと化した上,「教育」の名において,生徒を管理下におき,一挙一頭足[一挙手一投足?]までかんし[監視?]する最悪なものとなってしまっているように思う。特に,私の母校はその最たるもので,世の中の教育ママはありがたがって入れたがる学校ではあるが,教師というよりは学習指導のエキスパートたちが,大学入試のためにムチをふるいつづけ,「生徒の人権・人格? 半人前のお前たちにはそんなものはない」とばかりに校則をタテに教育というある意味では最も神聖なものをけがしつづけてきた。
◎ 学校では大学はどこに入るかなどという馬鹿げた世間体だけを考え,生徒のことはほとんど無視され,入れるところだったら生徒の意志とはちがっても,そこに入れてしまう。生徒は教師の奴隷と化す。
◎ とにかく僕の通っていた高校は,できるだけ多く国公立大学に行かせようと,しきりに数字ばかり気にしている高校で,偏差値が志望している大学にとどいていなければ面談をして,合格の可能な大学を受けさせようとする。特に僕らのクラスは,それがひどくて,自分の意志を貫こうものなら,先生とけんか,というふうになるくらいであった。全く生徒を信頼していない,生徒を無視した教育だったと思う。
◎ 一般に今の高校教育は,すべての科目において,とにかくつめこみ,試験のため受験のための教育(すでに“調教”といえるのではないか?)になっているといえる。また,そのような教育に対して反発をもつ生徒も少なくなりつつあるようにも思える。
◎ 私たちの学校は笑いがなかったし,ほんとに授業1本やりで,先生の考えとか興味あることとかあまり話してくれなかった。もう少し自分のことを話して,生徒の心をつかんでほしかった。
◎ これはもう,毎日毎日,通り一ぺんの問題をさせて,させて,させまくって,慣れさせるという形であった。
◎ 今の高校については「1日休めば1月かかってやっと授業においつくことが出来る」といったとんでもないスピードでもって授業がすすんでいるのが現実。
◎ 高校時代は疲れたなぁーという印象と,あれだけ勉強したことが[を?]今ではすっかりわすれさってしまったということを思うと,なんとなく虚しくなるきょうこのごろです。

 やれやれ,読んでいるうちに暗澹たる気持ちになってしまった。多感な青春時代のすばらしい思い出に満ちたところが高校であって欲しいものである。

3) すばらしかった地学教育

 自分の受けた地学教育がすばらしかったと答えた人は,ごく少数で1割にも満たない。やはり,その大部分は,地学を専門としている先生に教わった人である。何よりも先生の熱意が違うと指摘している。とくに,野外で化石採集や露頭観察をした経験は,大変楽しかったらしい。
◎ 地学の授業は大変面白かったです。何度か近くの海岸に行って岩石の種類などの説明をしたり[聞いたり?],断層の説明などもしたり[聞いたり?]しました。
◎ 採石場に行けば,化石やきれいな水晶が簡単に取れるのだという先生の言葉にのせられて,日曜日になると,友達と連れだって,ハンマー片手に出かけたものだった。帰りには,たいした収穫もないので,先生のホラをぼやきながら友達とブツブツ言っていたと思う。しかし,実物のフズリナ・ウミユリ・マグネタイトの結晶を見て,手にして感動したことを覚えている。
◎ 自分が実際に見たり触ったりしたことは決して忘れません。私も高校1年の時に長崎の茂木(地質学的に有名)に実際に授業で行きました。その時のことは今でも強く印象に残っています。百聞は一見にしかず,まさにその通りだと思います。
◎ 標本室での授業があったりして良かった。先生が「星をみることはたいへん気持ちがよく,心が休まる」と言っていたのが最近少しわかるようになってきて,ときどき友達の本をかりて,星座なんかも調べてみるようになった。このように僕の先生は,これは暗記科目だといったようなことは言わないで,知識を利用して何ができるかといったようなことを重点的に教えてくれた。
◎ ぼくの先生は,教科書にはのらない学会でしじ[支持?]されない説をたくさん教えてくれてけっこうおもしろかった。
◎ 地学の授業は好きではありませんでした。それでも地学に興味をもてたのは,先生が非常に熱心な方で,「僕は地学が好きだ!」という感じで教えて下さったからだと思います。

 ただ,残念ながら,こうした野外授業についてふれている人は,岐阜・山口など他県出身者ばかりで,鹿児島県出身者は皆無に近かった。なお,例外的に唯一人,他分野の先生に理科Tの地学分野を教わった人で,次のように述べている人がいた。
◎ 地学専門の先生では話されないような,自分が気付いたおもしろい点や,自分がよくわからなかった点,等についてよく話されました。私らには,その事がとてもうれしくて,授業をよく聞いていました。この先生のおかげで地学の分野に進んだ者がいるといっても過言ではありません。

4) 地学教育に対する不満

 自分の受けた地学教育に対する不満として,いろいろな点を指摘しているが(第1図),表現が違うだけで,ほぼ4つに大別できる。

(1) まず第一に,地学を専門としていない先生に教わったことを挙げている人が多い。理由は,前項の裏返しで,実力が伴わず熱意がないことである。このような先生は必然的に教科書中心・問題練習中心の授業を行うから,(4)の不満へつながっていく。
第1図 高校地学教育に対する不満
◎ どうしても地学の先生の顔を思い出せなかったが,よく考えると,地学の先生はいなかったのだ。多分,化学か生物の先生が授業をされたと思う。だから,全く面白味のない,ただ受験のためだけの暗記科目だった。
◎ その学問の面白さをよく知っているのは,その学問を専門とした人であると思う。それなのに地学を化学の先生に[が?]代わりに教える方針をとっているのはふざけた話である。私達は,高校で学問とはつまらないものだと教え込まれたようなものである。
◎ 理科Tの地学分野は,先生により手抜き率がちがう。
◎ 理科Tの授業はおそまつなものだった。それというのも,教師に地学の基礎知識がない上に,それを補う手段もほとんどなかったからである。
◎ 理科Tの地学は,地学の専門の先生がいなかったこともあって,学校側からも先生からもすごく冷ぐう[冷遇?]され,それこそ教え方もへたくそで,本当につまらなく思えた。
◎ つまりは,物理の先生に地学を教えさせたのがまちがいであり,その先生は「おいは地学はようわからん。」「プリントどうり[どおり?]にしてくれ。」といったという状態であったのでした。

(2) 次は,科目選択の自由がないことである。理系は物理・化学,文系は生物・地学が強制され,興味があっても履修できないシステムになっている。とくに,鹿児島県出身者にこの苦情が多い。回答者は理学部学生だから,ほとんど高校は理系であり,地学は選択できなかった。どうも地学は文系の学問で暗記科目だとのイメージらしい。これでは数理に弱い地学科学生が生まれるのも無理はない。学問の進歩とは逆方向である。
◎ うちの高校は,理系は地学を選択できないという恐ろしいシステムだった。
◎ 進学校と呼ばれる(?)学校だったので,地学の撰択[選択?]は,文系の生徒にしかなく,理系の生徒の中には,先生方に文句を言う人もいた。私自身,理科Tの授業が大変おもしろかったので,地学もいいなと思っていたところだったので大変残念だった。
◎ 地学は文系の人しかとれないようになっていた。自分の場合は最初から化学と物理を選択しようと思っていたので,それほど気にはならなかったが,自由な選択ができないという点で,少しいやな感じがしたのはたしかだ。それはどちらかというと,入試で高得点を上げるための学校側の方針であった。
◎ 私のでた高校では,理系にすすむ人には地学を選択させてくれなかった。生物も選択できないようにしている高校もあるときくけれども,好きな教科が選択できないのはおかしいし,少数だから切り捨ててもらっては困ると思います。

(3) 野外実習や実験がなかったことを挙げている人も非常に多い。とくに,鹿児島県では皆無に近いらしい。また,実験があった場合でも,回数は1・2回程度で,それも先生が行うデモンストレーション実験であり,実際に自分が手を下して行ったケースはない。これでは感動が生まれるはずがない。この点に対する不満が一番強いようで,次章で述べるように,自分が教師になったら改善したいことのトップに野外実習や身近な興味ある素材を使って教育したいとしていることにも表われている(第2図)。
第2図 高校地学教育で改善すべき点
◎ 一応,我校は進学校だったためか実験等はほとんどやった記憶がありません。従って授業そのものについては面白みに欠けていたようです。やはり理科教育においては,インパクトが重要であると思います。よって実際に実験等を生徒達自身にさせて実感として理解させる方がより自然界或いは自然界の諸現象に対して興味を抱くと考えます。生物,地学であれば当然野外授業は欠くべからざるものであります。要は,生徒が自分の生活圏内外に生徒達にとって新しいものを新鮮な目で見つめることが重要なことであると思います。
◎ プリントの括弧を埋めていく授業で,これといった印象がなかった。今の高校教育ではとうてい無理な話なのかもしれないが,私だったらこうしたい,こんな授業だったら楽しかっただろうなと思うことがある。人吉盆地は昔大きな湖だったらしい。まず一番身近な場所の地形やその地学的歴史を知る,というのが良いと思う。「共通1次の問題は解けるけど,自分の故郷のなりたちなんて知らない」教育とはそのようなものだろうか。
◎ 私の高校は,鹿児島市内のまさに進学校であったので,心に残るような地学の授業というものは受けた記憶がない。むしろ頭に残るよう,いろいろな公式や知識をやたらにたたき込まれた思いがする。我々は日本の中でも最も火山,内湾,自然などの地学の生きた材料にめぐまれた県に住んでいながら,それらには少しも目を向けようとしたり,地学を学ぼうと思ったりしないのだろうか。私は,その原因の一つには,学校の教育の仕方というものもかかわってくると思う。ただ,ノートと黒板を狭苦しい教育の中でにらめっこしているだけで,本当に雄大な地学という学問を理解・習得しえるだろうか。授業時間を少しでもさいて,クラス全体で城山や桜島の地質調査に出かけたり,博物館や文化センターなどの豊富な施設を大いに活用すべきではないだろうか。しかし,そういうことをやってはいけない,と教育方針で決っている以上,当分そういった状況は望めないだろう。
◎ 高校の時の勉強はほとんど大学受験のためのものであって,地学に関してもやはりあまりおもしろいものではなかった。地学というのは,自分たちの住んでいる地球のことを勉強するのだから,やはり自分たちの目で見て,ギ問[疑問?]に思うことがあってそれを調べたり聞いたりすることによって身についていくものではないか。理科という分野は,数学などとはちがって,もっと夢があっていいと思うのだ。
◎ 高校時代の地学というのは,大学受験のための地学であったような気がする。うまく言えないですけど,“なぜこうなのか”という事は教えず,“こうだからこうだ”という感じであまりおもしろみを感じなかった。たとえば,地層について勉強しているときでも,ただ教科書にのっている白黒の絵をみて,“ここの地層がここにあるから〜なのだ”といってもぜんぜん興味がわいてこないと思う。実際,外に行って野外で勉強した方が,興味もわいてくるし,すぐに覚えられると思う。
◎ まず,現実においてまっさきに浮かんでくるのは,地学に限らず,理科全般において,実験,野外観察等はほとんど皆無に等しかったということである。しかし,中学時代は,かなり頻ぱん[頻繁?]に化学,物理,生物,地学と全般にわたって実験,観察を行なっていた記憶がある。むしろ机上での講義の方が少なかったようだ。僕は今こうして理科系を選択して大学に入学したが,中学の頃のあの理科への執着は高校入学と同時に急激に失われてしまったような気がしてならない。
◎ 鉱物のことについては○○が多く含まれていて黒っぽいし,これは××岩だぞ,と教えられるのはいいのですが,実物がほとんどないため,回覧形式で見てまわるだけで,観察などは全然やりませんでした。だから,標本を出されて,これは何岩か,と聞かれてもわからない状態でした。せめて2人に1個位は標本が見れてルーペで観察できるような状態でありたいと思います。
◎ 高校時代の地学は生物と同じようにただの暗記科目で試験もとても楽な教科だった。岩石の分類の知識や天体,地球といったものしかなかった。とにかく,単なる知識にすぎず,自分で岩石を分類することなど出来なかった。だから今の教育は,本当に頭だけの地学でなんの体験もないものである。この点を考え直すべきであると思う。具体的にはろとう[露頭?]等の観察など,自分の目や手でもって感じとる学習が必要であり,実験室での実験はあまりにも単純でより複雑な外の世界を見るべきである。
◎ 高校での勉強は,はっきり言って大学入試のための勉強という感じで,ひたすら教科書だけを勉強していたような気がする。岩石の分野の時に,1度だけ○○岩とラベルのついた岩石の標本をみただけで,フィールドに出て勉強したことは一度もなかった。やはり,それではつまらなかったなぁという気がする。今,高校時代の地学のことを考えてもあまり思い出せないのは,そういうところにも原因があるのではないだろうか。

(4) 数が多かったのは,当然予想されたことではあるが,受験一辺倒の詰め込み教育に対する不満である。教科書を読むだけ,問題練習のみ,板書を書き写すだけ,等々さまざまな表現はあるが,同じことを指している。また,(3)の不満と同根でもある。こうした教育を受けた人は,大学に入学すると急速に学んだことを忘れてしまう。いわゆる“学力剥離型人間”の大量養成である。
◎ 高校一年の時に地学の授業をうけていたが,非常に眠たい時間をすごしたことを憶えている。時代や岩石などのいろいろな分類を暗記するのが苦痛だった。特に地学は他の物理・化学と比べて実験といえるようなものもなく,教科書を読むだけの味気ないものだったような気がする。専門に進む人はほんのひとにぎりであり,他の大部分の人にとってもっとも大事なことは地学の知識そのものというより,それをとおして環境などに対する問題意識をもちつづけることだと思う。
◎ うちの学校は進学校だったせいもあり,ただでさえ地学は冷偶[冷遇?]されていた。その上,やっている内容が問題中心だったため,生徒も先生も今一つやる気をかいていたようだ。おかしいと思う。理科というのは実学に近い。興味さえもてば別におしつけなくても,自分から進んでやっていくものだと思う。実際(僕は天文部に入ってました)我々のサークルの連中には地学選択者がいなかった。しかし好きなものだから,かってに調べたりして選択していた連中より地学に関してはよく出来た。理科などは実生活をしていく上でかかせないものだから,皆,本当は興味をもっているはずだと思う。だとすれば,その芽をつんでしまうような授業はしたくない。
◎ 現在の高校の理科教育は,大学受験重視で,実験がほとんど行われていない。これでは理科の学習はおもしろみがなくなる。実際,理科が嫌いな生徒は半数以上にのぼるという。
◎ 教科書とノートの勉強は,純粋な“どうしてこうなるか”“どうしてこうしなければならないのか”とかの疑問を気付くことなく,すごしてきて“おもしろくない授業”を受けてきたと思います。しかし,そうしなければ,教科書を時間内に終らせることもできないし,仮に現在,実験を行いながら理解していく授業を行うと,生徒たちの反感をまねくと思うし,困難なことであると思います。
◎ 理T[理科T?]の地学教育は共通一次に的をしぼってあったので,ほとんど“問題を解く”ということしかありませんでした。だから地学に興味をもつ人は少なく地学科を受験する人もほとんどいないというのが現状です。が,大学に入り,中免[中学校教員免許のこと]の地学実験なんかを受けていると,今までの地学に対する感じ方が全然違う。やはり,高校生活においてもこの感触を得てもらいたいと思う。
◎ 地学だけに限ったことではないですが,高校の“理科”はもう“科学する”ではなくて“暗記する”課目[科目?]になってしまっていると思います。受験戦争のへいがい[弊害?]といってしまえば,そうなのでしょうが,実際とは離れたところで,頭に知識をつめこんでも卒業してしまえば,何に役立つんだろうと思うだけで,自分の身辺にある環境や現象にも目を向けられないような人たちが増えるばかりじゃないかと思います。
◎ 地学だけでなく,高校理科全体に言えることであるが,自然を教えるときに,なぜといった部分があまりに簡素化されすぎていると思う。自然現象の原因と結果を教え込ませる[教え込む?]ことに意識がいきすぎていると思う。これはいわゆるつめこみ教育のため,大学入試のためのものではある。理科のおもしろさとは,この“なぜこうなるのか”を解明することにあると思う。
◎ 自分自身あまり興味もなかったということも手伝って,よく考えて,あまり印象にない。理科における授業全般に,黒板を写すだけのようなイメージも残っていて,あとで自分で問題を勉強して考えるというようなものであった。
◎ 授業内容などほとんどおぼえていません。おぼえているのは問題を解いた後の解答の時,先生のおっしゃる解答は問題の解答集をそのまま読むだけであったということだけです。
◎ 教科書を読んで,その中のキーワードをおぼえさせておしまいといったもので,はっきりいってほとんどためにならず,また興味ももてませんでした。
◎ 私は行動派です。私は昔から科学一般に興味を抱いていたが,高校のような黒板だけの授業はまっぴら御免であります。これこそ何の役にもたたない。実際,見て触れて,それについて考えてゆくものでなくては,創造力も出てくる余地がない。
◎ 全クラス共通のいかにも「共通一次対策の理科T」からとったコピーで授業していました。授業はというと,そのプリントを家でやってきて学校でこたえあわせ。それだけの授業でした。

 その他,理科Tそのものについても,中学理科と内容的に変わらず,マンネリで興味がわかなかったと述べている人があった。理科Tは,本来,自然を総合的に見る視点を養うのが目的だったのだろうが,そうした理想的教育をできる教師がいないため,結局,何人かで分担して,各自の専門分野の基礎部分をこま切れに教える結果になり,このような印象を生徒に植え付けたものであろう。学問が細分化され,あまりに分析的になってしまった結果,視野の狭い近視眼的な人間を生んでしまい,それが現在のような深刻な環境問題を生じさせてしまったと言われている。自然の復権が叫ばれている今日,高校教育の現状がこれでは寒心に耐えない。教師の力量向上が切実に求められていると言えよう。

5) どのように改善するか

 それでは,学生達は自分が教師になったらどのように改善しようと考えているのだろうか。第2図に示すように,野外授業を多く取り入れたいと書いている人が一番多い。その他いろいろ指摘しているが,自分が受けたような教育(調教?)だけはやりたくないと考えている。したがって,前章と重複するので,2・3の代表的な意見だけを紹介するにとどめる。
◎ まず,教科書だけにたよるのではなく,生徒を実際に野外へつれだし,五感で自然を感じさせ,実際に,地形図を書かしたり,岩をさわらせたり,取らせたり教育し,また,物理,化学,生物等の,授業とも,協力して,総合的な,科学の目を育成することを,目標とする授業を行いたい。試験のためだけに走る暗記は,絶対にさけたい所である。
◎ 自分が,もし,地学を教える立地[立場?]にたったら,その教える教材と自分たち人間との密接な関係を理解させ,地層だったら,地層や化石の時代の重みを,地震だったら,地震のこわさを,まず,教えてやりたい。なぜなら,P波,S波を知っていても,地震が起きたら,何も出来ないのだから。
◎ もっと点数をUPさせることよりも,生徒が不思議に思うことをいろいろ話し合い,それを図書館や博物館などのその方面で詳しい先生がたの話を聞いたりするのをとり入れることができれば素晴らしいと思う。そして学校の授業の間にそういうことに興味をもち,暇なときには自然について考えたり,自ら勉強していくことが必要であるように思う。Field に出て授業をするようなことも行ってみたいと思っている。
 ただし,こうした抱負も現実を考えると悲観的にならざるを得ない。現在の教育体制・学歴社会・教育ママ・無気力な生徒 etc. etc. ... そこで,こんな意見まで出てくる。
◎ 地学は,文系科目であり,暗記科目であるという位置づけであった。実際,少なくとも今の高校教科書を教えるとすれば,暗記科目になるのはさけられないことだと思う。そこで,地学教育の本質的改革は,文部省にまかせるとする。

 もっともこんな悲観論だけではない。自分の受けた予備校教育や卒業実験の経験(宮崎県)について述べ,現状でもやりようがあるはずだと,主張する意見もあった。
◎ 福岡の予備校に通ったが,ここでの地学はとてもおもしろかった。予備校での生活は,高校の時よりもハードであるように思われるが,この先生(女性)は,休みの日には,生徒を引きつれて,プラネタリーム[プラネタリウム?]を見に行かせてくれたり,岩石標本を見せてくれたりした。福岡の町中でさえも,これだけのことをしてくれたのだから,田舎の私の高校では,もっと野外授業ができたのでは,と思う。
◎ 僕らの科では卒業時に各々が実験をして発表するということをしました。実験の内容は自分たちに決定権があったので,自発的に行なっていました。今,高校でされているかは知りませんが,多くした方がよいと考えます。もっと行動的な教育を多くすべきだと思います。

6) おわりに

 以上,大学生の生の声を聞いてもらいたくて,かなりたくさん引用した。活字だけの知識でなく生きた知識を,もっと身近な地域に密着した授業を,教師としての資質を磨き教育に情熱を!と呼びかけている。彼らの後輩たち高校生の悲鳴が聞こえてくるようだ。これでは無目的入学や不本意入学が跡を絶たず,入学すると遊びほうけて大学がレジャーランド化するのは当然である。何しろ,「学問は必要悪であって,嫌なもの」と骨の随までたたき込まれてきたのだから。
 鹿児島大学入学者選抜方法研究委員会が過去5年間の成績追跡調査報告書をまとめた。本来,「取扱注意」の文書だったのに,読売新聞(1988年10月5日付)にスクープされてしまったので,その範囲内で紹介すると,鹿児島県内の高校出身者は,入試成績では上位を占める割合が高いが,教養・専門課程と上級になるに従ってシリつぼみになり,他地域出身者に比べ,上位成績者が減少する傾向にあるという。しかも大規模校(つまり鹿児島市内のエリート進学校)ほど減少率が著しい。これに反し,熊本・福岡両県は,シリ上がりに成績が上昇している。鹿児島県の受験教育の異常さは全国的にも有名だが,本当の意味での学力がついていず,入試向けのメッキでしかなかったことが,数字で裏書きされたと言えよう。単に真の基礎学力がないだけでなく,本アンケートにみられるように,「何のために学問をするのか」といった肝心の点で誤った認識を持っているため,入学後の学習の動機づけがなく,学習意欲もわかないのである。
 こうした事態は,地学にとってもゆゆしい問題である。大学生に地学のイメージを聞いてみる。「地球大紀行」との答えが返ってくる。何か生活や生産とはかけ離れた「おはなし」の世界なのである。地球物理学が防災など社会に貢献しているとは認識しているが,地質学は暗いマイナーなイメージしかないという。アンモナイト=中生代などと暗記するのが地質学だったわけだから無理もない。したがって,卒業後,地学を生かす職業につく人は半数を割る次第となる。これでは文部省ならずとも,地学科縮小廃止の声が出てきても不思議ではない。まさに存立の危機にある。小・中・高・大すべての地学関係者が一致協力して,緊急に打開策を講じなければならない。

(1988.12.26 稿,『鹿児島県地学会誌』62, 33-41, 1989 掲載)

<注>『地学教育と科学運動』誌に上記を若干手直しして掲載したがこのとき下記の追記を補記した。

[追 記]

 以上は,地学科以外の学生の感想である。では,当の地学科学生はどう見ているであろうか。1989年10月,教養部から理学部へ進学してきたばかりの地学科2年生にアンケートしてみた。回収率は進学者24名中22名(内女性は4名)の91.7%であった。
 まず高校で「地学」を履修した者は8名36.4%である。履修しなかった理由は,自分の高校では「地学」自体が開講されていなかったとする者が圧倒的に多く,理系コースのため選択できなかったとする者がこれに次いでいる。「地学」は高校では全く市民権がないらしい。特に,宮崎県などでは県の政策として全県的に「地学」を置いていないとのことであった。なお,担任の地学の先生から「地学科へ進学するなら,後で必要になるから物理・化学を取りなさい」と助言されたためという者が一人いた。
 履修した人の授業に対する感想は概ね好評である。地学科を志望したのだから当然といえば当然であるが。不人気の裏返しとして少人数教育が行われ,先生との親密感があったとしている。地質と宇宙・地球物理関係については,ビデオや実験を多く取り入れたところでは前者が好評で,「面白かった」「興味がもてた」「易しかった」と述べている。実験実習のなかったところでは,地質関係はつまらなかったという感想であった。どうも先生の専門を反映しているらしい。これまた当然であろう。
 なお,入学前の本来の第一志望を聞いたところ,他大学理学部地学科が最も多く6名27.3%で,本学本学科第一志望は5名22.7%である。両者を合わせると大学はともかく地学科を第一志望とした人はちょうど半数である。コンピュータが偏差値で選んでくれた第一志望であるから,必ずしも額面通りには受け取れないが,それでも彼らは「地学に興味があった」「化石が好き」「桜島があるから」「火山学講座新設の記事を新聞で読んだ」などと前向きな志望の動機を語っている。
 次ぎに多いのが,法・文・経・商など文科系学部の志望者で,やはり5名22.7%である。2次試験の科目に英語があったことと,地学は文系科目だからという。理学部である以上,数学・物理学は必須であるとガイダンスするが,「高校で教わらなかったのに大学の物理などはとても恐ろしくて選択できなかった」と述べている。論理的思考に弱く数理的知識もないから,進学してから大変苦労する。高校の進路指導に猛省を促したい。その他は,化学科・生物学科など理学部他学科や医・歯学部などで,農・工学部志望者はいなかった。

(1990.3.20 一次募集の合格発表の日に)
(『地学教育と科学運動』18, 69-75, 1990 掲載)


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更新日:1997年8月19日