岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

こどもと教育 11


校長への手紙

 この頃,わが子の生活ぶりを見ていると,大変心配である。勉強・勉強と脅迫観念に駆られて,かえって空回りしている。それもかなり学校の教育に原因がありそうだ。そこで,校長に以下のような手紙を書いた。偏差値を軸とした管理教育は,どこの県でも多かれ少なかれ存在するが,鹿児島県はその極端なところである。この手紙をお読みになれば,その一端がおわかりになると思う。

拝啓 時下御清祥のこととお慶び申し上げます。
 突然お手紙を差し上げる失礼をお許しください。先生には,高校校長会と鹿大の入試連絡会の際,遠くからお目にかかったことがありますが,桐野先生主宰の『シラス地域研究』誌上の論文を拝読して,お名前は前から存じ上げておりました。私は,応用地質学講座をお預かりしている関係上,シラスについても深い関心を持っております。また,大学周辺の地下水の塩水化の問題が深刻になりつつあり,水問題も勉強を始めたところです。どうぞ御指導かたよろしくお願いいたします。
 さて,今日お手紙を差し上げたのは,仕事の上でのことではございません。実は私の娘が貴高校の2年5組に在籍しており,大変お世話になっております。最近,彼女の生活ぶりを見ていますと,どうも心配なことが多々ありますので,御相談にのっていただきたいのです。
 高校進学に際して,中学の先生は市内の“有名校”に行くよう進められたのですが,中央高校の集団結核に見られるような異常な受験熱を煽る市内の高校は感心しないので,あまり管理主義教育が厳しくなく,自由な雰囲気のまだあると評判だった松陽高校にしました。塾にも通わず,自分で勉強して,学校も自主的に決めたのです。したがって,自分で選んだ学校ですから,よい友人もいるし,毎日が楽しいと喜んで通学していました。しかし,昨年と異なり,2年になると,様子が変わってきました。先生方は,この程度ならこなせると思って,それぞれ宿題をお出しになるのでしょうけれど,全教科出されると,それこそ大変,寝る時間もない始末です。「健康第一だから,早く寝ろ」というと,「宿題をやっていかないと,たたかれたり,正座させられるからいやだ」「他の人は他人のやってきたものを写して何とかノルマをごまかしているが,自分はそんなことはやりたくない」との一点張りで言うことを聞きません。先生方は,「大した体罰ではないし,正座など体罰でもない」とおっしゃるかも知れませんが,生徒にとっては耐え難い屈辱なのです。人間性を恥ずかしめるのは,体罰以上の非教育的処置だと思います。この頃は,学校で厳しく締め付けられている反動か,家では常にイライラして当り散らしております。毎日,寝ろ,寝ないの押し問答で,家庭全体の雰囲気が暗くなってしまいました。とうとう,喘息の発作が起きて,寝込んだり,学校を休んだりする日が何回か断続的に続きました。病気でも,その日の分の宿題は提出を求められるので,翌日は2日分と倍になり,快復する余裕がありません。睡眠不足がずーっと続いていますから,慢性疲労で,日曜日など死んだように昼過ぎまで眠ります。日曜は平常より宿題が多いため,またまた,徹夜をするはめになり,悪循環が断ち切れません。
 問題なのは,慢性疲労で授業中もボーッと聞いているのか,最近は,基本的なことまで理解できなくなってきたことです。前は,応用問題など,「あの基本事項の変形だよ」と,ちょっとヒントを出すと,すぐ「あ,ソーカ」とわかったものでしたが,最近はだんだん頭の切れ味が悪くなってきたように思います。これでは,宿題はまったくの逆効果で,練習問題をたくさん課したために,かえって基礎までわからなくしています。その生徒の持つ能力を開花させるのではなく,能力をダメにしています。第一,宿題をこんなに出される先生方自身,高校生の頃,そんなに寝ないで勉強したのでしょうか。自分に出来ないことを生徒に要求するのは,いかがなものでしょうか。
 もっと問題なのは,こんなに外的に勉強を強制されては,勉強嫌いになるか,学問の面白さを知らずに,大学へ進学してしまうことです。私が高校生のときは,数学はキチンと論理が通っていて大変面白いと思ったものですから,今で言う「頭の体操」の代わりにパズルでも解くつもりで楽しみながら,問題集を買ってきてはやっていました。先生から与えられたものではなく,自分にあった程度の薄いものを選んでやりました。厚いものに取り組んで途中で挫折するより,薄くても何冊も終らせたという征服感がなんとなく良かったのでしょう。また,国語の教科書に何か古典の一節が載っていると,すぐ岩波文庫を買ってきて全文読みました。短い文章の一言半句を文法的にゴチャゴチャいじくりまわしていたら,文学の面白さが消えてしまいます。古文でも,一冊まるまる読めば,多少わからない単語はあっても,全体の文意は理解できます。岩波文庫の黄色帯もずいぶん読みました。結局,著者の言わんとしていることを汲み取る能力がついたのか,外国語の勉強に大変役立ちました。
 こうしたゆとりがないと,広い視野も持てませんし,どれが自分の好きな学科なのか,自分の適性がどこに向いているのか,自分でつかみ取ることも出来ません。わが娘も,「先生から早く志望校を決めろと,やいやい言われるけれど,自分は何に向いているのか,ちっともわからない」と困惑しています。人生論の本なぞ読む心のゆとりはありませんから,結局,偏差値で学校を適当に決めるしか方法はないのです。
 また,今の大学生は,強制されて勉強させられてきましたから,学習はすべて受身で,単位のためにいやいややる必要悪になっています。「将来必要になるから,教養部時代に周辺教科も大いに学んでいらっしゃい」とアドバイスをしても,必修にしなければ絶対にやろうとはしません。受身のまま卒論になると悲劇です。テーマを与えただけでは手も足も出ません。いちいち,次はこうして,ああして,と指図しないと出来ないのです。これでは,新しい領域を開拓するのは不可能です。鹿大の学生だけがレベルが低いのではありません。どこの大学の先生からもこうした嘆きの声を聞きます。偏差値秀才・暗記秀才の集まる東大などは一番深刻です。研究総合大学院のように,大学から独立した大学院大学が全国の大学から俊才を集めてきたら脅威です。東大の地盤沈下は必至とばかり,学院構想など浮上策を模索しているのでしょう。私が在学していた頃は,田舎出身の本当に頭の切れる奴がいましたが,ここ十数年は,幼少の頃から塾通いをした都会の進学校からしか合格しなくなりました。与えられたことを憶えることだけは長けている学生が多すぎます。大学院の試験を受けさしたら軽く受かるだろうけれど,どうも発想がありきたりで創造性に乏しいから,研究者には不向きである,就職させてしまおう,と追い出した学生が,後で聞いたら鹿児島の某有名校出身だったという経験があります。
 また,こうした受身の人間は企業にとっても困りものです。私は理学部の中では少し異質の“応用”科学をやっているものですから,企業のトップとのお付き合いも多く,しばしば苦情を聞かされます。従来のように,外国のパテントを買ってきて,改良して輸出する時代ではなくなった。中進国に追われ,今や研究開発に一番力を入れなければ生き残れない。単純製造作業はロボットにやらせるか,海外生産で済ますことが出来る。これからの時代は,進取の気性に富み,どんどん新しいことにチャレンジする人間が必要で,指示待ち人間では通用しない。また,企業も多角経営が常態となり,10年前と同じことをしていては倒産してしまう。広い視野を持った人材が求められている,などと口々におっしゃっておられます。生き馬の目を抜く激烈な競争社会で生きている産業人は,教育界の人たちが考えていることの,ずっと先を見ています。その点,鹿児島の教育は,一昔前の高度成長期に大量に必要だった専門技術職,もの言わぬ従順な職人を養成する体制に,まだとどまっているのではないでしょうか。別に,教育は企業の要求するタイプの人材を供給するだけが勤めではありませんが,一考する必要を感じています。
 つまり,一人ひとりの個性・能力・人間性を最大限開花させてあげる人づくりが教育の原点ですから,鹿児島の教育はそれが忘れ去られていることに問題があるように痛感します。私の子供を見ていても,人を評価する基準が歪んでいます。成績や学歴が世の中のすべてだと,錯覚しているように思えます。高校時代は,人生の中で二度と来ない美しい青春の時期なのです。友情をはぐくみ,人間性を豊かにする大事な大事な時代です。大学生に聞くと,部活動に打ち込んできたごく少数を除いて,高校時代は思い出したくもない,という学生がほとんどです。こんなことでよいのでしょうか。有名校では,鹿大にくるのは“落ちこぼれ”なのだそうですが,ひとりでも歪んだ人間を作ってしまったら,教育にとっては重大問題です。物を生産する工場と違って,製品欠陥率1割で上々などとは言えないのです。人づくりの難しさ・恐ろしさを感じます。教師志望の学生には,この“恐ろしさ”を常に自覚していて欲しい,一人ひとりの生徒が生きている人間なのだということを何時も忘れないで欲しい,と言っています。教壇に立って,クラスの生徒が偏差値集団と目に映るようになったら免許状は返却せよ,とも言っています。
 いつか『南日本新聞』に同封のような拙文が載ったとき,ある転勤族の主婦から,「鹿児島に来たら,わが子が萎縮してしまって,子供らしくなくなりました。『教育疎開』したいような心境で,主人の転勤が一日も早いことを祈っています」などとの手紙を貰いました。地元の財界からも同封別文のような反響がありました。このままでは,わが子の人間的成長や健康にとっても,また,真の学力を身につけることにとっても,大変マイナスな事態が進行していると非常に憂慮しており,教授職をなげうって「教育疎開」をしたいくらい真剣に考えております。
 しかし,個人的には疎開で解決するでしょうが,鹿児島は明治維新以来,幾多の人材を輩出して来たところですから,放置できないと思います。また,大学人としても,このような管理詰め込み教育をされた学生が供給されることは,大変困ります。このままいくと,国立大学では優秀な人材が育ちません。
 ぜひ先生のお力を発揮していただきたいと切に希望いたします。文部省でも校則の見直しを言っているようですが,松陽高校で出来る改善策を具体的に実行してください。宿題のあり方や教育の根本についても,職員会議等で十分議論していただきたいと思います。
 先生はシラス地域研究を今も続けておられ,鹿児島では数少ないタイプの真の教育者とお見受けしておりますので,敢えてこのような手紙を失礼をも省みず差し上げたような次第です。よろしく御高配をお願いいたします。失礼の段,くれぐれも御容赦ください。

敬具

<後記>
 この文面では,校長は大変ものわかりのよい教育者のように書かれているが,実際は,この高校の初代校長がかなり自由なものの考え方をする人で,校則も県下で一番緩やかなものを制定し,各先生が自分の得意とする分野の特論的授業科目を設置したり,なかなかユニークな学校づくりをされていた。しかるに,昨年,この2代目校長が赴任してきて,引締めをはかったらしい。昨年は前任者の敷いたレールがあったから,今年が現校長の実質的な独自施策実施の初年度であった。先の特論を廃止するのはもちろん,全般に管理主義的な運営を行った。その直接の現われが,前記の手紙の内容である。別に皮肉のつもりで書いたのではないが,抗議文ではカドが立つし,やはり受け入れて欲しいので,やや婉曲に,かつ,少々おもねて書いたのである。

(1987 稿)


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更新日:1997年8月19日