岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

こどもと教育 1


入試改革敗北の弁―高校教師は強かった―

 早いもので共通一次制度が始まってから8年になる。いろいろの弊害が目に余るようになってきた。当初掲げた目標からほど遠いのが実情である。国大協もこれほど受験産業が猛威をふるうとは予想していなかったに違いない。大学も高校も家庭も共通一次体制に完全に振り回されている。何よりも子供たちが一番の犠牲者である。早急に事態の改善をはからなければならない。臨教審や国大協の批判をするだけなら簡単である。われわれ一人ひとりが身近なところで何ができるか模索する必要があろう。そこで,共通一次の8年を振り返って,反省の材料とし,また皆さんのご参考に供したい。もとより,われわれの狭い経験から見た側面を取り上げたのであって,一面性を免れない。共通一次体制そのものの批判や,さらには受験地獄を生み出している学歴社会などの社会的背景については,数多くの労作があるからここではふれないことにする。ただ,こうしたものの多くは,単なる現状批判で建設的な提案を伴わないものか,全ての責任を政治に押しつけるような論調ばかりで,われわれ自身が何をなすべきか,という視点が欠落している。その点が物足りないので,あえて狭い経験を述べる次第である。

1) 新制度のスタート

 この制度が国大協から提案されたとき,われわれの大学・学部は時期尚早として反対の意見だった。旧二期校の弊害を取り除き,受験生の負担を軽減するという謳い文句は魅力的だったが,もっとメリット・デメリットを慎重に検討してみることが必要と考えたからである。しかし,国大協で多数決で決まり,実際に実行されるのに,批判だけしていてもはじまらない。われわれの教室でも,やるからにはこの制度のもつ利点を積極的に生かそうと話し合われた。すなわち,本来,この制度は,一次は高校教育における学習の到達度を,二次では大学の学部・学科にふさわしい適性を見るという風に,両者を車の両輪のようにセットとみなしていた。二次の科目数が減った分,従来の入試でできなかったような丁寧な試験が工夫できると考えたのである。
 そこで,今までのような全学同一問題で行う一斉試験の方式を改め,学部・学科ごとに適性をみる独自の出題を行うべきだと主張した。高校教育全般に関しては共通一次で問うはずだから,例えば,同じ「地学」の問題でも,水産学部なら航海に不可欠な天文・気象に重点を置き,農学部は風化・土壌あるいは水問題を重視すればよい。理学部は地質・地球物理を主とし,天文・気象は省くといった具合である。しかし,入試は学生部の管轄のもとに全学一斉に行うものという中央集権的な発想が根強くあり,他学部には今まで出題の経験がないという不安感もあって,結局,理学部だけが学部独自の出題をすることになった。他学部の問題と独自問題の両方を作成するわけだから,完全な負担増である。その上,全学で地学科だけが面接も行うことにした。「大学生活の抱負」など小文も書かせた。適性を見るという二次試験の趣旨を生かすためには,手間暇かけてもよい。ぜひ地学に意欲のある学生を見出したいと考えたのである。

2) ユニーク入試

 初年度出題委員の会議が開かれ,どんな学生が望ましいのか,地学科学生にどのような資質が欲しいのか等について話し合われた。暗記秀才は欲しくない,もっとやる気のあるバイタリティーあふれる人材を取りたい。本学科はフィールドワークを重視しているから,野外に連れ出して露頭観察をやらせよう…などなどいろいろな意見が百出した。地学の研究は体力がものをいうから,桜島一周マラソンでもさせようか,といった笑い話まで飛び出した。結局,知識を試す問題は共通一次に任せて,大学教育で一番大事な理解力・考察力・総合的判断力を見ようということになった。本当は野外で観察力も見たかったが,時間的技術的に無理と断念した。次は,具体的にどんな問題にするかということである。議論の末,試験場で講義を行い,その内容に基づいて何かを考察してもらおうと決定した。知識の多寡を問うのが目的ではないから,講義は高校で生の形で教わったようなものではなく,かつ中学生でも理解できる内容のものにしようと申し合わされた。全員が各自の専攻分野について講義録を作って持ち寄り,討議した。講師に事故があったら,別の人が別のテーマで講義するわけである。結局,当日はスライドやプリント(科学史年表)を使って古生物学史の講義が行われた。ベリンジャーの偽化石や Homo diluvii (ノアの洪水で溺死した罪深い人間の化石)のスライドが映されたときには笑いが起き,教室外で待機していた事務職員はビックリしたという。話の内容は,化石と人間とのかかわりについて説きおこし,生物学と古生物学とが相互に影響し合いながら発展してきた様子をやさしく歴史的に述べたものだった。設問は,@講義の要約,A生物学と古生物学との相互依存・相互発展の関係についての考察,B試験の感想の3問である。顕微鏡がいつ発明されたとか,ダーウインの『種の起源』がいつ刊行されたとかいった類の年表に書かれてあるような事項を羅列した人は,当然,点数が悪かった。そういう人は概して共通一次の成績が良い。「すぐれた記憶は弱い判断力と結びやすい」(モンテーニュ)のだろうか。
 翌年度以降もいろいろなユニーク入試が行われた。例えば,海底で枕状溶岩が生成している様子を記録した映画と,陸上溶岩のさまざまな産状をビデオで見せ,その違いや枕状溶岩の形成過程を考えてもらうのもあった。昨年度は,野外に連れ出す代りに,ラックフィルム法で剥がしてきた本物の露頭を試験場に持ち込み,実際にそばに出てきて観察してもらった(図1)。設問は,@地学的特徴がわかるようにスケッチせよ,Aその特徴からわかる現象を列挙し成因を考察せよ,というものだった。この露頭は理学部増築に際して基礎の掘削時に採取したもので,河川扇状地から三角州の堆積物である。「理科T」の問題だから,選択で地学を取らなかった人には,あまりに地学的で不利かと心配していた。実際は杞憂であった。礫という言葉も知らず砂利と書くような,明らかに地学を取ったことのない受験生がいた。しかし,彼(彼女?)の答案は見事だった。砂利の大きさは右のほうが大きく,だんだん左に行くほど小さくなるから,右のほうが上流である。また,砂利の中には丸い軽石が多く含まれているから,上流は火山地帯に違いない,などとよく考えて答えていたのである。これに対し,不整合・基底礫岩・クロスラミナなど専門用語を連発して,地学の知識をひけらかしている受験生の中には,次のようなひどい例もあった。すなわち,インターフィンガーしているところを,よく教科書に星形に描かれている火山の下のマグマ溜まりと誤解したらしい。マグマが冷えたものだから,これは花崗岩である。花崗岩の周縁には接触変成帯がなければならない。そこで,スケッチに花崗岩と書き(ちゃんと+印まで入れてある),その周りに接触変成帯を書き加えたのである(図2)。総じて,地学選択者のほうが自分の頭で考えようとせず,あまり知識のない者が,一生懸命自分の頭で考えようとしており,極めて対照的なのが印象に残った。
図1 入試で使用した本物の露頭
 鹿児島大学理学部2号館地下工事現場からラックフィルム法で剥がしてきたもの(プラスティック製のレプリカではないから、礫質等触って見ればわかる)
図2 ある受験生のスケッチ
 @弥生時代に人が塗った泥らしい(考古学者による)
 A弥生式土器だと、口頭で説明してある
 B本当は軽石礫
 第2問は,旧式な振子式地震計を実際に手で触ってもらい,慣性の法則やテコの原理を考えさせる物理的な問題だった。これも,地震計だから地学の問題であり,高校では地震計など見たこともないといって,最初から考えることを放棄した者と,ともかくいろいろいじくって考えてみようとそばにへばりついてねばった者とに分かれた。

3) 理想と現実

 共通一次の目的の中には,受験体制でゆがめれれた高校教育を正常に戻す一助としたい,というのもあった。われわれも暗記暗記の詰め込み教育を助長しないようにと気を配ったつもりである。高校地学教育も,野外で自然に接し,自然を愛する気持を養うようにして欲しい。地学科には,その中から本当にやりたい人が進学してきて欲しい。
 しかし,われわれの願いもむなしく,高校側は今度は共通一次シフト体制を取った。また,二次も上述のようなユニーク入試では対策を立てにくいし,黒板だけの授業をしていたのでは合格させにくい。本当にその子が合格できるかどうか予想もできない,と高校教師側から大変不評であった。最近では,総スカンどころか,積極的ボイコットにまで至っている。教え子を受験させないのである。地学を志望する者がいたら,いわゆる「傾向と対策」がやりやすく合格を保障できる他大学を勧めるという。誠に現実は厳しい。結局,共通一次の成績が悪い者は,他の大学には絶対入れないが,ユニーク入試なら万が一にも引っ掛かるかも知れないとして,そうしたいわゆる偏差値の低い子を送り込んでくる。本人の意志や適性とは無関係にである。まして,地学に興味がないどころか,地学の何たるやも知らない者までいるのだから悲劇的である。だから,入学後イメージが全然違ったとして転学部を希望する者や,はてはノイローゼになる者まで出てくる。まさに人権問題である。聞くところによると,国立大学に何人押し込むかで高校や教師のランク付けが行われているという。ノイローゼになった女子学生の例では,本人は親友も行く私立女子短大に行きたかったが,お前の成績なら国立に入れるからどうしても国立へ行け,と先生に勧められたとのことである。それでは4年制なら英文科を,と希望したけれど,共通一次の点数が少し足りないから地学科にしろ,と指導されたという。合格させるのは子供のためであり親の願いである,と言ってはいるが,これでは自己保身のために子供を犠牲にしていると非難されても仕方がない。  一方,生徒のほうにも問題がある。こうした教師や親の姿勢が反映してか,「入りたい大学より入れる大学」というわけで,コンピュータが選んでくれた第一志望が多い。昔のように「山が好きだから」といった自分なりの理由がない。だから,卒業に当たって「やれやれこれで地学と縁が切れる」とばかり,全く地学とは無縁なところに就職していく次第となる。今年は地質関係の会社に就職した者はゼロであった。
 われわれのところでは,入試改革の試みと平行して,入学後の追跡調査も行っている。入試の成績・教養部での留年・学部の成績・卒論の出来栄えなどを比較検討してみた。初期には,共通一次秀才が卒論でつまずき,一次はそれほどでもなかったが,二次の良かった者のほうが真面目でよく頑張るというので,大分気をよくしていた。しかし,最近は,いわゆる偏差値の良い学生のほうがやる気があるのではないか,との声が出てきている。偏差値の低い者は,幼い頃から「お前は頭が悪い,ダメだ,ダメだ」と言われ続けてきた。自分は本当にダメ男だと思い込んでいる,いや思い込まされているのである。だから,チャレンジしてみようなどと意欲がわくわけがない。「どうせボクなんか」と尻込みしてしまう。それに対し,偏差値の高い者は,成功の経験がありほめられたことがあるから,やってみようという気になる。結果的に,共通一次で成績の良い学生のほうが,入学後も伸びているというわけである。
 人材の兵糧攻めにあっては降参するしかない。高校側に屈服して,とうとう今年はいわゆるペーパーテストに戻ってしまった。単なる知識を試す問題にしないよう,考える問題を作ったつもりだったが,やはり共通一次とかなり相関が良かった。人間の能力のうちの同じような側面を問うているからであろう。

4) 高校と大学との意志の疎通を

 今まで述べてきたことは,大学側の一方的見解である。高校の現実が生易しくないことは承知しているつもりであるが,あえて言わせてもらった。高校教師は口を開くと,教育委員会のしめつけが厳しい,親からの要求もある,良心的な教育をしても,子供たちが受験戦争から落ちこぼれてはかわいそうだ,などという。しかし,本当に子供たちが可愛いのなら,せめて教師側はそれに迎合しないで欲しいと思う。意に沿わない人生を送るくらい不幸なことはない。頭が良いばかりに,嫌いな医学部に入れられた気の毒な例もある。第一,人間の価値はどんな大学に入ったかで決るのではなく,どんな人生を送ったかで評価されるのである。そもそも人間の評価などはその人の死後できるのであって,18,9才で云々するのは早すぎる。
 一方,大学側も反省しなければならない。実際に適性を見る二次試験といっても,あまりに手間がかかりすぎるので,独自出題方式の理学部でも,他学部入試と共用問題を出すなど,二次試験の理念が後退している。また,相変わらず点数信仰も根強く,客観テスト万能論も払拭されていない。本学科でも,当初十分な討議をしたはずであったが,実際には齟齬があり,出題委員が変わると,ユニーク入試になったり,在来型のペーパーテストになったりして,高校側や受験生にとまどいを与えたのも事実である。さらに,何よりも,入試は大学の専決事項であって,高校側と協議する必要はないとの考えが残っている。  今,臨教審では共通テストなど入試改善策が練られているという。どんな立派な制度を作っても,それを受け入れる社会のほうが変らなければ,いじればいじるほど悪くなっていく。前述のように共通一次が良い例である。しかし,子供たちの真の幸せを願い,日本の将来を考えるなら,もっともっとみんなで努力する必要がある。大学側と高校側の両者が真剣に協力すれば,もう少し展望が開けてくるのではないだろうか。今のままでは,心ある人まで入試改革に対する情熱を失ってしまう。われわれも努力するが,高校側も発想を転換して欲しい。切に希望する次第である。(1986.3.15 合格発表の日に)
「追記」
 地学科のような事態が他学科でも起きている。最近1・2年、他学科でも面接を行うようになってきたが、来年からは地学科以外は全部廃止することになった。例えば、化学科の場合、面接で実際に薬品を見せ、本当に簡単な実験の真似事をさせたところ、その情報が伝わった鹿児島市内および近郊からは、2次募集の応募がゼロであったという。高校では黒板の授業だけで、実験器具は触れさせたこともないから、鹿大化学科の受験生のためには、実験の特別補習授業をやらなければならないと大変不評で、高校側からボイコットされた由。「高校教育の歪みにこちらが合わせなければ、お客さまが来てくれません」と、化学科教務委員が自嘲気味に話しておられた。昔は、化学といえば試験管を連想したものだが、今では化学式を暗記することなのであろうか。
 来年度からは、国立大学の受験機会の複数化(A・Bグループ分け)に伴って、受験生の急増が予想される。全国的に合格発表の期限が決められているから、極めて短時間に採点しなければならない。いきおい手間のかかる記述式が姿を消し、○×式や穴埋め式の知識を試す問題が復活するであろう。遂に共通一次の理念までが実務面から崩壊する。ますます暗記教育が助長されるに違いない。嗚呼!(1986.6.27 入試小委員会を終わって)

(「大学入試改革と高校地学教育」と改題して『地学教育と科学運動』15掲載)


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更新日:1997年8月19日