岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

地質屋のひとりごと 1


ロッジ「ちしつや」―私の夢―

 1985年暮,学生巡検(地質見学旅行)の指導で有田みかんで有名な和歌山県有田市に行った。山々にはみかんがたわわに実り,緑に映えて美しい。空は青く澄み,海も穏やかである。うららかな小春日和の一日,海岸を調査していると,本当に幸せな気分になる。こんなところに住みたいなあと心から思う。
 学者商売はプロの世界であり,それだけの厳しさが要求される。研究者は常に独創的であらねばならないから,能力のない者や創造性の枯渇した者は,席を去るべきだ。しかるに,研究をしない自由を謳歌している人やルーチンの作業を研究と勘違いしている人が何と多いことか。定年までじっとしていただけの“不”名誉教授も多い。一方,学問の目的は,どのような純アカデミックなものであれ,究極的には人類の幸福の追求にあるはずである。とくに応用地質学は社会との関わりが深い。なおさら暖かな人間性が要求される。厳しさ一辺倒の競争社会は私の性に合わない。
 それでは何でメシを食うか。応用地質学を専攻している関係上,今でも地質コンサルタント会社からお招きの申し出はある。しかし,折角の第二の人生,できれば全く別の分野で自分の可能性を試してみたい。それに学者の世界と同様のギスギスした社会はもうたくさんである。実は私には一つの夢がある。山小屋のあるじにもなってみたいし,童話作家にもなってみたい。南紀の海岸を歩いていて良いことを思いついた。義兄が那須高原に温泉付き土地を提供してくれるという。しかし,あそこは冬寒いし,火山は私の専門ではない。南紀で海の家を開いたらどうか。早速,宣伝文句が浮かんだ。

ロッジ 「ちしつや」
併設: 南紀自然史博物館・児童文庫
☆ 地質巡検・地質野外実習・生物臨海実習に最適 ☆
西南日本外帯の代表的地質が全部見学できます   
地質巡検案内・地質野外実習指導をお引き受けします
薄片製作器具・偏光顕微鏡・OA機器あります   
地学科・生物学科の学生院生の方は特別割引致します

 黒瀬川構造帯が位置する湯浅町名南風鼻付近にこぎれいなロッジを建てたらどうだろうか。数十人が泊れる主として学生相手の民宿である。みかん山に囲まれ,海に面しているすばらしいところだ。ここなら北の中央構造線や三波川帯を見学に行くにしても,南の四万十帯や熊野酸性岩類を巡検するにしても,ほぼ中央に位置し大変便利である。夏は海で泳げるし,冬はみかん狩りができる。臨海実習にも適している(幸い私の妻は元生物の教師である)。
 この付近には,新旧の地層・各種の火成岩変成岩・断層・褶曲・不整合あるいはオリストストロームなど各種の堆積構造が見られるし,化石も多産する。野外実習(進論)にはもってこいの場所である。各大学の非常勤講師に発令してもらっておけば単位も出せる。もちろん,数日の巡検案内も引き受ける。
 また,フィールドのど真ん中に住んでいるのだから,私自身の研究にとっても申し分ない。構造地質学の研究はもちろん,三波川帯の地すべりや四万十帯の大規模崩壊など災害地質学のテーマもたくさんある。時間をかけてじっくりとした研究ができる。精度の良い地質図を作っておき,進論の学生に模範解答として見せることも可能である。
 なお,このロッジには,自然史博物館を併設する。第一室はこの付近に見られる代表的な岩石や化石を陳列し,この地域の地質図類を展示する。顕微鏡で岩石の薄片も見せたい。もちろん,西南日本の構造発達史や古地理の解説パネルも貼る。次いで第二室はこの付近の植物や海草類あるいはそこに住む鳥獣魚類を展示する生物コーナーとしたい。第三室は私の地質関係の蔵書や別刷など文献を並べた地質図書室兼研究室である。パソコンとモデム電話を置いておけば,JICST などのオンライン文献検索も利用できる。第四室には岩石カッターやろくろ・偏光顕微鏡などを置き,石工室兼地質実験室とする。フィールドですぐ薄片が見られれば,岩石鑑定能力がつくのは間違いない。進論など初級教育にはもっとも望ましい。
 最後にもう一つ児童文庫の部屋も作りたい。現在もわが子に買い与えた二千冊あまりの絵本や児童書を基に家庭文庫をやっている。われわれ夫婦は幼い子供が大好きだから,これを続けたいのである。こうして子供たちに囲まれて童話でも書いていられたら最高である。
 人には夢が必要だし,人生いつになってもアンビシャスでなければならない。しかし,この夢を実現するには資金がいる。私には金もうけの才はない。やれやれ教科書の原稿でもコツコツ書いて,印税稼ぎをしょうか。これが南紀の白昼夢に終わることのないように。

(1985.12.3 稿)


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更新日:1997年8月19日