日本学術の質的向上への提言(各論)
[6]地質科学

第4部 岩松 暉 (日本学術会議学術の在り方常置委員会報告, 47-50.)


1 対象となる学問領域

 地質学geologyは,外国では字義通り「地球科学」の意味で使われるが,わが国では地球物理学などを除いて狭義に使われることが多い。しかし狭義の場合でも構造地質学のような物理学的分野,岩石学のような化学的分野,古生物学のような生物学的分野と多岐にわたる幅広い分野をカバーしている。また国立大学理学部における地質学の特殊性として純粋科学的分野だけでなく応用科学的分野も併置していることが挙げられる。明治期の大学制度発足時,理学部にある諸分科の応用部門は工学部・農学部に設けられたが,資源探査は鉱床成因論など理学的視点を踏まえないと出来ないことから,応用地質学は理学部に置いたものらしい(工学部資源工学科の出自は採鉱冶金学科)。ここでは応用地質学の立場から地質学を概観してみたい。

2 日本における当該学問の状況

 欧米の地質学が自らの手で産業革命を遂行する中で博物学から脱皮し,近代科学へ成長したのと異なり,明治期わが国の地質学は既製品を欧米から輸入することによってスタートした。いわば欧米が土づくりから始めて植物を育てたのに対し,切り花を輸入したのである。この歴史が未だに尾を引き,欧米やソ連(当時)で生まれた理論にわが国のデータを当てはめて解釈するといった風潮がある。ただしプレートテクトニクス(プレート変動学)に代表される地球科学革命の時期には,島弧である日本からも大きな貢献があった。
 20世紀後半,地質学を支えていたインフラが資源産業から土木建設産業に取って代わったとき,アカデミズム地質学は資源に固執し実社会から遊離してしまった。そのため土木地質学は民間人の手によって進めざるを得なかった。若い変動帯ゆえに地質の脆弱な日本列島で,大型構造物の建設を可能にしたその技術的レベルは高く評価されるが,学問的レベルまでに昇華されているとは言い難い状況にある。

@日本地質学小史

 わが国の地質学は当初実学として導入された。幕末の1968年フランス人コワニエが薩摩藩の招きで来日して鉱山地質学を伝え,1872年北海道開拓史仮学校にアメリカ人ライマンが招聘されて主に燃料地質学を教授したのである。しかし1875年ドイツ人ナウマンが首都東京に赴任し,東京大学と地質調査所(国立研究所第1号)という学と官の要衝を押さえたため南と北の伝統は途絶えた。以後ドイツ流のアカデミズム地質学が支配したが,資源地質学中心であることには変わりはなかった。東京大学第1回卒業生の小藤は,卒業後すぐドイツに留学して当時の最新知識である偏光顕微鏡岩石学を学び,帰国後ナウマンに代わって母校の教授となった(理博第1号)。以来若くして留学し,欧米の最新知識を輸入教授する「輸入学問」の学風が定着したといってよい。
 テクトニクス(地質構造発達史)では一貫してドイツ流の地向斜造山論が主流だったが,戦後民主化の嵐の中でソ連流のブロックテクトニクス(垂直昇降説)の導入が行われ,両者の激しい対立があった。しかし所詮地向斜造山論という旧来の土俵の中での党派的争いに過ぎなかった。科学パラダイムをめぐっても厳しい対立があった。とくに岩石学への熱力学導入をめぐって激しい論争が行われた。一方は実験岩石学や同位体年代学の成果を大いに取り入れ,自然を解釈しようとした。他方はこれを物理化学主義として排斥し,地質学は歴史科学であって地質学独自の法則性があると主張した。この対立は60〜70年代のプレートテクトニクス論争にも持ち込まれた。地球物理学者が導入に積極的だったのに対し,どちらかというと地質学者は反プレート派が多くブレーキをかけたと言っても良い。
 しかし日本からこの地球科学革命に貢献がなかったわけではない。革命前夜の50年代,深発地震面との関係を論じた久野久のマグマ成因論,都城秋穂の対の変成帯概念,杉村新・松田時彦らによる共役横ずれ活断層に注目した東西水平圧縮応力場の提唱などが行われていた。60年代初頭大洋底拡大説が出たとき,中央海嶺で広がり続ければ地球は膨張するしかないと問題になったが,このとき上記久野久らの学説がプレート収束域の地質現象を示すものとして脚光を浴びた。大洋中央海嶺と島弧,プレート生産の場と消費の場とがセットになって,はじめて辻褄が合うことになったのである。こうして60年代末にプレートテクトニクスが誕生し地球科学革命が行われた。
 なお最近,OD21(21世紀における深海掘削計画)・地球シミュレータ・地球フロンティアなどの国際的ビッグプロジェクトが進行している。地質学に関係深いのはOD21で,深海底掘削船「ちきゅう」が建造中である。単なる内需拡大や経済的国際貢献に終わらせないためには人材の養成が課題であろう。

A実学としての地質学

 前述のように地質学は資源産業と共に発展してきた。岩石学や鉱物学は金属鉱物資源探査に,堆積学や古生物学は石炭・石油資源探査に不可欠であった。戦後も石炭・鉄鋼の傾斜生産方式が採用され,地質学は戦後復興の旗手としてもてはやされた。応用地質学イコール資源地質学の時代が50年代まで長く続いたのである。大学の研究教育体制もまた資源中心に編成されていた。しかしその中でも現在の応用地質学につながる芽も芽生えていた。20世紀初頭,丹那トンネル工事や関東大震災後の帝都復興事業などの過程で,土木地質学的ないし地質工学的研究が鉄道省の渡邊貫ら官界の地質家の手によってなされていたからである。世界的に見ても先駆的であったがアカデミズム地質学からは無視されてしまった。
 戦後食糧増産のかけ声の下緊急開拓事業が行われ,水文(水理)地質学に対する社会的要請が強まったが,アカデミズム地質学は岩石や地層以外相手にせず,これも農林省など官界の地質家の手によって発展させられた。エネルギーの面では電力再編成が行われ,佐久間・黒四など大規模ダムが次々と建設された。土木地質学の勃興である。地質学科卒業生が土木建設方面にも進出するようになっていった。もはや戦後ではないと言われオリンピックブームに沸いた60年代から高度成長期に入り,土木地質学は隆盛を極めた。社会資本の充実に果たした役割は高く評価して良い。この頃から応用地質学イコール土木地質学と認識されるようになった。しかしアカデミズム地質学は依然として象牙の塔に閉じこもり,地質学を支えるインフラが土木建設産業へシフトしたことにも気づかず,旧来路線を墨守しバスに乗り遅れた。結局土木地質学は大学の支援なしに自学自習,民間の手によって開拓せざるを得なかった。このことはサイエンスとしての基盤の脆弱性を意味した。工学に引きずられ理学の視点がややもすると忘却されがちであったと言わざるを得ない。どうしても施工サイドへの貢献に力点が置かれ,土木主導の乱開発を許してしまった一端の責任はある。とはいえ客観的に見れば日本の土木地質学は世界のトップレベルに達していると言っても過言ではない。わが国のような若い変動帯は安定大陸に比し地質条件が非常に悪い。その悪条件を克服してトンネルやダムを建設してきたのは,土木技術だけでなく土木地質学の進歩のお陰である。地質調査の面でも世界的レベルに達していたのである。青函トンネルが好例である。しかし主として公共事業と共に発展してきたから,守秘義務の壁に阻まれて民間地質コンサルタントに論文公表の自由がなく,ノウハウとして個人ないし社内に蓄積されたままにとどまっていた。どうしても理論化・普遍化に難点が出てくる。しかし今後は情報公開法制定により論文公表の自由が拡大するであろうし,JABEE(日本技術者教育認定機構)による大学教育プログラムの審査が始まって大学も社会へ眼を向けざるを得なくなるから,産学官の歩み寄りが行われ徐々に改善されて行くであろう。

B環境地質学へ

 21世紀は地球環境時代である。先進国では土壌・地下水汚染などの地質汚染が社会問題化しているし,途上国では水資源の不足に悩んでいる。21世紀には水をめぐって戦争が起きるかも知れないとの不気味な予言もある。地球温暖化に伴って自然災害も激化するだろうという。自然環境との調和したまちづくりも求められている。環境地質学や災害地質学への社会的要請が強まりつつある。爆発する人口を養うためには地球工学的側面も重要である。こうした趨勢の中でわが国の大学では,ここ数年で地学科の多くが地球環境科学科に改組された。環境地質学はまだ学問として体系化されているとは言い難いが,やがてこうした新領域が主流となって行くであろう。

3 日本の当該学問の世界における位置,その評価されない諸事情

 前述のようにアカデミズム地質学の面では,外国で斬新な理論が提出され,わが国は残念ながらそれを裏付けるデータの提供者にとどまっている。とくに近年“業績主義”による評価が行われているためパラダイム転換を企てるような大志を抱く者がいなくなり,通常科学的にデータ生産を行って論文数を稼ぐ風潮が蔓延しているからである。また,地質科学の根幹をなすフィールドサイエンスに従事していたのでは論文数がどうしても少なくなる。室内で分析機器を運転するルーチン作業のほうが効率がよい。実際,産総研の地質文献データベースGEOLISの収録件数は年々15,000件だが,地質図索引図に収録される地質図付きの論文は200件に過ぎないという。この格差がこうした事情を雄弁に物語っている。
 実学の面では,技術水準は欧米に比して決して見劣りはしないが,守秘義務の壁に阻まれて個人や会社のノウハウにとどまっており,学問のレベルに高める努力が必要である。

4 改善策

 幸い日本列島はプレート収束域という地質学的に重要な位置にある。かつて地球科学革命期に貢献したように,日本というフィールドに根ざしたフィールドサイエンスの復権がわが国の地質学発展の鍵となるであろう。もちろんそれは些末な記載を意味しない。グローバルな視野から理論化・普遍化の努力をしなければならない。それには地質学における業績評価の仕方を学問の特性に応じて抜本的に改善する必要があろう。
 さらに今までのように古典的アカデミズムの世界に閉じこもるのではなく,環境・防災といった社会のニーズにも積極的に応え,環境地質学ないし社会地質科学の創造も展望する必要があろう。学問は生きた現実と切りむすび、歴史の大きなうねりに乗ったとき、飛躍的な発展をとげるからである。産学官の人事交流も望まれる。

<注>
 日本学術会議の学術の在り方常置委員会で対外報告書を出した時に書いた各論である。章立てなどの様式は指定されていたので,それに従った。


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更新日:2003年2月16日