実践的地質学の源流としての薩摩

 岩松 暉(『鹿児島県地学会誌』62号,17-32,1989)


1.はじめに ―わが国最古のクリノメーター―

 鹿児島の尚古集成館には,数多くの島津斉彬(1809-1858)の収集物が展示されている。私は,その収蔵品の中から,わが国最古と思われるクリノメーターを発見した(写真-1,2)。名票には単なる測量器械とあった。しかし,東西が逆に刻印されているし,何よりも振子が付いている。おまけに90゜までの目盛も打ってある。明らかに傾斜を測定する道具である。方位を狙う折り畳み式のアリダードまであり,鏡がないだけでブラントンコンパスそっくり,ただ,水準器がない。裏にネジ山が切ってあるところをみると,平板など別なものに付けて使ったものらしい。恐らくそれに水準器が付いていたのであろう。そのためか,本体には製造会社名や国名など一切書かれていない。どうしてこんなものが尚古集成館にあるのだろうか。

写真-1,2 わが国最古のクリノメーター(尚古集成館蔵)

 ここの収蔵品はすべて斉彬侯の収集されたものと言われているが,私は,恐らく斉彬侯のものではなく,1865年(慶応元年)薩摩渡欧留学生としてイギリスに密航した15人のうちの田中靜洲(朝倉盛明,1843-1925)の持ち物か土産ではないかと推測している。彼は途中からフランスに移り,鉱山学を学んだからである。あるいは,島津茂久(忠義,1840-1897)の招きで1867年(慶応3年)に来薩したフランスの鉱山技師コワニー(Françoi COIGNET, 1835-1902)のものかも知れない。現に,これと同型のものが生野鉱山にあり<注>,コワニーのものと言伝えられているという。鉱山学校で有名なドイツのフライベルグ製で,輸出向けに作られたものであろうとのことである(ドイツ語なら東は Ost で,E ではなく O のはず)。また,ステッキの頭に付けて使ったものらしいという(清水,談話)。
<注> 実際に生野鉱物館を訪れて現物を拝見したが、直径20cm程度の大型のもので、傾斜を測る錘も付いていず、クリノコンパスではなかった。(2007/7/15)

2.朝倉盛明

 田中靜洲(朝倉盛明)は,1843年(天保14年:陽暦1844年)薩摩藩士田中伊平衛の次男として城下の上の園(鹿児島市上之園町)に生まれた。数え年10才にして藩医萬膳玄正に医術を学び,後1860年(万延元年)長崎に遊学して,蘭学を修めた。1862年(文久2年)藩の海軍再建(斉彬の作った水軍隊は一時廃止されていた)に当たり,藩命により帰藩して天祐丸に乗船,翌1863年(文久3年)の薩英戦争に従軍した。ちなみに天祐丸の艦長は,後に渡欧留学を推進した五代才助(友厚:のち大阪商法会議所会頭,1834-1885)であった。1864年(元治元年)藩が陸海軍の教育のために開成所を創設すると同時に,句読師(教授・助教授・訓導師の次の地位,現在の助手に相当?)となった。
 薩英戦争に手痛い敗北を喫した薩摩藩は開国論に転じ,五代の建言(『五代才助上申書』)を入れて欧州視察団の派遣を決定した(公爵島津家編輯所,1928)。いわゆる薩摩藩渡欧留学生である(写真-3,4,5)。人選は,主として開成所関係者を中心に行われ,その中に田中がいた。当時23才であった。結局,15人の留学生が,1865年4月17日(旧暦元治2年3月22日)串木野の羽島港を出港,英国ロンドンに赴いた(写真-6)。国禁を犯しての密航であるから,表向きは甑島・大島視察とし,それぞれ変名を用いた。田中は朝倉省吾(靜吾)である。同年6月21日(慶応元年5月28日)ロンドンに到着したが,朝倉は,11月には中村宗見(博愛:外務大書記官, 1843-1902)と共にフランスに渡り,パリでモンブラン伯(Charles Comte de MONTBLANC, 1832-1893)のところに寄寓,フランス語・殖産・鉱山学を修めた。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会では,薩摩藩出品文物の説明にも当たっている。

写真-3 若き薩摩の群像(西鹿児島駅前広場)
写真-4 留学生渡欧記念碑(串木野市長崎鼻公園))
写真-5 渡欧留学生出港の地=串木野市羽島漁港
写真-6 英国滞在中の薩摩藩留学生(左端が田中静州)

 同年7月帰国し,再び開成所で訓導師として勤務した。帰国後も変名の朝倉省吾(靜吾)を名乗っていた。藩に迷惑をかけない便法として用いた変名であったが,主君の命名ということで,その後も変名をそのまま用いた人も多い。11月8日薩摩藩の政治顧問格となったモンブランが,鉱山技師コワニー夫妻・坑夫1名と共に来薩したが,朝倉は五代と共に上海まで出迎えている。政治情勢が風雲急を告げ,出兵した茂久の後を追ってモンブランが五代らと兵庫へ向かった後も,コワニーは薩摩に残った。朝倉は,フランス語と鉱山学の知識を買われてコワニーの通弁として起用され,その後1年間一緒に薩摩藩内の串木野・山ヶ野・谷山・永野などの諸鉱山の調査に当たっている。当時は,地質(探鉱)と採鉱は未分化であったから,鉱山技師であると同時に鉱山地質家でもあった。すなわち,朝倉はわが国地質家の草分けであり,鹿児島は実践的地質学の発祥の地と言えよう。なお,五代も枕崎市の鹿篭金山はじめ各地に鉱山を開き,鉱山業の発展には大変大きな貢献をした。
 1868年(慶応4年)明治新政府の発足に伴い,コワニーが御雇い外国人第1号として,鉱山顧問に招聘されると,外国事務局御用掛として,これに従った。同年(明治元年)9月28日には鉱山司判事試補の肩書で,コワニーと共に生野銀山の視察に赴いている。生野鉱山はしばらく廃坑になっていたが,12月鉱山司生野出張所として操業を再開,朝倉が所長となった。コワニーの提案による再建策が軌道に乗り始めた1870年(明治3年)9月,朝倉靜吾は鉱山権助に任ぜられ,これを機に朝倉盛明と改名している。それまでの生野鉱山は,幕府直轄とはいうものの,実際の経営は山師と称する実力者に任され,下財という名の坑内夫らは,それに雇用されていた。幕府は彼らに対して手厚い保護政策を採ってきた。それが明治政府直営になって既得権を奪われた上に,近代機械の導入による雇用不安などから,不満がうっ積していた。1871年(明治4年)10月14日,地租改正に対する不満,米価暴騰・水害などが重なって,ついに暴動にまで発展した。主要な建物は焼討ちにあい,朝倉たちの努力は水泡に帰してしまう。当時,朝倉は大阪へ出張中,コワニーは機械購入と技師雇用のため帰国中であった。朝倉は,急遽帰任,「頑民」に対する秋霜烈日の処断を要求し,斬首・絞罪10名を含む過酷な処分が行われた(石川,1957)。「飯蛸(井田五蔵:生野県権知事)や,セイゴ(靜吾)は先に逃げて居ぬ,白洲捕亡(白洲文吾,群衆に惨殺された:捕亡は巡査の意)串にさされて」と落首されたという。12月にはコワニーが土質家ムーセ夫妻らを連れて帰任,再建に当たった。失業と生活不安に脅かされていたこの町も,建設が軌道にのると共に,次第に活気に満ちた異国情緒豊かな町へ変貌する。一時は医師ら24人に及ぶフランス人が雇用されていたという。こうして官営鉱山第1号として近代的西洋鉱山技術の粋を誇り,明治政府の富国強兵政策の屋台骨を担ったのである。1876年(明治9年)には近代化計画が完成,5月23日に参議工部卿伊藤博文臨席のもと,生野鉱山器械落成式が挙行された。鉱山助朝倉盛明が建設工事の経過報告を行った。「…坑内役夫ニ至リテハ,旧時ノ如ク短命ニ罹ルノ憂ナク,坑道ノ広キ,空気流通シ,人々各寿ヲ保ツニ至ル,是盛明深ク歓喜スル所ナリ…」と,朗読しながら自ら感動して声涙共に下った(石川,1957)。鉱山の所管が工部省・農商務省・大蔵省・宮内省と移り変わったが,朝倉は生野の現場から決して離れることなく,坑夫たちと寝食を共にしながら,終始その長として発展のために尽力した。広く職員・住民から“長官”と呼ばれ崇敬されていたという。今も生野の町に盛明橋として名が残っている。1893年(明治26年)退官したときは,御料局理事生野支庁長であった(写真-7)。退官の直接のきっかけは,益金年割額変更に伴う譴責処分を受けたことであった(吉田,1984)。その後の大幅拡張計画が,出水事故等による工事遅延で,当初目標の利益をあげられなかったことの責任を取らされたのである。しかし,当時はようやく社会も安定し,身分制度も確立して,大島道太郎(のち東京帝国大学工科大学教授,1860-1921)ら新進気鋭の学士が活躍しはじめた時期であり,維新の動乱期に実力でのし上がってきた風雲児は消え去るしかなかったのではなかろうか。先の大幅拡張計画も大島の意見書(『生野鉱山鉱業改良意見書』)に基づくものであった。朝倉は,引退後一時大阪に住んだが,その後京都今出川に移り,一切の世事にかかわることなく,先祖の供養に勤め,悠々自適の生活を送った。再び生野を訪れることはなかったという(吉田, 1984)。

写真-7 御料局生野支庁長時代の朝倉盛明

3.コワニー

 当時の日本語表記では,コウネ・コワニ・コワニー・コハネ・コハニー・コワニエ・コワニエーなどいろいろ呼ばれている(葉賀,1984)。コワニーは1835年フランス東部ロアール州サンテチェンヌSaint Etienneに生まれた。1855年有名なサンテチェンヌ鉱山学校を卒業して,1856年〜1860年Vialas銀鉛鉱山に勤務した。その後,スペインをはじめ海外で活躍した。アルジェリアのGar Randau鉱山にも2年間勤めている。1862年にはマダガスカル科学探検隊にも参加し,旅行記を残した。さらに,ゴールドラッシュで沸くカリフォルニアに渡り,数年間金鉱探検に従事した。それからメキシコ探検にも派遣されている(石川,1975)。
 先にも述べたように,1867年(慶応3年)薩摩藩の招きで来日した。当時32才であった。これは,新納刑部(のち家老・大島島司,1832-1889)・五代友厚らとモンブランとの商社仮契約の付属文書に,鉱山開設のため「土質學(地質学の意)の達人を相雇ひ,國中普く點檢して其場所に應し至當の業を可相開候」とあるのに基づくものであろう(公爵島津家編輯所,1928)。来薩後1年間,藩命により,薩摩・大隅・日向3国内の鉱山調査に従事していた。母岩の特徴・母岩と鉱脈との関係・鉱脈の大きさと方向・変質の状態・脈石の性状・鉱物の随伴関係など,詳細な調査を行っている。

写真-8 F. コワニー(1872年37歳)

 翌年明治維新に遭遇,そのまま明治新政府の御雇い外国人第1号となって,朝倉と共に生野鉱山に技師長として赴任した。後に工部省鉱山師長(ing@nieur en chef des mines du Mikado)となった(写真-8)。工部卿伊藤博文宛の書簡には肩書を工質家(土質家の誤植か)としており,一般には土質家と言われていたらしい(土井, 1978)。生野では,西福寺という浄土宗の寺に仮寓し,鐘楼の傍らに仮分析所を置いて,自ら化学分析も行っている。その結果,従来の幼稚な冶金技術のために金銀を分離できず,含金量の多いものほど粗悪品として安く取引されていたことを発見した(石川,1957)。そこで銅鉱開発の方針を転換して,金銀中心の経営方針に改めるよう建議している。この建議が受け入れられ,新しい鉱山機械を輸入したり,フランス人技師を多数招いたりして,生野鉱山の近代化が推進されたのである。同時に,コワニーは教育面も重視し,「仏国の鉱学教師をして生徒を訓導せしめ,生野鉱山を修学実験所となし,人材の輩出を俟たば,事業興隆すべし」と建議している。こうして1869年(明治2年)生野鉱山修学実験所(後の生野鉱山学校)が開設され,コワニーが教授職兼任となった。鉱山地質家としても優れており,伊予の別子銅山や大和の天和銅山など各地の調査にも当たっている。1874年(明治7年)には『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse min@rale du Japon)を著し,母校同窓会の姉妹協会に当たる鉱業協会彙報に発表した。この論文は,日本の地質構造の概要*),日本鉱業の現状,日本古来の採鉱冶金法の概説の3章から構成され,実に多方面に渡って論じている。鹿児島**)については,薩摩藩滞在中の観察に基づく,山ヶ野・芹ヶ野・神殿・鹿篭・錫山などの記載や,はては野間岬の海百合石灰岩の記載まである。また,鹿児島付近では穿孔性の貝化石を含む凝灰岩層が海抜40mも高いところにある事実を指摘し,隆起運動を論じている。1876年(明治9年),この論文に対して金メダルが授与された。同年夏には工部省鉱山寮の命により,秋田県阿仁鉱山・院内鉱山など東北北海道の鉱山の点検を行っている。ついに竣工なった生野を後にすることになり,11月18日離盃会が催された。人々の心を打つ宴だったという。1876年(明治10年)1月末日付けで満期解雇となって,翌1878年(明治11年)5月に帰国している。帰国後はフランス国内の鉱山に勤務,晩年は持病のリューマチに悩まされて,郷里で療養生活を送り,1902年(明治35年)逝去した。同窓会の弔辞によれば、極めて温厚な性格で憐憫の情が厚く,外貌の厳しさにかかわらず明朗な人であったらしい。先年の生野の強訴の後も,民心の動きには暖かい顧慮を払うようにと,アドバイスをしていたとのことである(石川,1975)。夫人はリヨンの名家の出で,子供はいなかった。

4.実践的地質学の疎外と日本的アカデミズムの形成

 コワニーの来薩に続いて,1872年(明治5年)アメリカのライマン(Benjamin S. LYMAN, 1835-1920)が来日した(当時37才)。北海道開拓使の招きであった。主として北海道の炭田調査に従事し,1876年(明治9年)わが国最初の本格的着色地質図である『日本蝦夷地質要略之図』(The geological sketch map of the island of Yesso)を著した。その調査助手として開拓使仮学校(札幌農学校の前身)の学生10名余を選び,測量学や地質学などの教育を行った。彼らの中から石炭地質家や石油地質家が輩出した。その後,内務省・工部省に移り,全国油田調査事業に着手,1882年には『日本油田之地質及地形図』を出版した。もっともこれより先,箱館奉行の招きで,1962年にアメリカの鉱物学家兼鉱山技師ブレーク(William P. BLAKE, 1826-1910)と鉱山技師兼地質学家パンペリー(Raphael PUMPELLY, 1834-1923)が来日し,わずか1年余りであったが,箱館に滞在している。この間,渡島半島の地質調査に当り,わが国最初の路線地質図を著わすと共に,鉱師学校を開設して鉱業や地学関係の教育を実施した(土井, 1978)。この学校出身者に近代鉄産業の基礎を築いた大島高任(道太郎の父,1826-1901)がいる。
 このように,日本最初の近代地質学は,薩摩・蝦夷という南北両端で,資源地質学として輸入され,その後のわが国の産業革命に大きく貢献した。あたかもハットン(James HUTTON, 1726-1797)・スミス(William SMITH, 1769-1839)・ライエル(Charles LYELL, 1797-1875)といった近代地質学の父たちが,イギリスにおける産業革命の発展のさなかに活躍した事情を彷彿とさせる。しかし,日本では,自ら産業革命を遂行する中で,学問を築いていったイギリスとは異なり,既成の学問の輸入として始まったため,こうした実学の中から新しい芽が生まれることがなかった。 コワニーやライマンの残した実学は,学問の世界では亜流として退けられ,弟子達もあまり重んじられず,南北の伝統は途絶えてしまった。例えば,生野鉱山学校においてコワニーや朝倉の教育を受けた弟子に高島得三(1850-1931)がいる。地理局地質課(地質調査所の前身)に入り,『山口県地質図説』など優れた地質論文をまとめたが,間もなく地質家をやめて林学に転向し,後には北海と号して南画家として著名になった。また,ライマンも多くの弟子を養成した。幾春別・奔別炭田を発見した島田貞一・山際永吾,夕張炭田を発見した坂市太郎,秋田の油田を調査した賀田貞一などである。こうした業績にもかかわらず,ライマン説をめぐる神保―坂論争に見るごとく,彼らは一様に実務家として一段低く見られていた。
 このような風潮を作った遠因は,ライマンに遅れること3年,1875年(明治8年)にドイツのナウマン(Edmund NAUMANN,1850-1927)が首都東京にやってきて(当時25才),東京大学と地質調査所,すなわち学・官の要衝を押さえたからである。彼は『日本列島の構成と生成』({ber den Bau und die Entstehung der japanischen Inseln, 1885)など多数の論文を著して,日本の地質学に大きな足跡を残すと共に,ドイツ的な教育体制を整備し,その後の方向づけを行った。彼自身は地質調査所を設立して全国地質調査事業を始めるなど,実践面も重視したらしいが,炭田とか油田のような応用地質調査については,ライマンほどの能力がなかったという(木村,1978)。1877年(明治10年)東京大学(のち帝国大学,さらに東京帝国大学と改称)が創設され,ナウマンはその初代地質学教授となった。ナウマンの教えを受けた第1回生の小藤文次郎(1856-1935)は1879年(明治12年)に卒業しているが,同年ナウマンは東京大学を解職され地質調査所に移っている。その後しばらくの間教授陣は必ずしも満足すべき状態ではなかった。日本人教官をできるだけ育成しようとの配慮から,大学を卒業したばかりの非常に若い助教授や準助教授が任命されている。彼らは,必然的に,外国(とくにドイツ)に留学して得た新知識を直輸入してきて教えるといった教育を行わざるをえなかった。例えば小藤も,ドイツに留学してチルケル(Ferdinand ZIRKEL, 1838-1912)から純アカデミックな顕微鏡岩石学を学び,帰国後1884年(明治17年)には母校の講師となった。1886年(明治19年)には教授に昇格している。このような状態が続いたため,実社会とは遊離した教育が行われるようになり,こうして,東京帝国大学を中心に,実学を軽視した日本的アカデミズムの伝統が形成される。
 わが国で第2番目の地質学科は1912年(大正元年)東北帝国大学に設立された。土木地質学誕生の契機となった1918年(大正7年)の丹那トンネル掘削開始の直前であり,もっとも爛熟した形のアカデミズムが杜の都仙台の地に移植されたのである。次いで,1921年(大正10年)に京都帝国大学に3番目の地質学科ができた。未曽有の大災害をもたらした関東大震災の直前ではあったが,すでに丹那の洗礼は受けていた。また,この年は,実学を嫌った小藤が東京帝国大学を退官した年でもあった。いわばきわどい時に設立されたと言える。一方,アカデミズムの本家である東京帝国大学は,実学を軽蔑しつつも,首都に位置し,かつ,官吏養成機関としての性格上,国家的要請には逆らえず,その後も何らかの形で,生きた現実社会と関わらざるを得なかった。丹那の工事に際しても,横山又次郎(1860-1942)や地理学科辻村太郎(1890-1983)の両教授が関係しているし,1923年(大正12年)には『地質工学』の名著で名高い渡辺 貫(のち日本物理探鉱鰍設立,1898-1974)ら卒業生を鉄道省に送り出している。土木建設方面に地質学科卒業生が進出した嚆矢である。正確に言うと第一番目は,1922年(大正11年)に内務省土木試験所(現建設省土木研究所)に入所した高田 昭(1898-1987)である。高田はわが国における土質工学・岩石力学の始祖といわれてる。彼ら官界の地質家が,わが国における土木地質学を生み出していった。

5.おわりに ―応用地質学の発展を―

 以上概観したように,わが鹿児島は,北海道と共に,日本の実践的地質学の発祥の地であり,それは同時に,近代地質学が輸入された最初の地を意味する。しかし,残念ながら地元に根付くことがなく,地質学の中心は中央へ移ってしまった。
 それから約1世紀,1950年(昭和25年)東京帝国大学の大塚弥之助(1903-1950)のもとで温泉地質学を専攻していた露木利貞(現鹿児島大学名誉教授,1922-)が新設の鹿児島大学に赴任してきた。1965年(昭和40年)には文理学部の改組に伴い,露木によって理学部に応用地質学講座が設立される。現在では,実践的地質学は鉱山地質学から土木地質学(応用地質学)を指すように変わってきたが,旧制大学はもとより,新制大学発足当時から理学部のあった旧医大系の大学では,すべて応用地質学とは鉱床学(鉱山地質学)を意味している。大学の教育体制は,常に社会の発展から一歩遅れをとっていると言われるが,その好例と言えよう。こうして後発であるが故に,たまたま鹿児島大学に国立大学で最初の応用地質学講座が誕生した。実践的地質学発祥の地に生まれたのは誠に奇しき因縁である。しかし,未だに全国で一つしかない(表-1)。

表−1 国公立大学理学系学部における応用地質学講座
大学名学部名教室名講座名実際の内容
秋田大学鉱山学部鉱山地質学応用地質学岩石学
山形大学理学部地球科学応用地学古生物学
千葉大学理学部地学応用地学応用地形学
東京大学理学部地質学応用地質学鉱床学
新潟大学理学部地質鉱物学応用地質学岩石学
鹿児島大学理学部地学応用地質学応用地質学
大阪市立大理学部地学応用地学応用地質学

 戦前はほとんどすべての大学に鉱床学の講座があり,アカデミズムの中でも曲がりなりに実践面の研究教育も行われてきたが,鉱山や石油など資源産業の衰退に伴い,地質学は社会から遊離し,趣味的博物学的方向に,いわば先祖返りしている。生きた現実社会に深く根を下ろし,常に新鮮な栄養分を吸収していない根なし草の学問は,いずれ滅びると言われている。上部構造は下部構造なしに存在しえないからである。地質学もまた,現代社会のニーズにマッチした新しい教育研究体制に脱皮しなければ,現在の沈滞から抜け出し,発展することは望めないであろう。本年3月,測地審議会から「地球科学の推進について」と題する答申が文部省に提出されたが,地球科学=地球物理学であって,地質学など片鱗もない。今後,全国の国立大学地学科の改組,すなわち,地質学の縮小が打ち出されてくるに違いない。
 現在,理学部(鉱山学部)の地学科(地鉱学科)では,国公私立大学合わせて約920名の卒業生を毎年送り出しているが,その多くは地質コンサルタントなど応用地質方面に進んでいる。しかし,基礎ができていれば応用はいつでもできるなどとうそぶいて(思い上がり以外の何物でもないが),旧態依然たるカリキュラムで教育しているから,本当に社会に出て役立つ人材を養成しているかとなると問題が多い。日本学術会議(1978)も,「土木地質技術者として必要な基礎知識が必ずしも満足に修得されておらず―中略―決して望ましいことではない」と指摘している。国立大学唯一の応用地質学講座の責任は大きい。山本(1988)は「大学に応用地質学関係の講座ないしは学科を新設するのは,応用地質学会の緊急かつ重要な課題」と述べている。すべての大学に早く応用地質学講座ができて欲しいものである。

謝辞

 尚古集成館のクリノメーターに関しては,鞄津興業上野隆正氏に便宜を計らっていただき,尚古集成館学芸員の松尾千歳氏にはスライドを撮影していただいた。生野のクリノメーターについては,京都大学理学部清水大吉郎氏にいろいろ教えていただいた。また,鉱業史に関して,新エネルギー財団吉田國夫氏,資源・素材学会葉賀七三男氏ならびに鹿児島大学教養部浦島幸世教授に,貴重なご教示をいただいた。なお,本論は,いちいち引用箇所を明示しなかったが,ほとんどすべて下記引用文献を基にまとめたものであり,これらの著者に負うところ大である。以上の諸氏にあつく感謝の意を表する次第である。

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小川琢治・笹倉正夫(1933):『地質学史(一)(二)』,岩波講座,110p.
島村福太郎(1970):『地学の歩み』,理科教育のための科学史4,第一法規出版,305p.
山下 昇(1967):『地球科学入門―その歴史と現状―』,国土社,219p.
*)コワニーの日本の地質観

 コワニーは、前述の『日本の鉱物資源に関する覚書』の第1章で、日本の地質構造の概観について触れている。東北・北海道を調査する以前に書かれているから、西南日本の断片的な鉱山調査に基づいたものである。今井(1966)は、彼の見解を次のように要約し(図-1)、「これが日本の地質に関してほとんど白紙の状態であった時期の、それも鉱山を中心とする観察にもとづくものであることを思うと、その卓見に驚かざるを得ない。彼によってはじめて日本の地質系統の大綱が定められたわけである。」と結んでいる。
 「まず、瀬戸内および中国山脈に沿って、膨大な花崗岩が帯状に分布している。同様な花崗岩は、東北日本の脊梁を構成しているらしい。花崗岩の南側には変成岩類からなる古生層がある。これには硫化銅鉱床がある。さらにその南には白亜紀・ジュラ紀層を含む中生層が広く分布する。これは火成岩の貫入によってかなり変質しており、変質帯には各種の金属鉱床がある。第三紀層はこのような配列とは別に、主として海岸付近にわずかに分布し、各所で褐炭を含んでいる。火山岩類は著しく広い地域を占めて分布し、活火山も多い。」

図−1 コワニーの日本の地質観(今井,1966による)

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更新日:1997年8月19日