地質学史に見られるパラダイム転換

第4部 岩松 暉 (日本学術会議科学論のパラダイム転換分科会報告)


 地質学では過去パラダイム転換を2度経験している<注1>。18世紀における斉一説および20世紀におけるプレートテクトニクスの登場である。もっともこれは通説であって,別な考えもある<注2>

1.激変説と斉一説

 天文学が航海や砂漠の旅行に不可欠であったと同様,地質学もまた自然を観察し自然を利用して生きていく過程で生まれた。学問的なレベルで言えば,ドイツ・ザクセンのG. B. Agricola (1494-1555) のDe Natura Fossilium (1546) やDe Re Metallica (1556) を嚆矢とすると言ってよいだろう。鉱物や採鉱冶金技術について系統的に記載した書物である。その後も地質学は資源探査・採掘のための実学として主としてドイツで発展してきた。このザクセンの伝統はフライベルグ鉱山学校に引き継がれる(1765設立)。ここで教授として活躍し,多数の俊才を養成したのがA. G. Werner (1749-1817) である。彼は岩石や地層を始源岩類・漸移岩類・成層岩類・二次岩類・火山岩類などと岩層区分したが,花崗岩や変成岩・玄武岩まですべて堆積岩と見なした。水成論である。
 一方,珍しい化石もまた注目を集めた。最初は自然の戯れと思われていたが,やがて生物の遺骸と見なされるようになる。しかし,高い山の上に海の貝化石が見つかる理由がわからない。時は中世の暗黒時代,聖書の天地創造説と整合性が求められる。J. J. Scheuchzer (1672-1733) は洪水説を唱えた。ノアの洪水により山に打ち上げられたものと考えたのである。これを体系化したのが比較解剖学の祖・パリ大学総長のG. L. Cuvier (1769-1832) である。彼は急激な天変地異の度に古い生物が絶滅し新しい生物が出現するとして激変説(天変地異説)catastrophism を提唱した。
 これに対し,イギリスの J. Hutton (1726-1797) は,Theory of Earth (1795) を著し,過去の地質現象も現在地球上で起こっている自然現象と同じ原理によって支配されているとして斉一説 uniformitarianism を主張した。また,地下の火の作用を重視して,熱膨張力が地殻変動の根源と考え,花崗岩や玄武岩はマグマが固結して生じたとした。火成論である。水成論と火成論の論争はJ. W. Goethe (1749-1832) のファウストにも取り上げられたほど激しく闘われたが,結局,火成論の勝利に終わった。このHutton説を鼓吹したのが C. Lyell (1797-1875) である。空想的宗教的自然観による制約を打破して近代地質学を築いた「近代地質学の父」と呼ばれる。彼はPrinciples of Geology (1830-1833) を著し,当時の地質学界に大きな影響を与えたが,この本はまた進化論の C. R. Darwin (1809-1882) がビーグル号航海に持参したことでも名高い。もう一人同時代にイギリスで活躍した人にW. Smith (1769-1839) がいた。彼は運河工事の土木技師だったが,世界で最初の着色地質図を著すと共に,地層累重の法則や地層同定の法則を確立し,「層序学の父」と呼ばれている。
 こうして近代地質学は産業革命期のイギリスに誕生し,以後斉一観が地質学研究のパラダイムとなった。「現在は過去への鍵」という語と共に今日まで地質学の指導原理として定着し,通常科学的な研究が行われている。しかし,最近になって斉一観を揺るがすようなことが起こった。白亜期末の恐竜絶滅に関する隕石衝突説の登場である。ノーベル賞物理学者の L. W. Alvarez (1911-1988) と地質学者である息子が白亜紀〜第三紀境界の頁岩層から大量のイリジウムや煤を発見して,隕石の衝突による"宇宙の冬"が大量絶滅の原因と主張した (1980) 。当初,多くの古生物学者は瞬時に全種絶滅したわけではなく,種によって絶滅時期が異なるとして反対したが,現在では受け入れている人が多い。種の個体数の多寡が白亜紀〜第三紀境界層における化石の発掘確率に影響しているに過ぎないというわけである。激変説の再来であろうか。しかし,生物が大量絶滅したのは白亜期末だけではない。古生代〜中生代境界はじめ過去5回(あるいは6回)の大量絶滅の時期 (Big Five) がある。これらは太陽系の銀河面通過などおおよそ2,600万年周期の天体現象に関わるとの説もある。こうなると斉一説でよいということになる。まだ決着がついていないホットな問題である。

2.地向斜造山論とプレートテクトニクス

 ヨーロッパアルプスはじめ欧米の高い山々は植生に乏しく,しばしば山肌に見事な褶曲や断層が見られる。当然,魅力的な研究テーマと映ったに違いない。褶曲山脈の成因,いわゆる造山運動の研究は常に地質学の中心に位置づけられた。A. Heim (1849-1937) はアルプスの押しかぶせ構造を解明し,Geologie der Schweiz (1919-1922) を著した。アルプスのような褶曲山脈ができる成因としては,火の玉地球が冷却するときの収縮によってできるとした収縮説に依っている。
 これより先,アメリカの J. Hall (1811-1898) や J. D. Dana (1813-1895) は,アパラチア山脈を構成する古生層が非常に厚い浅海性堆積物からなることに注目し,地殻が下方へたわむ(撓曲する)ことによって生じる堆積盆に浅海性の地層が次々に堆積していくと考え,地向斜 geosyncline という概念を打ち出していた。もっともヨーロッパでは地向斜は深海と考える人が多かった。こうした厚い堆積物をためる沈降の場がやがて隆起に転じて造山帯になるとの概念を集大成したのはドイツの H. Stille (1876-1966) である。細かな議論は省いて非常に単純化すると地向斜造山論は次のようにまとめられる。まず沈降堆積期で,主として大陸辺に長期にわたって沈降する帯(地向斜)ができ,そこに10,000mにも達するような厚い地層が堆積する。塩基性の海底火山活動も活発に行われる。やがて地向斜下部に花崗岩質マグマが貫入してきて全般的な隆起に転じる。狭義の造山期である。これに伴い地向斜堆積物は激しく褶曲され,衝上断層なども形成される。地層の一部は高い温度と圧力のために変成され結晶片岩や片麻岩となる。こうして褶曲山脈が形成される。後造山期になると隆起運動は穏やかになり,地塊運動が主となる。山脈の周辺では浸食作用により厚い粗粒堆積物が堆積する。
 こうした地向斜造山論は世界的に受け入れられ,各地でさまざまな造山運動や造山帯が提唱されるようになり,造山運動の世界同時性が議論されたりもした。わが国でも秋吉造山運動・佐川造山運動などが識別された。
 一方,1915年気象学者 A. L. Wegener (1880-1930) がDie Entstehung der Kontinente und Oceaneを著し,パンゲアと呼ばれる超大陸が分裂して現在に至ったとする大陸移動説を唱えた。軽い大陸地殻が重い海洋地殻の上に沈み込んで地向斜を形成するのはアイソスタシー(地殻均衡説)に反すると考えたからである。大西洋両岸の海岸線の類似,南半球の古生代末植物化石の共通性,氷河遺跡の存在などを根拠として挙げたが,大陸が移動する物理的メカニズムが説明できなかったために,荒唐無稽として退けられた。ただ一人,A. Holmes (1890-1965) だけがマントル対流説を提唱して擁護した。Wegener が大陸という移動する船のエンジンを説明できなかったのに対し,Holmesは,大陸はマントル対流という流れに乗るイカダであってエンジン不要だとしたのである。しかし,大陸移動説自体が学界から忘れ去られていたので,ほとんど注目されなかった。
 20世紀半ば地球物理学が急速に発展する。岩石磁気の研究から磁北の位置が地質時代によって異なり,その軌跡を描くと,ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸で相似であり,磁北を中心に約35度程度回転するとピタリと一致していることが明らかになった。またその頃,海洋底の研究も進んできた。まず海底地形調査から大洋中央海嶺や割れ目帯が発見された。やがて中央海嶺はP波速度が異常に遅く,高熱流量で重力の負異常が見られることなどからマントルの湧き出し口と見られるようになった。また,地磁気の正逆の縞模様が中央海嶺を軸として対称であることがわかり,テープレコーダーモデルが提唱される (F. Vine & D. H. Mathew, 1963) 。これらを集大成して,R.S. Dietz (1961) やH. H. Hess (1962) が大洋底拡大説を提唱した。その後,J. Tuzo Wilson (1965) のトランスフォーム断層,W.J. Morgan (1967) のプレートの球面幾何学などの研究が続く。最後に,X. Le Pichon (1968) によって地球は6枚のプレートで覆われているとした,全地球テクトニクスとしてのプレートテクトニクスが誕生したのである。
 これに対し,V. V. Beloussovらソ連圏の学者は上下方向の構造運動を重視し,ブロックテクトニクス(垂直昇降説)を唱えた。Beloussovは国際地球観測年IGYを提唱して実行するなど先見の明のある高名な学者であったが,ロシア卓状地のような安定陸塊での調査経験という制約を免れなかったのであろう。安定陸塊における構造運動は差別的昇降運動程度しか見られないからである。このように水平移動派 mobilist と固定派 fixist との間で激しい論争が闘わされた。わが国でも同様であった。どちらかというと地球物理学者はプレートテクトニクス導入に積極的だったのに対し,地質学者は懐疑的で反プレート派が多かったように思われる。
 しかし,1970年代も後半になると完全に決着がつく。以後,このプレート説によって造山運動なども再解釈されるようになり,地球科学全体を主導するパラダイムとなった。現在はポストプレートテクトニクス時代と言われ,プレート運動も包含したプルームテクトニクスが全地球テクトニクスとして提唱されている。

<注1>
 パラダイムはT. S. Kuhn (1922-1996) の提唱以来,その相対主義的性格に対する批判などさまざまな議論を呼んだが,一方でさまざまな分野に用いられるようになり,今や日用語になった。ここではもっとも広義に用いることにする。
<注2>
 都城 (1998) によれば,近代地質学を確立したと言われるイギリスのHuttonやLyellよりも,むしろ同時代に活躍し彼らと対立したドイツのWernerやフランスのCuvierのほうが,当時としてはより優秀な仕事をして地質学の発展に寄与したしたという。恐らく彼らの母国イギリスが,産業革命後世界の中心に君臨するようになったことが背景にあって過大評価されたのだろう。また都城は,地向斜造山論はアドホックな仮説の寄せ集めに過ぎず,単に地域地質の記載の枠組みを提供しただけでパラダイムではなかったと主張しているが,ここでは一応通説に従っておく。


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更新日:2003年2月16日