実学のすすめ=応用地質学の話=

地団研京都支部大会講演 1988.12.11


T.はじめに―不人気な地質学―

 小学生の発する疑問の6割は地学(含天文気象)に関するもので、あとの4割が生物だという。物理・化学や社会に関するものはほとんどない。地学が日常生活に密着している証拠である。それが高校になると全く逆転し、地学はほとんど関心を持たれない。確かに大学受験にあまり関係がないのも理由の一つであろう。しかし、それだけであろうか。
 大学生に地学のイメージを質問してみる。『地球大紀行』との答えが返ってくる。実社会とは切り離された、何か「おはなし」の世界なのである。地学≒地球物理学であり、地質学の影は薄い。地球物理学が地震防災など社会に貢献していると思っているが、地質学が世の中に役立っているとは認識していない。高校では、「環境」や「自然と人間」といった単元は学期末で省略されて教わっていないし、アンモナイトe中生代などと暗記するのが地質学だった訳だから無理もない。
 同じように、女子大生に土木について聞いてみた。「いつも御迷惑をおかけして居ります」とヘルメットのオジサンがお辞儀している看板を想い出すという。列島改造の先兵として乱開発を行ってきた報いというべきか。女の子がこれでは、男の子がはりきってやるはずがない。まして、地質はこの御迷惑オジサンにこき使われる僕とあっては、やる気が出ないのは当り前である。
 ことほど左様に地質家の社会的地位は低い。当然、地学科は人気がない。コンピュータが選んでくれた第一志望であり、偏差値で割り振られて仕方なく来るところである。だから、卒業すると、「ヤレヤレこれで地質と縁が切れる」とばかり、コンピュータソフト会社に就職したり、郷里に帰って役場の戸籍係になったりする。今日、地学科(地鉱学科)卒業生は全国で毎年千人弱、そのうちどのくらいの人が大学で学んだ専門を活かしているのであろうか(第1図)。これでは、文部省ならずとも、地学科は縮小して情報数学科を増やしたほうがよいとの声が出てきて当然である。このままでは「お取り潰し」必至であろう。

第1図 理学部地学科卒業生の進路の例(1983〜1987)

U.凋落の原因と再生への道

@ 学問水準の停滞と活気の喪失
 学生達がこうなった原因は何であろうか。まず何よりも地質学という学問自体が、活気を失って沈滞していることが挙げられる。地団研もまた、その謗りを免れないように見受けられるが如何?
 戦争直後、ファッシズムの吹き荒れた暗黒時代の軛を解き放って、科学的精神はよみがえり、諸科学が一斉に芽ぶき始めた。地質学も例外ではない。地団研の創立者達も、「国民のための科学」を標榜してさっそうと登場、若い研究者や学生を魅了した。水文地質学や第四紀地質学など実践と結び付いた分野も新しく登場した。しかしその後、近代化が叫ばれながら、果して地団研は学問の世界でリードして来たであろうか。火山岩岩石区と深発地震面との関係を論じた久野・杉村の先駆的業績や都城の対の変成帯説あるいは杉村・松田らによるネオテクトニクスの研究などがプレートテクトニクス誕生に大きく貢献したが、いずれも地団研の外における業績である。しかし、それとて、その後の地球物理学のめざましい発展に影を奪われてしまった。今では国際的にも地質学の発言力は小さい。例えば、国際火山学会(IAVCEI)は、IUGG から IUGS へ追い立てをくらっているという(荒牧談)。
 地団研は、民主的科学者団体の中ではもっとも歴史が古く、組織的にも財政的にも一番しっかりしている。普及啓蒙活動における貢献は著しいものがある。しかし、創造・普及・条件づくりの三位一体と言われてきたが、その中の中心的柱である創造活動の面がもっともウイークだったのではなかろうか。学問内容を真に革新し、若者達を引っ張って行くだけの魅力を打ち出しているとは言い難い。創立に加わった第一世代(カリスマとその周辺)は、当時の学問水準を一歩推し進め、それなりの実績を挙げてきた。いわば、裸一貫の行商から身を興して、のれんを張り店を構えた。次の第二世代は、組織性に優れていたから(逆に言えばリーダーが出なかった)、形だけは株式会社にしたが、本質的には遺産を引き継いで維持しただけだったのではなかろうか。地域地質を明らかにして地史を編むといった、創業以来の商品を売ってきただけで、新製品を開発した訳ではないのである。かく言う私もその世代、責めは負わなければなるまい。現在の30歳代以下が第三世代、一部上場の先端産業を担うべき世代である。コングロマリットになるか、多国籍企業になるか、はたまた、「売り家と唐様に書く三代目」となるか、お手並拝見、期待すること大である。今や地団研・アンチ地団研などと、セクト的なことを言っている段階ではない。大同団結して地質学全体の発展のために、力を合わせなければならない。そのためには、将来の学問研究を担う大学院層の奮起が望まれる。その中から日本の地質学、いや、世界の地質学の「中興の祖」が出現することを切望する。
A 実践からの遊離
 こうした停滞は、何よりも地質学が実践から乖離したことに起因していると思う。そもそも学問は生産と生活の場である現実社会に深く根を下ろし、養分を吸収することによってのみ発展し続けることができる。もちろん、学問の内在的要因により発展する側面もあるが、下部構造との相互作用なしには、上部構造は存在し得ないからである。近代地質学は、産業革命期に鉱山地質学の申し子として誕生したにもかかわらず、高度経済成長期以降、金属・石油・石炭など鉱業の衰退により、実社会とのつながりを失い、趣味的博物学的なものへと矮小化していった。いわば先祖返りである。しかし、地下資源探査に対するニーズが減少したから、地質学は不要になったというべきであろうか。否、大学が社会のニーズに対して鈍感で、旧態依然としていただけであって、地質学の果たすべき役割はますます増大している。井尻・新堀ら(1963)が地質学の新しい目標は自然改造・国土改造にあると指摘し、生産と生活の場に立つ、広く関連分野も取り入れた新しい地学の創造が焦眉の課題であると先駆的に主張した。不幸にして、その時期は日本列島改造論による乱開発の開始と一致していたため、その負の影響もあって、研究者に受け入れられず、大学人はますます象牙の塔に閉じ込もってしまった。地団研もまた、一部の人を除き、全体としては純理学の枠に留まった。その後、オーバードクター問題など、研究者の就職難が深刻となり、己の分野を狭めることによって、より早く専門家として名を成そうとする傾向が助長され、視野の狭いこじんまりした小天狗達が輩出する結果になった。新しい分野に果敢に挑戦するマルチ人間は育ちにくい環境にある。
B 21世紀の社会的ニーズ=環境設計
 しかし、大学の地質学がどんなに遅れていようと、社会は進んでいく。来るべき21世紀には、環境と調和しながらいかに自然を利用していくか、環境設計が重要な課題となることは間違いない。工学は現在という一時点での最適適応を考えるが、地質学は悠久の自然史の流れの中で現在を捉え、未来を洞察することができる。また、文字通り地球科学であり、汎世界的な視点も持ち合わせている。こうしたロングレンジの発想とグローバルな視野という地質学の長所が、環境設計に当たっては一番重要になってくる。このような地質学の武器を生かしつつ、環境設計という課題に具体的に対応できるだけの学問内容を創造し、技術革新していかなければならない。それも残された20世紀の10年の間に確実にやり遂げる必要がある。そうしてこそ、地質学の存在意義が社会的に高く評価され、地学科の学生が胸を張って生き生きと学習に励むようになるであろう。
 その点、工学は変わり身が速いから、環境システム工学などといって対応してくるであろう。工学に出し抜かれてからでは遅すぎる。地質家は社会的地位の低さに甘んじなければなるまい。いくつかの総合大学院に環境科学専攻ができた。文部省受けを狙って流行の名前を付けただけで、実態は古環境学をやっていますとの名目で化石屋をもぐり込ませている。このような小手先の現状維持策を講じている発想では、地質学の未来に希望はない。

V.応用地質学の過去と現在

 以上、やや我田引水的に社会に目を開くことの重要性を訴えた。社会ともっとも密接に結びついてきた地質学の分科は応用地質学である。そこで、応用地質学の歴史を振り返り、具体的にこの問題を考えてみたい。純粋地質学の発展にとっても参考になると思う。
@ 産業革命と応用地質学の誕生
 「近代地質学の父」なる称号は、普通、斉一説で名高い Charles LYELL(1797-1875) に捧げられている。しかし、それに先立つ巨人、水成論と火成論の思弁的な論争を止揚した James HUTTON(1726-1797)と、「層位学の父」と呼ばれる William SMITH(1769-1839) を忘れることはできない。ある意味では、LYELLは彼らの業績を集大成して『地質学原理』を著したに過ぎない。いずれにせよ、彼ら3巨人は、当時の先進工業国イギリスで生を受け、産業革命の真只中にあって活躍した(小林,1988)。上部構造が発展するには、しっかりした下部構造が必要なことの例証でもある(今日の先進国日本から巨人が出現するか?)。
 中でも、SMITH は石炭運河の土木技師として、運河建設という具体的な課題を遂行する過程で、地層累重の法則や化石による地層同定の方法を発見し、世界で最初の本格的着色地質図といわれる『英国地質図』を作成した。単に地質学の知識を土木に応用したのではなく、現実の提起した問題を解決するために創造した方法が、純粋科学の発展にも寄与したのである。したがって、彼は、「層位学の父」であると同時に、「土木地質学の父」でもあり、「応用地質学の父」でもある。SMITH は、その後運河会社を辞め、フリーのコンサルタントとして農業土木の仕事にもたずさわった。コンサルタントエンジニアの元祖でもある。
A 幕末〜明治期=鉱山地質学の輸入
 鹿児島の名園磯庭園には、島津斉彬の作ったコンビナートの跡が残っている。当時の機械工場を利用して、尚古集成館と呼ばれる侯の収集物の展示場がある。私は、その収蔵品の中から、わが国最古と思われるクリノメーターを発見した(第2図)。それは恐らく斉彬侯のものではなく、1865年(慶応元年)薩摩渡欧留学生としてイギリスに密航した15人のうちの朝倉盛明(本名田中靜洲)の持ち物か土産ではないかと推測している。彼は途中からフランスに移り、鉱山学を学んだからである。あるいは、島津茂久の招きで1867年(慶応3年)に来薩したフランスの鉱山地質家 Francoi COIGNET(1835-1902)のものかも知れない。彼らは薩摩藩内の串木野・山ヶ野・谷山・永野などの諸鉱山の調査に当たったが、後に官営生野鉱山に移り、鉱山学校を開設するなど、日本の鉱山業と鉱山学の発展に尽くした。なお、朝倉は生野鉱山局長まで勤めた。また、COIGNET は、明治維新後、御雇い外人教師の第1号となり、『日本鉱物資源に関する覚書』を著した。すなわち、鹿児島は実践的地質学の発祥の地と言えよう。

第2図 わが国最古のクリノメーター

 COIGNET の来薩に続いて、1872年(明治5年)アメリカの Benjamin. S. LYMAN(1835-1920)が来日して北海道で炭田調査を行い、新潟や静岡でも油田調査に当たった。また、わが国最初の地質図である『日本蝦夷地質要略之図』を著した。開拓使仮学校における弟子達からは、石炭地質家や石油地質家が輩出した。
 このように、日本最初の近代地質学は、薩摩・北海道という南北両端で、資源地質学として輸入された。その後のわが国の産業革命に大きく貢献したが、学問の世界では亜流として退けられ、弟子達もあまり重んじられず、南北の伝統は途絶えてしまった。
 それは、LYMAN に遅れること3年、1875年にドイツの Edmund NAUMANN(1850-1927) が来日し、東京大学と地質調査所、すなわち官・学の要衝を押さえたからである。彼は『日本列島の構成と生成』など多数の論文を著して、日本の地質学に大きな足跡を残すと共に、ドイツ的な教育体制を整備し、その後の方向づけを行った。以後、第1期卒業生の小藤文次郎(1856-1935)らにより、東京大学(後、帝国大学と改称)を中心に、実学を軽視した日本的アカデミズムの伝統が形成される。
 わが国で第2番目の地質学科は1912年東北帝国大学に設立された。土木地質学誕生の契機となった丹那トンネル掘削(後述)開始の直前であり、もっとも爛熟した形のアカデミズムが仙台の地に輸出されたのである。次いで、1921年に京都帝国大学に3番目の地質学科ができた。未曽有の大災害をもたらした関東大震災の直前ではあったが、すでに丹那の洗礼は受けていた。また、この年は、実学を嫌った小藤が東京帝国大学を退官した年でもあった。いわばきわどい時に設立されたと言える。一方、アカデミズムの本家である東京帝国大学は、実学を軽蔑しつつも、首都に位置し、かつ、官吏養成機関としての性格上、国家的要請には逆らえず、その後も何らかの形で、社会と関わらざるを得なかった。
B 大正〜昭和初期=応用地質学の確立
 以上見てきたように、明治期富国強兵時代の応用地質学はイコール鉱山地質学であった。
 1918年、丹那トンネルを掘削して東海道線の鉄道輸送力増強が計られることとなった。経済の発展に伴い、物資交流のより一層の円滑化が要請されていたからである。工事は断層と温泉余土に阻まれて難行し、多くの犠牲者と16年の歳月を要した(吉村,1987)。その結果、地質を調べることの重要性が認識され、1923年渡辺 貫・広田孝一・佐伯謙吉ら東京帝大地質学科の卒業生が鉄道省に入省した。資源以外に地質家が進出した最初である。もっともこれに先立ち1921年やはり東京帝大卒の高田 昭が内務省土木試験所に入所し、岩石力学の研究に当たっていた。こうして、地質学が土木建設事業と結び付くようになり、土木地質学ないし地質工学が誕生する。
 1923年関東大震災により、首都東京は壊滅的打撃を受ける。翌24年から帝都復興事業が開始され、1929年には世界で最初の都市地盤図と言われる『東京及横浜地質調査報告』が刊行された。アカデミズムから疎外されていた第四紀層に注目し、徹底したボーリングにより軟弱地盤の解明に当たった。第四紀学の先駆けである。
 1926年には五十里ダム(鬼怒川)の調査が行われた。断層破砕帯にダムサイトを選定したため、放棄せざるを得ない状況に追い込まれ、地質調査の重要性を土木屋が痛感させられた契機になったと言う(青木・柴崎,1968:柴崎・中山,1980)。
 こうして、ようやく応用地質学が土木地質学を指す時代になった。ボーリング・弾性波探査・電気探査・サウンディング・原位置試験・電気検層など現在でも使われている技術のほとんどがこの時期に出そろった。1935年には渡辺 貫の名著『地質工学』が刊行され、当時の土木地質学の集大成が行われている。内容構成は、方法論的にも技術論的にも今日でも遜色ないほど新しく、土木地質学と純粋地質学あるいは土木工学との関係など、非常に示唆に富むものである。この時期が応用地質学の揺籃期であると同時に、第一次黄金時代でもあった。
C 第二次世界大戦=暗黒時代
 ものの本によれば、戦争とはイデオロギーの相違によって起こるのではなく、古来資源の争奪戦であったという。第二次世界大戦も然り、地質家は真っ先に徴用され、海外占領地の資源調査に当たらせられた。火山学者久野 久は、満州で原爆のためのウラン調査を命ぜられている。また、南方油田の調査と復旧に多くの地質家が動員され、戦病死する人も多数出た。
 国内でも、資源の増産はもとより、地下軍需工場の建設など、軍の要請する仕事に従事させられた(田中,1988)。まさに戦時中は地質学にとって暗黒時代であった。
 D 戦後=より生活に密着した学問へ
 海外の領土を失い、復員軍人や民間人が多数引き揚げてきた。狭い国土で多くの人口を養うために緊急開拓事業が実施され、堀田正弘・小貫義男・蔵田延男・山本荘毅ら農林省技師の手によって水文地質学の基礎が築かれた。また、1950年の国土総合開発法や1952年の電源開発促進法の制定以来、佐久間・御母衣・黒四など大ダム建設ラッシュとなり、ダム地質に関連した土木地質学・岩盤力学が急速に進歩する。後に応用地質学会の会長になった広田孝一・田中治雄らが活躍した。さらには、折から各地で問題となった沖積平野の地盤沈下に関連して、軟弱地盤問題がクローズアップし、第四紀地質学が本格的に発展する。こうして現在応用地質学のレパートリーとされる分野がほぼ出そう。土木地質壮年期であった(山本,1988)。
 また、民間では1954年、深田地質研究所が設立された。地質コンサルタントのはしりである。以後、地質学科の卒業生が土木地質の分野へも大量に進出するようになった。
E 高度経済成長期=列島改造の先兵
 1960年池田内閣が所得倍増論を唱え、日本は高度経済成長期へ突入する。1964年の東京オリンピックブーム、1972年の田中内閣の日本列島改造論を経て、日本列島は大幅な変貌をとげる。重厚長大型産業中心の大型コンビナートが臨海部に建設され、労働力の都市集中に伴って、都市の乱開発が行われた。開発に伴う地質調査の需要が急増する。雨後の筍の如く地質コンサルタント会社が設立され、この頃から急増した新制大学の地学科卒業生を吸収した。いわば、列島改造に寄生する形で、応用地質学の隆盛を迎えたのである。
 しかし、こうしたなりふりかまわぬ開発によって、公害や災害が激増したのは周知の通りである。現在、環境問題が深刻になっているのも、この時代の後遺症と言えよう。
F 現在=応用地質学変貌期
 その後、低成長(安定成長?)期に入った。産業構造も、重厚長大型から軽薄短小型の先端産業へ、あるいは第三次産業へと重点が変化した。土木建設業界にとっては苦しい時期である。しかし、不況時には内需拡大と称して公共投資を行うので、官需は常にあり、地質家が大量失業に見舞われることはない。もっとも好景気の時は、総需要の抑制を行うから、「地質家は生かさぬよう殺さぬよう」という訳である。
 現在、東京湾横断道路や大深度地下空間の利用など、在来型のビッグプロジェクトが取り沙汰されている。こうした夢よもう一度式の方向で果してよいのだろうか。大いに議論の余地があろう。
 この少し前の時期から、原子力発電所の建設が各地で計画され、これに関連して活断層問題が論議の的となる。静的な地盤強度の問題だけでなく、動的な問題まで応用地質学の範疇に入ってきた。コンピュータが普及し、各種の解析や観測に常用されるようになった。また、地球物理学の発展に伴って、ジオトモグラフィー(地中断層撮影法)などの技術開発も行われている。しかし、全体としては、前の時期に比べて、本質的な進歩があったとは必ずしも言い難い。

W.応用地質学の将来

@ 応用地質学の定義・分類
 以上、概観してきたように、応用地質学は社会のニーズと共に変遷してきた。現在では、土木地質学・岩盤力学・防災地質学・水理地質学・温泉地質学・資源地質学(鉱山地質学・石油地質学)・空中写真地質学(リモートセンシング)・情報地質学(数理地質学)など、幅広い領域をカバーしている。
 ここで応用地質学の定義を試みたい。普通、定義・分類なるものは、話の冒頭行うものである。敢えて歴史から説きおこしたのは、応用地質学の内容が、特定の決まりきったものではなく、社会の発展と共に常に変化して行くという性格をもっているからである。そこで、岩松(1986)は次のように定義した。


 応用地質学は、自然と人間社会との関わりの中で発生するさまざまの社会的問題に対して、地質学の立場から応える学問である。したがって、その対象とする課題は、人間社会と共に常に変化して行く。
 AGI の "Glossary of Geology" が、Geo-logy relative to human activity と定義しているのも、青木 滋が問題解釈学ではなく、問題解決学と述べているのも同趣旨のことであろう。
A 21世紀の世界と応用地質学
 したがって、将来の応用地質学もまた、現在とは違った姿になるであろう。前述したように、現在、高度成長のツケがまわってきており、環境破壊・災害激化・農林水産業など第一次産業の衰退が起こっている。しかし、人間はそれほど愚かではない。やがて自然に回帰する時代になる。今日、自然保護や緑を守る運動がようやく世間に認知されるようになったのが、その現れである。環境アセスメントや防災アセスメントが義務づけられ、環境と調和を保ちつつ都市基盤整備や開発が行われるであろう。応用地質学が環境地質学を主要な活躍舞台とする時代がやってくるに違いない(第3図)。
 なお、人間は自然に手を加えて生きていかなければならない以上、いつの時代になっても地質工学的手法は重要であり、これからもより一層発展するであろう。
 コンサルタントは、プロポーザル制になりつつある。施主から「誰それに調査してもらいたい」と指名される時代になる。いつも指名される実力者と、それに使われる者とに二極分解するかも知れない。誠に厳しいことになる。弁護士のように独立して仕事をするスーパーバイザー的スタイルも多くなるだろう。すでに欧米ではそうなっており、client にtechnical proposal を提出してコンペに参加し、優秀な者がその仕事を取る。首尾よく受注した者は、設計施工まで責任をもって指導監督するという。Geologist の責任は重く、社会的地位は高い。土木建設業にも外国企業が参入するようになれば、早晩こういう人達と国際競争をしなければならない。
 また、経済大国日本は、円の力で発展途上国の資源を買いあさり、「森食い虫ニッポン」などと呼ばれるように熱帯雨林の破壊に手を貸してきた。世界的には砂漠化や酸性雨の問題など深刻である。発展途上国の山地保全や砂漠の緑化あるいは農業基盤整備など、課題は山積している。日本の応用地質学の国際的貢献が求められている。
第3図 応用地質学の変遷

 こうした課題に現在の日本の応用地質学は応えられるであろうか。従来、あまりに工学に引きずられ、独自の学問内容を構築して来なかった。高度成長のおこぼれにあずかり、役に立たない地質図でも、とにかく提出すればメシが食えたのである。しかし、このままでは、今日隆盛を誇る土木地質学も、明日は鉱山地質学と同じ運命をたどらないとは言い切れない。今から時代を先取りした技術の研鑽と新しい学問体系の構築が求められている所以である。先に述べたように、地質学はロングレンジの発想とグローバルな視野という長所を内在的に持っている。この長所を十二分に生かして技術革新を行えば、多くの貢献ができると思う。その暁には、必ずや社会的に重きをなす存在になれるに違いない。

X.応用地質学の発展をめざして

 それでは、どのようにしたらそのような技術革新を行うことができるであろうか。
@ 大学の教育体制
 従来、応用地質学は、大学教育の基盤を持たぬまま、実務としての土木工事に支えられ、自学自習の前進を続けたと言ってよい(山本,1988)。確かに社会の進歩に比べて、大学の対応は極めて遅い。国立大学を例にとると、旧制大学はもとより、新制大学でも発足当時から理学部のあった旧医大系の大学には大抵鉱床学の講座がある。しかも応用地質学講座を名乗っているところもある(第4図)。明治の富国強兵時代以来の発想が、大学にはそのまま残っているのである。実質的な内容が異なる場合は、あくまでも本来鉱床学であったものが、便宜的に空きポストとして利用されたのである。結局、文理学部改組組みの後発大学理学部に辛うじて一つ、鹿児島大学に応用地質学講座ができたに過ぎない。公立大学では大阪市立大学にある。このように、次代を担う人材の養成に当たるべき大学が、時代から取り残されており、誠に寒心に耐えない。大学に応用地質学関係の講座ないし学科を新設することは、緊急かつ重要な課題である(山本,1988)。
 また、単に講座を設けるだけでなく、カリキュラムも近代化し、古生物学偏重の旧態依然たる教育から脱却する必要がある(日本学術会議地質研連応用地質小委員会, 1980)。逆に、フィールドを軽視して、極く些末なテーマで室内作業中心の卒業研究をやらして、最先端の教育をしていると勘違いしている向きもある。理学部出身、とくに大学院出身は、非常に視野が狭く、他のことには興味を示そうともしないタコツボ型人間が多いとの苦情も聞く。

大学名学部名教室名講座名実際の内容
秋田大学鉱山学部鉱山地質学応用地質学岩石学
山形大学理学部地球科学応用地学古生物学
千葉大学理学部地学応用地学応用地形学
東京大学理学部地質学応用地質学鉱床学
新潟大学理学部地質鉱物学応用地質学岩石学
鹿児島大学理学部地学応用地質学応用地質学
大阪市立大理学部地学応用地学応用地質学
第4図 国公立大学理学系学部における応用地質学講座

 なお、こうした人種が主として研究者になり大学の教員になるから、ますます矮小化したアカデミズムが連綿と続く羽目になる。学生時代に受けた教育が最高と信じて、同じ教育を30年後の学生に施す。また、自分の後任には必ず自分と同じ専門の者を据えていくから、講座内容もなかなか改組が進まないのである。
A 技術革新をリードできる人材とは
 地質家である以上、何よりも自然が好きで、汗水いとわずフィールドを歩く人でなければならない。理屈だけの頭デッカチな机上地質屋は役に立たない。しかし、単に文句を言わず薮こぎをして、砂岩だ泥岩だと色だけ塗ってくるペインター(色塗り地質屋)でも困る。露頭からどれだけの情報を引き出すことができるか、つまり「露頭を読める」かどうかが問われるのである。応用地質家は、目的にかなった正確な地質図が描けるなど、地質家としての基本的資質は当然身につけていなければならない。この点は、昔も今も、そして将来も変わらない絶対条件である。
 これからの応用地質家は、それだけでなく、もっと広い視野を持ち、進取の気性に富む人でなければならない。技術革新に積極的に挑戦する気概が求められる。また、数学・力学に強く、工学・農学の知識とセンスも身につけておく必要がある。コンサルタントの場合は、設計施工に関する知識も有し、経済性にも関心を持って欲しい。好むと好まざるとにかかわらず、これからはコンピュータがあらゆる分野に進出してくる。コンピュータアレルギーでは困る。使われるのではなく、使いこなす力量と数学的思考に馴染んでいて欲しい。また、これからの国際化の時代は、海外での仕事や外国人との共同作業も多くなる。やはり語学は必須である。
 最後に、実社会と関わっていく以上、社会的視野と関心を持ち続けることも大切である。先の定義で、さまざまの社会的問題に対して地質学の立場から応えていく学問と述べたが、世の中の人が困っている問題を自分が具体的に解決してみせるといった情熱が欲しい。技術者としてのクールハートだけでなく、人間としての熱いハートも必要なのである。コンサルタントに行く場合には、地元の人々と摩擦を起こしたりしないよう、人間関係も配慮できる人間でなければならない。

Y.おわりに

 以上縷々述べたように、応用地質学は、単なる地質学の知識の応用ではない。両者は両々相俟って発展してきたのである。社会という大地にしっかりと根を下ろし、養分を吸収している太い幹が応用地質学であり、その上に緑豊かに繁っている葉が純粋地質学である(第5図)。根や幹がなければ葉は存在し得ないし、葉が繁り、太陽(物理・化学など他の諸科学)の恵みを得て大いに光合成を行わなければ、幹も大きくなれないのである。今の日本の地質学は、根が貧弱でしおれている植物に例えられよう。

第5図 応用地質学と純粋地質学

 基礎科学・応用科学という概念から、基礎がしっかりしていれば、応用などわけはないし、いつでもできるとの誤解を生んできた。応用地質学=地質学の応用という例の図式である。応用地質学が相対的に独立のジャンルであることを認めようとしない、大学の先生に多い考え方である。大学教育では、層位学や岩石学をやっていれば十分という思い上がりと自己保身がそこにある。
 筆をおくに当たって、本当に地質学を蘇生させ、地質家の社会的地位を向上させるためには、象牙の塔に閉じ込もるのではなく、実学も大いに学ばなければならないことを再度強調したい。

引用文献

青木 滋・柴崎達雄(1968):日本の応用地質学の現状と課題.『日本の地質学』,日本地質学会,393-408.
井尻正二・新堀友行(1963):『地学入門』,築地書館,326p.
岩松 暉(1986):応用地質学.『日本百科大全書』,小学館,3巻,846.
小林英夫(1988):『イギリス産業革命と近代地質学の成立』,築地書館,338p.
日本学術会議地質学研究連絡委員会応用地質小委員会(1978):土木地質の教育・研修の現状と展望.応用地質,19 (1), 30-35.
柴崎達雄・中山政一(1980):日本の応用地質学のあゆみ.『応用地学ノート―陸・海・空からさぐる―』,国際航業樺n質・海洋事業部,315-333.
田中治雄(1988):応用地質の道を歩んで50年.応用地質,29(1), 5-14.
山本荘毅(1988):日本における応用地質学の歩み.応用地質,29(1), 26-31.
吉村 昭(1988):『闇を裂く道』,上・下,文藝春秋社,253p, 226p.

[追記] ―高校教育に望む―

 地団研の会員には小中高校の教員が多い。恐らく今日の参加者も先生方と京都教育大学の学生さんが大部分だと思う。そこで、大学教員の側からお願いを一つ申し上げたい。
@ 何よりも自然が好きな子を育てていただきたい。今の学生と連想ゲームをやってみる。フィールド→田舎→喫茶店もない不便な所→イヤな所となる。これではなまじ地質学を教えると、乱暴に自然破壊する者が養成されかねない。
A そのためにも、ぜひ野外授業を取り入れていただきたい。大学生に感想を聞いてみると、野外授業や実際に手を下してみた実験は大変印象深く憶えている。
B 「自然と人間」といった環境問題の章は省略せず、地域の問題と結びつけて教えていただきたい。できれば、建設現場や災害地の見学も組み込んでもらいたい。
C 学問を完成品として扱い、すべて真理として覚え込むだけという姿勢は身に付けさせないでいただきたい。学問は常に発展途上であり、今日の定説は明日くつがえるかも知れないのである。しかも自分の力でそれをやり遂げることができるかも知れないと希望を持たせて欲しい。ペーパーテストはよく出来るが、卒論のように敷かれたレールのないことをやらせると、手も足も出ない学生が多すぎる。


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更新日:1997年8月19日