地盤工学と応用地質学

日本応用地質学会九州支部長 岩松 暉(九州・沖縄の地盤工学―あゆみと展望―, p.33-34.)


 地盤工学会九州支部創立50周年おめでとうございます。私共の日本応用地質学会九州支部は昨年創立20周年を迎えました。やっと成人したばかりですので、貴支部のような働き盛りの熟年に比べれば、はるかに若輩です。よろしくご指導をお願いいたします。
 近代地質学は産業革命期にイギリスにおいて開花したと言われています。火成論のJames Hutton(1726-1797)、層序学のWilliam Smith(1769-1839)、斉一説のCharles Lyell(1797-1875)ら、巨人が活躍した時代です。このうちSmithがわれわれにもっとも縁のある人物です。地層累重の法則や地層同定の法則の発見者ですが、世界で最初の着色地質図を作ったとしても名高い人です。Smithがこのような業績を残したのには訳があります。当時、鉄と石炭を掘り出し、工場地帯へ運搬することは至上命題でした。Smithは石炭運河の建設に従事していた土木技師だったのです。運河建設作業の中で、硬くて掘削しにくい地層や柔らかくて崩れやすい地層が存在すること、その中に特徴的な化石を含むことなどに気づき、上述の法則性を見出したのです。その分布を忠実に図示した英国地質図(Smith,1812)は現在でも通用するほど正確でした。確かに地質学は遡れば博物学の流れを汲んでいますが、実社会の要請に応える中で近代的な学問へと脱皮したと言っても過言ではありません。Smithは層序学の父でもあると同時に、応用地質学の父でもあるのです。このように地質学と地盤工学は誕生以来切っても切れない関係にありました。土質力学の始祖Karl Terzhagi (1883-1963)もまた応用地質学者であったことは周知の通りです。
 わが国においては丹那トンネルの難工事(1918-1934)が地質学と土木との結びつきの最初でした。十分な地質調査なしに線引きがなされ、工事に突入した結果、落盤事故などが多発し、地質調査の重要性が痛感されたのです。その結果、1923年地質学科卒業生として初めて、渡邊貫らが鉄道省に入省します。渡邊は1928年『土木地質學』(Geotechnischekunst)を著すと共に、鉄道省内に1930年土質調査委員会を設けます。こうした実践に基づく蓄積の集大成が1935年の大著『地質工學』です。この緒言で、渡邊は「地質學者と土木技術者とが密接な交渉と正しい理解とを持つやうになればよい。兩者の完全な提携が欲しいのである。…(中略)…土木技術者の地質的工學、換言すれば大地の工學にGeomechanikの新造語を與へた」と述べています。「大地の工学」ですからTerzhagiの用いたErdbaumechanikに比べたら今日の地盤工学に近い用語ですし、Geotechnischekunstにいたっては地盤工学会の名称そのものです。
 しかし、渡邊の先駆的な活躍があったにも関わらず、「両者の完全な連携」は実現しませんでした。その後戦時体制に突入したためもあって、地質学は資源探査に駆り出されていったからです。地質学が再び土木建設と結び付くようになったのは、もはや戦後ではないと言われた昭和30年代になってからでした。資源産業が衰退したために、民間企業がやむを得ず土木方面に転進したという側面も持っていました。しかし、大学や学界は象牙の塔に閉じこもり、時代の変化に対して認識不足でした。そのため、日本応用地質学会が設立されたのは土質工学会に遅れること10年も経っていました。しかし、実社会では、その後の高度成長と相まって、土木地質学へ急速に傾斜していきます。地質コンサルタントが業として成立した時代でした。ダム・道路・トンネルなど多くの現場で、土木技術者と地質技術者とが行動を共にするようになり、個人レベルでは意志疎通がよくなりました。しかし、まだ学会および学界レベルでは、「両者の完全な連携」はできていないように感じられます。
 もっともわが九州は全国的に見たら特異で、日本応用地質学会九州支部会員の1/3は工学系出身者が占めています。地盤工学会九州支部会員の中にも地質出身者がかなりおられることと思います。設立当時の役員の方々が意識的に努力された賜物でしょうが、九州の地質が本州と違って一筋縄でいかない難物を抱えていたことも一因だと考えられます。九州島は西南日本弧と琉球弧の会合部に位置しているため、地質構造が複雑で標準的な地体構造では解釈できませんし、何よりも火山地帯で特殊土が多く分布しています。教科書的な対処では通用しないところなのです。結果として、必然的にお互いが歩み寄ったのでしょう。
 最近はボーダーレス時代という言葉をよく耳にします。たとえば超伝導など原子のオーダーでの話になると、もう物理学そのものです。理学と工学の境界はなくなってきたと言ってよいでしょう。かつては軟弱な土を扱うのが土質工学会、硬い岩を扱うのが応用地質学会と棲み分けをしていたように思います。道路や橋梁は土質屋、ダムやトンネルは地質屋という訳です。もちろん、調査は地質屋、設計施工は土木屋という棲み分けもありました。しかし、地盤工学会と改称された理由の一つには、岩盤も扱うようになったという時代的背景があるのでしょう。ますます両学会の守備範囲が重複するようになってきました。競争的協力の関係、つまりよい意味でのライバルとしてお互いに切磋琢磨していく時代になるでしょう。また、これからは環境の時代でもあります。今までは白紙のキャンバスに絵を描くように地質を無視した設計が行われてきましたが、立地のプランニングの段階から地質学が関わる必要があると思います。一方、地質学も設計施工を念頭においた調査が求められています。渡邊が望んだように、お互いの長所を生かし、「完全に連携して」来るべき21世紀に飛躍したいと考えております。
 貴支部のますますのご発展を祈念して筆を置きます。

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更新日:1999年11月20日