教育の危機と"地質学の危機"

岩松 暉(『地質と調査』, 2002年第1号小特集「教育パラダイムの転換」, p.2-7.)


1.はじめに―教育の原点―

 今回の小特集は「教育パラダイムの転換」がテーマだという。「パラダイム」概念はトマス・クーン(1962)が『科学革命の構造』で提唱し,その後あらゆる分野に波及した。俗用・誤用・拡張解釈いろいろな波紋を広げたが,本特集の場合も「一時代の支配的な物の見方」(広辞苑)といった最も広義の意味で使われているのであろう。
 ところで教育におけるパラダイムとは何なのだろうか。教育にパラダイムの転換が必要なのだろうか。そもそも教育の本質は何なのだろうか。私は子育て,つまり種の保存こそ最も根底にあると考えている。産卵直後に親が死ぬ生物もいるが,多くの高等動物にとっては生殖だけでなく,子供を巣立ちまでたくましく育て上げることが種の保存にとって欠かせない。エサの捕り方,巣の作り方,敵との闘い方,逃げ方等々生きる知恵を次代に引き継ぐのが教育である。動物の子育ては見習うべき点が多い。幼少の時には溢れるようなスキンシップで可愛がり,やや長じると厳しく仕込む。そして鮮やかな子離れ・親離れが行われる。人間の教育もこれが原点であろう。教育にパラダイムがあるとすれば,これこそ500万年間不変のメタパラダイムである。昨今の教育をめぐる危機的状況―いじめ・非行・不登校から成人式のバカ騒ぎまで―は,それから逸脱したゆえに生じたのではないだろうか。「自然に帰れ」(ルソー)である。

2.戦後教育の光と影

 第二次大戦の敗北により,わが国の教育は皇民教育から民主教育へ大転換が行われた。教育基本法が制定され,義務教育も中学まで延長された。金の卵の誕生である。同時に新制高校も設立されている。理念として教育の機会均等が謳われ,その後も基本的に平等主義が貫かれてきた。これを遂行したのは文部省と日教組の二人三脚によるいわば"教育の55年体制"である。大学教育も,基本的に官吏養成所だった帝国大学から新制大学制度へ変わり,地方にも各県一国立大学が置かれるようになった。新制大学は理系学部の比重が高い。欧米のブルーカラーと違う,優秀な技術者を大量に輩出した。彼らが安かろう悪かろうと言われていたメイドインジャパンのイメージを一新し,質の高い便利な製品を開発して輸出大国を実現したと言ってよい。こうした教育立国がベースにあって,わが国は驚異の経済発展を遂げたのである。
 物事には光があれば必ず影がある。平等主義は画一主義につながりやすい。私の前任者である故露木利貞鹿大名誉教授は,高校全入運動が退廃の始まりだったとおっしゃっておられた。高校全入運動とは,「15の春は泣かせない」の名言の下,「進学希望者全員を高校へ受け入れよ」という運動である。それまでは,中卒で就職した者は厳しい修業を積んで手に職をつけた。技術立国日本も結局,ミクロンオーダーの加工ができる彼ら名人芸の職人層に支えられていたのである。上級学校へ進学する者もやはり一生懸命勉強しなければならなかった。しかるに,受け入れ枠を政治の力で広げることによって解決しようとしたのである。当然,額に汗し努力する風潮が失われる。それだけでなく,われもわれもと上級学校に進学するということは,人間が偏差値なる単一の物差しによって評価されることを意味する。以前は,勉強が出来る,駆けっこが速い,手先が器用だ,等々さまざまな物差しがあり,誰でもどこかで輝く場があった。単一の物差しでは,進学できなかった者は落伍者に過ぎない。そのため,技能職が不当に低く見られるようになった。今や名人芸を引き継ぐ若者はいない。産業の空洞化は,単に途上国との賃金格差だけではないのである。日本の技術立国はこうした中小企業の技術に支えられてきたのだから,本来なら技能職にマイスターのような高い社会的地位と高賃金を保障すべきであった。それを怠ったため,高等教育を受ければよりよい生活ができるとして,異常に進学熱が高まり,高校全入運動へとつながってしまったのである。
 一方,ずるずると進学した者はさらに大学へと進みたがる。文部省の受験戦争緩和路線で,大学もまた拡張につぐ拡張を行って受け入れた。私が学生の頃は,大学生は18歳人口の1割しかいなかったが,今では4割を越している。少子化に伴い2009年には大学全入時代になるという。低学力者や学習意欲の乏しい者で占められれば,「悪貨は良貨を駆逐する」グレシャムの法則が働くから,大学はレジャーランドと化す。いやすでにそうなっている。スチューデントアパシー(無気力症候群)・分数も出来ない大学生・東大幼稚園などといった言葉が流行って久しい。最近ではほとんどの大学で高校レベルの補習授業を行っている。基礎学力がないために知的好奇心さえ持てない,悲惨な状態になったからである。しかも学習とは暗記,鵜呑みにするものとわきまえ,自分の頭で考えようとしない。論理的思考が苦手なのである。本を読まないのでまともな日本語の文章が書けないのも共通している。思考は母国語で行うから,日本語の力が衰えたことは,思考力の減退へ直結する。それどころか,挨拶の仕方・口の利き方のような本来家庭が行うべきしつけから,遊び方・さぼり方・先生や先輩へのたかり方に至るまで,手取り足取り教えなければならない有様である。
 米百俵の故事を持ち出すまでもなく,教育は国家百年の大計である。一世代以上経ってからボディーブロウのように効いてくる。戦後派やその後の団塊の世代は,戦後民主教育の洗礼を受けた最初の世代でもある。清新の息吹に満ちていた頃の実験教育を受けた。彼らが新日本の建設・追いつき追い越せを合い言葉に遮二無二がんばった成果が,高度経済成長として結実したといってよい。やがて団塊の世代が親になったが,企業戦士・会社人間として家庭を忘れ,共に過ごす時間のなさを金とモノで償った。鍵っ子団塊ジュニアの身の回りには,子供部屋・ゲーム機・ケータイ等々モノが満ちあふれている。温もりに満ちた母親とのスキンシップの代わりに機械がお相手をした。厳しく育てる動物の子育てとは正反対に,個性尊重の美名の下,子供たちに媚び,生き物としての子育てを放棄した。これでは社会性・耐性・柔軟性が育つわけがない。
 一方,教育を一手に引き受けざるを得なかった学校も,"教育の55年体制"が制度疲労にさしかかっていた。偏差値という妖怪が子供たちの日常生活の隅々まで浸透し,画一社会は子供や若者の心もむしばんだ。人間みな平等,子供はみな無限の可能性を秘めている云々ときれいごとで育てられてきたから,心理学でいうところの幼児的万能観を持ったまま成長する。努力もせずに自分の能力以上のことを高望みするが,現実は厳しい。当然フラストレーションに陥る。路線に乗れなかった者にはもちろん強いストレスになるし,エリート路線に乗れた者にも常に不安がつきまとう。友人は蹴落とすべきライバルに過ぎない。いじめやひきこもりが現れる所以である。同時に万能観ゆえに人生の方向が定まらない。青い鳥症候群という。自分が世の中に合わせるのではなく,社会が自分に合わせるべきものだと考えているのである。とくに現今不況下の時代閉塞状況では,努力しても所詮と冷めており,青年らしい正義感もなく,青臭い夢もない妙にひねた若年寄を育ててしまった。
 そこで事態を改善(?)すべく,2002年度から新学習指導要領が実施される。この改革のめざすものは"ゆとり"と"生きる力"の教育だという。しかし,これは何も新機軸ではなく,1980年の指導要領改訂以来続けてきた路線の総仕上げに過ぎない。したがって、新路線の行く末は過去の"成果"をふり返れば予想できる。今までの"ゆとり"教育は学習時間の減少とテレビ視聴時間の延長をもたらし,"生きる力"の教育は興味・関心・意欲の低下と階層格差の拡大をもたらしたとの実証的研究もある1)。この結論はわれわれ大学教師の実感からしても肯ける。大学生の宅習時間は小学生以下である。そのため、大学人を中心に新学習指導要領中止署名運動さえ起きているが、文科省は強行の構えである。今後は事態改善どころかもっと学力崩壊が進行し,精神的にも幼い"大人"が出現するであろう。すでに電車の中で声高にケータイで話す傍若無人の大人もいるし,それどころかわが子を虐待死させる幼い親すら出現している。次の世代はどうなるのだろうか。

3.理科離れ

 子供たちの"生きる力",つまり生き物としてのたくましさが失われているだけでなく,理科離れも深刻である。学習指導要領や検定教科書が諸悪の根源などといろいろ指摘されているが,大人も含めた日本人全体の自然離れと科学技術のマイナスイメージが根底にある。1950年代までは就業人口の大部分が農民だった。「兎追いし彼の山,小鮒釣りし彼の川」は実感として受け止められた。"となりのトトロ"は身近にいたのである。自然は変化に富み驚異に満ちているから,「なぜだろう」とさまざまな疑問がふつふつと沸き,知的好奇心が自然と養われていた。1960年代から高度成長期に入り,太平洋ベルト地帯にコンビナートが造られ,労働者が都市へ集められた。当時,「6割農民切り捨て」という言葉が流行ったものである。コンクリート砂漠に住み,わき目もふらず企業戦士として働いた。会社人間・組織人間として,「なぜ」と問いを発することが許されない風潮が蔓延した。マニュアル主義も横行した。当然,科学する心が萎える。自然と切り離された"文化生活"を送っていると,自然は単なる不便な田舎に過ぎない。地質調査などは3K(キケン・キツイ・キタナイ)の最たるものと見なされる。最近では学生の目に映る地質コンサルタントは5LDK(3K+金が安い・休暇がない・乱暴・怒鳴る)だとか。
 科学技術のイメージも変遷してきた。戦後の焼け跡から奇跡の復興を遂げたのは,科学技術の進歩によるところが大きい。"三種の神器"も時と共に変わったが,電化製品にしても車にしても,科学技術がもたらしたものである。エンジニアは尊敬の眼で見られていた。折からスプートニクショックもあって理科ブームが到来し,大学理工系の拡充が行われた。地質学もそのおこぼれに与り,文理改組により理学部地学科が多数新設されるようになった。
 しかし,やがて高度成長のツケが回り始めた。公害や自然破壊である。あるいは原発事故や原子力船「むつ」など,科学技術不信が芽生えてきた。反科学主義なる言葉まで登場した。地質技術者もまたムシロ旗で迎えられる乱開発の先兵と見られた。さらにバブル期になり,製造業が地盤沈下して経済のソフト化が喧伝されるようになる。土地投機やマネーゲームで一攫千金を得る者が現れ,法学・経済出身の官僚や経営者が世の中を牛耳るようになった。松下・豊田・井深・本田のようなエンジニア上がりの創業者が活躍した時代から,経営を維持するだけの二世世代へ移行し,政治家も親の築いた地盤を引き継ぐ二世・三世政治家の時代になった。エンジニアは彼らにアゴで使われるダサイ人種と,子供たちの眼には映ったに違いない。工学部出身者が金融業に就職した時代である。
 話を教育に戻そう。幼い子は好奇心のかたまりである。身の回りのすべてに「なぜ」を連発して親を困らせる。小学校時代までは,ほとんど全員理科が好きだという。それなのに高学年になるほど理科嫌いが増える。生物を育て野山を観察する授業から,室内における黒板授業に重点が移るからであろう。理科で言えば,受験体制ゆえに地学が縮小され,物理・化学中心の詰め込み教育が行われる。物理を例に取ると,子供たちに相対性理論や量子力学を教えるのは不可能である。ニュートン時代の物理が教えられる。内容は昔も今も変わりはない。先生は常に正解を握っており,生徒はそれを覚えるだけとなりがちになる。問題を解く手順を暗記すれば事足りる。テレビなどで壮大な宇宙の歴史やブラックホールについて解説されても,受け身のバーチャルな体験では実感を伴わない。子供たちには等身大の科学が適している。もっと実験実習の時間を増やし,感動を与える必要がある。ただし,手品のような"楽しい"実験ではダメで,実験結果について論理的に考察する訓練が重要である2)。その点,地学,とくに地質学は現実の露頭観察に基づき理詰めで過去を推察しなければならない。探偵が僅かな手がかりから犯人像を追いつめていくのと同じである。絶好の教科と言えよう。また,地学や生物には必ずしも正解はない。先生が学生の頃教わった定説は,今では他の説に取って代わられている。生き生きとした学問の最前線について教えることが可能である。自然界は謎に充ち満ちているからこそ,勉強する楽しみがあると実感できる。もしかすると自分でも大発見できるかも知れないと期待も持てる。理科離れに関しては,とくに初等中等教育で地学・生物の授業を重点的に行うことが打開への道ではないだろうか。
 少し話はそれるが,生きる知恵としての地学の重要性も強調しておきたい。丹沢のキャンプ事故にしてもちょっとした地学の常識があったら防げたはずである。災害では自分の命は自分で守るのが鉄則である。災害列島日本の国民にとって,地学は不可欠の国民教養と言えよう。現実は,地学の時間が少なくなり,地学教員の採用が控えられている。由々しき事態である。教育界・学界・業界挙げて事態の是正に取り組む必要があろう。

4.戦後日本のアカデミズム地質学

 地質学の世界も教育界と同じような経過をたどっている。戦前は東京帝国大学の教授が全国の地質学界を牛耳っていたという。それに異を唱えて結成されたのが民主主義科学者協会地学団体研究部会(地団研)である。日本地質学会の民主化をめぐってめざましい活躍をした。学問の面でも片や佐川造山運動を唱え,片や本州造山運動を提唱して,厳しく対決した。しかし,所詮地向斜造山論という旧来の土俵の中での党派的争いに過ぎなかった。
 科学パラダイムをめぐっても厳しい対立があった。前者は機械論メタパラダイム,後者は有機体論メタパラダイムの陣営に属していた。とくに岩石学への熱力学導入をめぐって激しい論争が行われた。一方は実験岩石学や同位体年代学の成果を大いに取り入れ,自然を解釈しようとした。他方はこれを物理化学主義として排斥し,地質学は歴史科学であって地質学独自の法則性があると主張した。
 プレートテクトニクスをめぐる論争にも引き継がれた。前者は水平移動派(mobilist)に,後者は垂直昇降派(fixist)に属した。60年代初頭大洋底拡大説が出たとき,中央海嶺で広がり続ければ地球は膨張するしかないと批判された。このとき島弧である日本から本質的な貢献が行われた。すなわち,深発地震面との関係を論じた久野のマグマ成因論,都城の対の変成帯概念,杉村・松田らによる共役横ずれ活断層に注目した東西水平圧縮応力場の提唱などである。それらの成果も踏まえて沈み込み帯の概念が提出され,60年代末にプレートテクトニクスが誕生した。一方後者の陣営は,ソ連のベロウソフが提唱したブロックテクトニクス説を奉じて陥没説を唱え,グリーンタフ造山を論じた。確かに新第三紀中頃は日本海が開き始める時期であり,火山活動も活発だったから,背弧地域は展張テクトニクスの場であった。ベロウソフがロシア卓状地のような安定陸塊での経験を普遍化しようとしたと同様,特殊な時期の特殊な地域での現象を造山運動一般に外挿したことに問題があったと言えよう。
 このように華々しく論戦が展開されたが,畢竟,実社会から遊離した象牙の塔の中での空中戦であった。それに対して,地球物理は地震予知を標榜して,社会のニーズに真正面から応えようとした。その結果,社会的ステータスも大学の中に占める比重も完全に逆転した。かつて地球物理は旧制大学の一部で教えられているに過ぎず,新制大学地学科の教員は全員地質鉱物出身者で占められていた。現在では国立19大学地球科学系学科長会議(元の地学科主任会議)を開くと,地質と地球物理でほぼ拮抗している。コップの中の争いに熱中し,互いに足を引っ張り合っているうちに,気がついてみたら地盤沈下していたのである。いわば"地質学の55年体制"の破綻である。

5.戦後の応用地質学

 では象牙の塔の外ではどうだっただろうか。資源とエネルギーは産業の米であり,産業には欠かせない。戦後いち早く石炭・鉄鋼の傾斜生産方式が採用され,地質学は戦後復興の旗手としてもてはやされた。金ヘン景気とか黒ダイヤといった言葉もあった。先輩たちは「山を駆け野を巡り/地の幸を尋ね行く/喜びを君と語らん」と高らかに歌い,胸を張っていた。応用地質学イコール鉱山地質学の時代であった。
 一方,敗戦で海外領土を失ったから,狭い4つの島で1億の人口を養わなければならない。食糧増産のかけ声の下,緊急開拓事業が行われ,その過程で水文地質学に対する社会的要請が強まった。しかし,アカデミズム地質学は岩石や地層以外相手にせず,水文地質学は小貫・蔵田・山本ら官界の地質技師たちの手によって発展させられた。エネルギーの面では電力再編成が行われ,佐久間・黒四など大規模ダムが次々と建設された。土木地質学の勃興である。地質学科卒業生が土木建設方面にも進出するようになっていった。もはや戦後ではないと言われ,オリンピックブームに沸いた60年代から高度成長期に入り,土木地質学は隆盛を極めた。社会資本の充実に果たした役割は高く評価して良い。この頃から応用地質学イコール土木地質学と認識されるようになった。しかし,アカデミズム地質学は依然として象牙の塔に閉じこもり,地質学を支えるインフラが資源産業から土木建設産業へシフトしたことにも気づかず,旧来路線を墨守しバスに乗り遅れた。結局土木地質学は大学の支援なしに,自学自習,民間の手によって開拓せざるを得なかった3)。このことはサイエンスとしての基盤の脆弱性を意味した。工学に引きずられ,理学の視点がややもすると忘却されがちであったと言わざるを得ない。どうしても施工サイドへの貢献に力点が置かれ,土木主導の乱開発を許してしまった一端の責任はある。とはいえ,客観的に見れば日本の土木地質学は世界のトップレベルに達していると言っても過言ではない。わが国のような若い変動帯は,安定大陸に比し地質条件が非常に悪い。その悪条件を克服してトンネルやダムを建設してきたのは,土木技術だけでなく土木地質学の進歩のお陰である。地質調査の面でも世界的レベルに達していたのである。青函トンネルが好例である。しかし,主として公共事業と共に発展してきたから,守秘義務の壁に阻まれて民間地質コンサルタントに論文公表の自由がなく,ノウハウとして個人ないし社内に蓄積されたままにとどまっていた。どうしても理論化・普遍化に難点が出てくる。こうしたいわば隠し味のような状態に放置していたことが,地質踏査によるジャッジなど頭脳労働に対して対価が低く,地質家の社会的ステータスが向上しなかった遠因ではないだろうか。業界挙げて学問的雰囲気の醸成と社会的地位の向上に向けて意識的な努力をすることが求められている。論文発表については,これからは情報公開の時代,徐々に改善されて行くであろうが。

6.アカデミズム地質学の現状

 次に,地質学の現状を見てみたい。周知のように全国の大学から地質学科(地学科)がなくなった。地質という名称が残っているのは新潟大学と信州大学だけである。大学教員を供給してきた大学院大学は一足先に地球惑星科学科に変身した。地方大学の多くも生物学科などと合体して,地球環境科学科に改組された。しかし,看板にふさわしい研究教育を創造していこうという勢力と,外圧でやむを得ず看板を塗り替えたに過ぎないとして旧来路線を守ろうという抵抗勢力とがせめぎ合っている過渡期と言ってよい。
 もっとも新学科の理念をめぐって真摯な論争が行われているならよいのだが,生き残りのためにはなりふりかまわず自己保身に汲々といった風潮もある。昨今の大学改革以来業績主義がはびこり,その上いわゆるトップ30などという大学淘汰案が出されたから,皆研究業績を上げるのに必死なのである。フィールド調査など悠長なことをしていては論文数が稼げない。勢い分析機器を運転しただけのデータに,鬼面人を驚かすスペキュレーションを付け加えた論文が増える。あるいはパソコンシミュレーションが流行る。産総研の文献データベースGEOLISの新規収録数は年々15,000件だが,地質図索引図に収録される地質図付き論文は200件とのことである。前者には講演要旨なども含まれるのだろうが,この格差が雄弁にこうした事情を物語っている。従来,大学紀要は分厚いバックデータや大きな折り込み地質図の付いた本格的な長大論文を掲載するために存在したが,紀要論文は業績としてノーカウントになったのも大きい。フィールド軽視を助長した。ページ数制限のある学会誌では,スケッチマップのような小さな地質図しか載せられず,いくらでもごまかしが利く。さらに,国際誌掲載論文が高く評価されるため,海外へ出稼ぎ調査に行って珍奇なものを記載し,英語論文をものにする風潮もある。こうした業績主義の風潮では,当然学生の教育が軽視される。ひどい場合には,先生の論文のデータ出しにテコとして使われる。自分の大学にある分析機器やX線装置の操作方法を覚えるだけで卒業する例さえある。
 私も大学人の端くれだから身内を批判するのは気が引けるが,「日本の科学者の大部分は科学が好きではないようだ」,「科学者の"科学離れ"が進んでいる」とまで言い切る人もいる4)。ルーチンの"研究"をしている"サラリーマン科学者"で,他分野には興味も関心も示さない"蛸壺科学者"というわけである。偏差値という数字で選別されて進学し,その中から論文数という数字で選ばれたのが大学教員である。つまり数直線上のエリートだから,目隠しされた競馬馬となってしまうのは必然でもある。
 私がこのままではフィールドワークのできる地質家がいなくなると警鐘を鳴らしたのは一昔前のことである5),6),7),8)。当時はバブルの真最中,杞憂と受け止められたのだろう,何らの手だても講じられなかった。前述のように大学教員を送り出す大学院大学が地球惑星になりフィールド離れしているから,地質調査法を教えるはずの助手層など若手教員自身,フィールド調査が出来なくなった。自称フィールドジオロジストでも,実際はサンプリングジオロジストであることが多い。当然,学生の教育に跳ね返り,悪循環になりつつある。フィールドワーカーは今や絶滅危惧種になった。ここで先見を誇っても,愚痴をこぼしても仕方がない。現状を直視した上で,何をなすべきか真剣に議論し,今度こそ具体的な行動に移らなければならない。
 さし当たって,地球環境科学科のカリキュラムを抜本的に見直すことが必要であろう。広く浅い総花教育ではマスコミ人を養成することはできてもプロは育たない。きちんとしたコアがあってこそ,幅広い知識が生きるのである。地質学でいえば,「フィールドで物を見ることができる」のが最低限の必要条件であろう。
 一方,経済大国日本ゆえに,その経済力に見合ったビッグプロジェクトも海洋科学技術センターJAMSTECを拠点に進行している。OD21や地球フロンティア・地球シミュレータ等々である。とくに地質に関係が深いのはOD21で,700億円もの国費を投じて深海底掘削船「ちきゅう」を建造し,マントルまで掘削しようとの計画である。こうした一点豪華主義はかつての大艦巨砲主義を彷彿とさせるが,大型機器は確かに有効な武器にはなり得る。問題はそれを使いこなし新しいテーマを発想する人材の養成である。そうでなければ,日本の地質学の本質的な進歩にとってあまり貢献にはならず,単なる内需拡大に終わってしまう。全国的な支援が必要であろう。折角の国際的なプロジェクトなのだから,経済的貢献だけでなく,頭脳の面でも国際貢献してもらいたいものである。

7.人間と社会のための地質学

 以上,かなり悲観的な現状を概観したが,今後には展望がないのだろうか。日本学術会議での討論を紹介する9),10)
 2000年日本学術会議がホストを務めた世界アカデミー会議は,21世紀を展望して,「学術のための学術science for science」から「人間と社会のための学術science for society」へ転換しなければならないと宣言した。趣旨は次のとおりである。すなわち,伝統的なディシプリン科学は,認識と実践を切り離すことによって,また研究対象を自ら狭め深く追究することによって,目覚ましい自立的自己充足的発展を遂げた。結果として,学術の成果を社会に適用し,逆にその経験を学術にフィードバックする仕組みに乏しかった。しかし,今や学術は一国経済の国際競争力を左右するだけでなく,地球環境問題や資源・エネルギー問題などの人類的課題にまで影響を及ぼす巨大な力を持つに至った。己の好きな研究に没頭していたら,気がついてみると,地球環境は破壊され,人類生存の危機さえ招来してしまったのである。社会と学術との新しい関係の発生とその深まりという現代の特徴を前にして,軌道修正を要請されていると言えよう。われわれは再び本来の姿に立ち戻り,知識の生産と利用との関係の再構築を通じて,社会のための学術,いわば社会に埋め込まれた学術の確立を目指さなければならない。当然のことながら,研究者は広い視野と見識が要求される。文理融合さえ視野におく必要がある。
 日本学術会議がこのような方向を打ち出した意義は大きい。国の科学技術政策を直接決定する機関ではないとはいえ,国全体の学術の動向に少なからぬ影響を与えるところだからである。実際,数年前学術会議が「俯瞰型視点」の重要性を強調したが,この言葉は今では一般社会においても頻繁に使用され,技術士総合監理技術部門の試験問題にまで出題されるようになった。バスに乗り遅れ社会と隔絶してきたアカデミズム地質学もまた,やがては「人間と社会のための地質学」の方向へ脱皮を迫られるであろう。今まで亜流として退けられ日陰者扱いされていた応用地質学も,大学で市民権を得るに違いない。すでにJABEEに関連して,そのような人事配置を行った大学も出てきた。
 地質学の立場から今世紀の方向を展望すると,"only one earth"という認識の下に,地球環境の保全を図りつつ,爆発する人口を養い,sustainable developmentを実現するために環境をデザインしていく,社会地球科学ないし地球環境科学へ変貌していくことは疑いない11)。地球科学・工学・社会科学等すべてを総動員するmulti-disciplinaryな総合科学である。もちろん,グローバルな問題だけでなく,防災や地域アメニティーの問題など,身近なふるさとの環境保全・創造にも貢献するものである。従来の環境地質学や地質工学等も含まれる。国際応用地質学会IAEGも,その名称にInternational Association of Engineering Geology and the EnvironmentとEnvironmentの文字が加わった。諸外国の大学でもDepartment of Geological and Environmental Sciencesに改組されたところも多い。なお,環境の時代になったらなおさらのこと,自然の摂理をわきまえた理学の視点が重要になってくる。したがって,私は純粋地質学を否定するものではない。自然史学など基礎分野が実学のベースとして重要なことは論を待たない。
 小論の標題には"地質学の危機"と名付けたが,確かに古典的な意味での地質学にとっては解体に瀕した危機的状況である。しかし,こうした視点から見ればチャンス到来でもある。学術会議の文章に例示されている「地球環境問題や資源・エネルギー問題などの人類的課題」は,すべて地質学の扱う課題である。幸い前述のように国立大学の多くに地球環境科学科が設置された。地質学科がつぶされたとひがむのではなく,発展の条件は整ったと考えてみたらどうだろうか。問題は仏に魂を入れることである。現在のような自己保身のための科学science for meではなく,学術会議のいうscience for societyの方向へ一刻も早く頭を切り換え,新分野の開拓に意欲を燃やして欲しいと思う。大学教員の奮起が望まれる。当然のことながら,for societyはfor industryでもfor companyでもない。人間のためだけでもなく,生きとし生けるもののための科学science for life on earthでなければならない。
 同時に、皆が社会へ眼を向けることは重要だが,純粋地質学も等閑視しないで欲しいと思う。日本列島はプレート収束域という地質学的に非常に重要なところに位置している。かつて久野ら先人たちは日本というフィールドに根ざして世界的な貢献をした。次なる地質学の科学革命にも日本から本質的な貢献をして欲しいと願っている。それはフィールドサイエンスの復権がもたらすに違いない。
 一方,学問の世界だけでなく,地質調査業でも環境と防災がその主たる活躍舞台になるであろう。今まで土木地質学として社会資本の充実に貢献してきたが,今後はこのストックをメンテナンスしていく時代になる。親方日の丸で公共事業にぶら下がっておられた時代は過ぎた。地域住民と共にふるさと創生・まちづくりを担う一翼として,専門家の立場からプランニングに積極的にかかわるNGOのような存在になるのではないだろうか。薄利多売でいくのである。地質汚染など環境修復分野も重要である。NGOといえば,国際貢献でも地質調査業は大きな役割を果たさなければならない。今も汚れた水が原因で毎年1,000万人もの人々が亡くなっているという。21世紀は水資源をめぐって戦争が起きるとの不気味な予言もある。発展途上国の環境問題も深刻である。エコノミックアニマル・森食い虫ニッポンなどと呼ばれ,熱帯雨林を裸にし,マングローブ林をエビ養殖場にした責任から言っても,環境修復や水資源の開発に貢献しなければならない。幸い前述のように水文地質ではわが国には実績がある。大東亜共栄圏やエコノミックアニマルではなく,彼らの良き隣人として,積極的に手を差し伸べる必要があろう。
 防災についても,単にメカニズムを論じハードの設計を行う人間不在の路線から,リスクアセスメントなど危機管理にも積極的に貢献することが求められている。2000年に制定された土砂災害防止法も,改正河川法も,共にソフト対策重視を打ち出した。災害の予知予測やハザードマップ作成など,事前の調査研究が重要視されている。ビジネスチャンスである。諸外国の危機管理局には地質家が多数いるという。地質学は総合科学であるがゆえに,地質家は視野が広いためらしい。残念ながらわが国では,地質家は好事家扱いで,防災は土木と消防というのが通念である。防災や危機管理面での社会的要請に応えうる社会科学も包摂した総合的な防災地質学を早急に開拓しなければならない。業界も土木のほうばかり目を向けるのではなく,消防防災など人命を直接与る分野とも積極的に関わる必要がある。

8.おわりに―鷹揚地質学―

 冒頭,故露木先生のお名前を出した。最後に露木先生の教育について触れ,結びとしたい。先生は,今の基準で言えば,実にいい加減な先生だった。休講も多く,試験をしても答案を見るとがっくりすると言って採点せず,卒業時に慌てて単位を出す始末,長期にわたって学生と一緒にフィールドを歩く熱血先生でもなかった。卒論も学生の好きなようにさせていた。もっともゼミのときには,辛辣な意見を述べて締めるべきときには締めておられたが,お人柄のためか学生たちは叱責とは受け取らなかったようで,"仏の露木"と呼ばれていた。総じて応用地質学講座は優しいところだから鷹揚地質学講座と言われていたものである。あるいは先生の教育方針は"応用地質の放牧方式"とも言われていた。ところがこんな甘い先生の教え子たちなのに,業界ではなかなか優秀であると評判である。恐らく先生は学生の持っている能力を引き出すことがお上手だったのだろう。そもそもeducateの語源はラテン語のeducere(引き出す)であって,"teach a dog to beg(犬にちんちんを仕込む)"という具合に使うteachとは根本的に異なる。先生はteacherではなく,まさにprofessorでありeducatorであった。
 放牧方式で育った学生は少なくとも自分でエサを採ることだけは知っている。厩にはいなかったから,雨風にも耐えられる。したがって,現在のような激動期,新しい分野を開拓しなければならないときにあたって,先生の教え子たちは俄然能力を発揮しているのであろう。それに反し,厩舎で育ち,次はまぐさ,次は水と管理飼育された学生たちは,マニュアル主義の時代には重宝がられたかも知れないが,こうした激動期には手も足も出ないに違いない。もっとも今の学生に対して同じように放牧方式をやると,エサの採り方を知らないから飢え死にしてしまうだろうが。
 鹿大応用地質学講座の学生が特別優秀な素質を持っていたわけではない。逆に今の学生の素質が特別劣っているわけでもない。ただ,たくましさが少し足りないだけである。しかし,いつの時代も青年は可能性を秘めている。教育如何によっては,必ずや能力を発揮するに違いない。露木先生の教育はこれからの道にも希望があることを示している。  以上,小特集にふさわしかったかどうか心許ないが,日頃考えていることの一端を述べた。あまりに悲観的で過激だとのお叱りはあろう。しかし,きれい事を並べお互いに傷を舐め合っていても事態は改善されない。また,歴史は教訓を引き出すためにあるのであって,過去の責任論をめぐっていがみ合っても非生産的である。小論後段で述べたように,地質学には追い風が吹いている。教育にとっても地質学にとっても希望はある。関係各方面が力を合わせて,追い風をしっかり受け止める体制づくりに取り組もうではないか。小論が地質学および地質調査業の飛躍にとって,討論の素材となれば望外の幸せである。

参考文献

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  11. 岩松 暉(2001): 明日を切り拓く地質学―環境デザインと地質学の役割―. 井内美郎・岩松 暉・大矢 暁・徳岡隆夫・湯佐泰久編「明日を拓く地質学」, 日本地質学会, 9-26.

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更新日:2002年2月21日