環境デザインと地質学の役割

 岩松 暉(日本地質学会2000年総会シンポジウム講演)


1.はじめに

 小学生の発する疑問の6割は地学(含天文気象)に関するもので、あとの4割が生物だという。物理・化学や社会に関するものはほとんどない。地学が日常生活に密着している証拠である。それが高校になると全く逆転し、大学では誠にマイナーな存在となる。世間では地球科学イコール地球物理学だと思っている人が大部分である。なぜこうなったのであろうか。一つは学問の停滞が挙げられる。日本の地質学が旧弊に閉じこもり、地球科学革新の時代に本質的な貢献をしなかったことにある。もう一つは社会のニーズに背を向けてきたことにある。地球物理学は地震予知などニーズに真正面から取り組もうとし(さまざまな考えはあろうが)、社会的市民権を得てきたからこそ、前述のような世間の評価を得たのである。
 翻って地質学はどうだったろうか。かつて先輩達が「山を駆け野を巡り/地の幸を求め行く/喜びを君と語らん…」と声高らかに歌っているのを聞いたことがある。彼らが活躍した時代は、石炭は黒ダイヤと呼ばれ、金ヘン景気なる言葉があった時代である。地の幸(資源とエネルギー)に直接かかわる地質家は戦後復興の旗手として大いにもてはやされ尊敬されていたから、誠に意気軒昂たるものがあった。しかし、その後資源産業が衰退し、地質学を支えるインフラは明確に土木建設産業にシフトした。ところが、地質学は変革を怠り、資源にしがみついたまま、大学では相変わらず資源中心のカリキュラムを教えてきたのである。したがって、卒業生たちは独学で地質工学を学び、対処せざるを得なかった。今また、世は地球環境時代に突入しようとしている。前の時代の失敗を教訓とし、大胆に自己変革を遂げ、時代のうねりに乗らなければならない。

2.21世紀に求められるもの

 図-1は一昨年(1998年)総理府が行った「将来の科学技術に関する世論調査」のうち、「発展を期待する科学技術の分野」は何かとの質問に対する回答である。地球環境や自然環境の保全と答えた人が一番多く、以下第6位まで、エネルギー・資源・廃棄物処理・防災などと続く。国民が科学技術に期待し、具体的に解決して欲しいと願っていることの大部分が地質学の深く関わる分野である。1995年の前回調査でも、同様の結果であった。このような国民の意向は政財界・官界も無視できない。やがて、地質学は日の当たる分野として脚光を浴びる時代が来るに違いない。その時に、社会の要請に応え得る学問内容を創造しておかなければ、それこそ永久に没落してしまうであろう。

3.環境デザイン

 では地球環境時代、地質学はどのような方向へ変貌を遂げていくのであろうか。その前に20世紀をふり返ってみよう。平成11年版環境白書―21世紀の持続的発展に向けた環境メッセージ―は、「破壊の世紀から環境の世紀」へと端的に表現している。確かに20世紀前半は自然の収奪(資源採掘)、後半は自然破壊(乱開発)が大規模に行われ、自然環境に甚大な影響を及ぼした。地質学は、資源開発では主役を、乱開発では土木の僕として名脇役を演じた。もちろん、環境白書の「破壊の世紀」というのはいささか乱暴な決めつけである。資源の浪費や自然の摂理を無視した乱開発は好ましくないが、資源とエネルギーを開発し、インフラを整備したことによって、豊かで快適な生活を維持し、これだけの人口を養うことが出来たからである。地質学の功績であって、決して責められるべきものではない。自然保護も行き過ぎて、自然に全く手をつけるなというprotectionに至っては論外である。縄文の昔に戻る訳にはいかないのである。元金に手をつけるのは困るが、利息はいただかなければ、人間は生活を維持できない。保全conservationである。国連ブルントラント委員会(1987)が打ち出し、リオ地球サミット(1992)で有名になった「持続可能な開発」sustainable developmentもこの脈絡上にある。
 筆者が「来るべき21世紀には、環境と調和しながらいかに自然を利用していくか、環境設計が重要な課題となる。工学は現在という一時点での最適適応を考えるが、地質学は悠久の自然史の流れの中で現在を捉え、未来を洞察することができる。また、文字通り地球科学であり、汎世界的な視点も持ち合わせている。こうしたロングレンジの発想とグローバルな視野という地質学の長所が、環境設計に当たっては一番重要になってくる。このような地質学の武器を生かしつつ、環境設計という課題に具体的に対応できるだけの学問内容を創造し、技術革新していかなければならない。それも残された20世紀の10年の間に確実にやり遂げる必要がある。そうしてこそ、地質学の存在意義が社会的に高く評価されるであろう。」と述べたのは1988年のことである。当時は「環境デザイン」ではなく、「環境設計」という言葉を使っていた。人間が主体的に環境に関わっていくといった視点の重要性を強調するために設計という言葉にしたのである。このことは機会あるごとに強調したが、残念ながら学界全体としては実践されなかった。しかし、今からでも遅くはない。着実に実践する必要があるのではないだろうか。なお、国連環境計画UNEP(1994)がエコデザインという言葉を使っている。これは単なる自然環境の保全だけでなく、あらゆる産業において原料調達から製造・流通まで環境負荷を少なくするための指針であり、筆者の言う環境デザインよりも大きな概念である。
 従来、土木建設方面では、構造物を造る際の立地場所は政治的経済的に決められ、地質学にはその後サイトの支持力など設計に必要なデータの提供を求められるに過ぎないことが多かった。そのため、自然の摂理を無視した乱暴な開発が行われるケースが跡を絶たない事態を招いた。やはり、プランニングの段階から、地質学が関与し、主導権を握る必要がある。また、竹下氏のふるさと創世事業以来、むらおこし、まちづくりが盛んである。しかし、末端市町村には人材がいないから、勢い東京のプランニングコンサルタントに立案を依頼することになる。しかし、そこには都市工学科か建築学科出身者がいるだけで、地質家はいない。経済学部地域政策論ゼミ出身者がいればよいほうである。したがって、白いキャンバスに絵を描くかのように、全く地質を無視したデザインが行われる。キャンバスの下に地面があることを忘れているのである。その結果、とんでもないところに手を付けたために地すべりを誘発してしまったという例さえある。
 防災についても同様である。従来はハード万能主義だった。しかし、近年ソフト対策へ方針転換が図られようとしている。土砂災害対策新法では、土砂災害特別警戒区域における立地抑制策などの実施が検討されているという。総合的な防災まちづくりが求められているのである。当然、力ずくで抑え込むのと違って、地質学的な知識が重要となる。
 新全総(1998)でも「21世紀の国土のグランドデザイン」ということが言われ、多自然居住地域の創造などの方針が打ち出された。高度成長期、社会資本に大規模な投資を行ったため、ストックがかなり充実してきたし、国家財政の危機もあって、これからは構造物をどしどし造るよりも、自然と共存して生きていく方向にならざるを得ない。細菌に抗生物質で対抗したら耐性菌が出現し、いたちごっこになったことから、今後は細菌と共存し無害化する方向がトレンドだという。高度成長期に造った構造物の一斉劣化を目前にして、公共投資についても同様な反省が出ている。そうなると、やはり自然の摂理を一番わきまえている地質学の出番となる。
 かつて昭和30年代に、地質調査所で地質調査法なる法律制定の動きがあったという。これは地質調査所自体の活動を円滑に進めるためのものだったらしいが、開発の前にプランニングの段階から地質調査が義務づけられていたら、今のような無惨な日本列島は生まれなかったに違いない。今からでも遅くはない。地質調査に関する法律の制定が必要であろう。文化財保護法では、遺跡が見つかると発掘を義務づけている。その結果、近年、考古学上の発見が相次ぎ、わが国の古代史が一変してしまったことは周知の通りである。地質調査と地質情報の公開が義務づけられたならば、地質学自体の発展にとっても画期的なこととなるであろう。

ページ先頭|応用地質雑文集もくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2000年3月4日