明日の応用地質学会九州支部

 岩松 暉(『応用地質』創立40周年特集号, Vol.39, N0.1, 154-128.,1998)


1. はじめに

 本年1998年は本部創立40周年であると同時に九州支部創立20周年の記念すべき年でもある。今年から来年にかけて後述するようなさまざまな記念行事が企画されている。しかし,懐古趣味に陥ったり,単なるお祭り騒ぎに終わらせたくない。すなわち,成人式を迎えたのであって,一人前の大人として来るべき21世紀に大きく羽ばたく決意を固める絶好の機会なのである。支部20年の歴史を振り返ると共に,今後の発展方向についての私見を述べ,明日を担う若い人たちの参考に供したい。

2. 九州支部20年の軌跡

 九州支部創立当初の経緯については支部会報創刊号および10周年記念号に詳しいので,ここでは概観するにとどめる。支部の創立は,発起人籾倉克幹九州農政局地質官(当時)の呼びかけにより1978年8月5日九州支部設立集会がもたれたことに端を発する。出席者34人の賛同を得て設立が議決されたという。早速本部に支部設立申請を提出すると共に,本部承認を待たず同年10月14日ダム工事現場の見学会を催すなど実質的な活動を活発に開始した。こういった点が九州支部の面目躍如たるところであり,独立自尊の精神と実践的な気風は今に引き継がれている。なお,九州支部創立20周年という場合,実質的な活動を開始したこの年から数えた数字である。
 翌79年の4月に本部の正式な承認がおり,同年10月27日創立総会を開いた。当日午前中は地下鉄工事現場の見学会で,総会は午後4時から5時までわずか1時間もたれた後,直ちに懇親会に移行,8時半まで盛大に行われた。常に現場に立脚していること,「アフターファイブこそ九州支部の神髄」と言われるように,会員相互の親睦を重視していることなど,九州支部の伝統はこの時に作られたのである。なお,創立当初の会員数は,個人会員220名賛助会員38社であった。初代支部長は山崎達雄九州大学教授(当時生産研究所所長)である。以来,会員数は着実に増え,現在では約500名に達している(図-1)。
 前述のように,見学会は毎年もたれていたが,研究発表会が開かれるようになったのは創立4年目の1982年になってからである。それまでは総会に合わせて講演会を開く程度だった。
 講習会がもたれるようになったのはさらに遅れて1985年のことである(表-1)。初期の講習会が「やさしい応用地質学」とか「土質柱状図の作り方」といったタイトルが示すように,若手に基礎をしっかり勉強してもらうという趣旨であったが,やがて,防災地質のように九州に根ざしたものから,地形・情報・環境といった時代を先取りするものへと発展していった。

表-1 九州支部講習会の内容
1985岩盤分類
1986やさしい応用地質学
1987土質柱状図の読み方と作り方
1988新しい地盤調査法T
1989新しい地盤調査法U
1990防災地質の現状と展望[本部主催]
1990新しい地盤調査法V
1991九州における防災地質(その1)
1992九州における防災地質(その2)
1993地形と応用地質学〜九州の地形は語る〜
1994地形と応用地質学(その2)〜地形から得られる地質情報の実際〜
1995地震による地盤災害とその対策〜特に九州を対象として〜
1996応用地質技術者のためのパソコン入門
1997応用地質学からみた環境問題

3. 九州支部の特色

 九州支部の特色は何よりも会員構成にある(図-2)。応用地質学会が地質学を標榜する以上,理学部地質出身者,いわゆる地質屋が多いのは当然であるが,工学系の方が約4割を占める。高卒の方もほとんど工業高校の土木工学科か採鉱学科の出身者である。第2代支部長の山内豊聡九州大学教授(当時)のような土質力学の大家が支部長を引き受けてくださったことが象徴するように,工学系の方々が積極的に運営に関わってくださった。このことが九州支部の活動を豊かに厚みのあるものにしている。従来,軟弱地盤の専門家は土質工学会,地すべりの専門家は地すべり学会,がけ崩れや土石流の専門家は砂防学会へという図式で,応用地質学会はダムやトンネルなど岩盤を扱う地質屋さんの集まりだったと言ってよい。九州支部は,初代支部長の山崎先生が生産研という工学系の研究所長だったこと,第2代支部長の山内先生が工学部教授であったことなどから,工学系の方々が違和感なく入会できたのであろう,さまざまな専門の方々が集まった。そもそも土質力学の創始者Terzaghiは,研究生活を応用地質学の研究からスタートし,晩年,「現場におけるねばり強い克明な調査と観察」の重要性を訴え,応用地質学に帰ったという1)。地質は理学,土質は工学といった人為的な壁は本来なかったのである。両々相まって発展してきた歴史を考えれば,九州支部は理想的な会員構成と言ってよい。期せずして学際的な学会になり,異業種交流の場になった。懇親会などで出来た人脈が仕事や学問の発展に大いに役立っている。その意味でもお互いにとって,九州支部の存在はメリットが大きいと言えよう。
 第二の特色は,前にも述べたように人の和である。産・学・官の壁や会社間のライバル関係などが学会に持ち込まれることなく,和気藹々とした人間関係が醸し出されてきた。学会の場だけでなく,私的にも親交が深められるきっかけを提供している。ゴルフ仲間や飲み仲間もたくさん生まれているらしい。
 第三の特色は,現場重視と教育機能である。会社にはそれぞれ得意な分野と不得意な分野とがある。その会社が不得手な分野については,上司からも教えてもらえない。九州支部の見学会や講習会が,そうしたところを埋め合わせる役割を果たしてきた。実践的な私学である。
 第四の特色は,若手中心の運営と民間会社の協力である。30〜40歳代の中堅どころ,つまり民間会社の部課長クラスや役所の地質官あるいは若手大学教員が幹事を勤めて実質的な運営に当たっている。また,幹事会社の積極的なサポートなしに支部運営はあり得なかった。幹事会社は福岡に本・支店を置くコンサルタント会社に回り持ちで受け持っていただいているが,その点でも評議員クラスの人の和がこうした円滑な運営を可能にしている。

4. 九州支部の問題点

 では,九州支部はすべてうまく行っているかと言えば必ずしもそうではない。第一に,学会なのに大学関係者の参加が少ない。第3代支部長は故高橋良平九州大学長(当時)である。支部長をやっている人がたまたま学長に当選する例はあるかも知れない。高橋先生の場合は,学長が支部長を引き受けてくださったのである。普通では考えられない。先生の世代の地質学者は,何らかの形で世の中のお役に立たなければならないとの意識を持っておられた。だからこそ,学長職の激務の中,名目だけではなく実質的にも支部長として働いてくださったのであろう。しかし,現在の大学人には,学問を支えているインフラについて顧みる人は皆無に近い。応用などは亜流であって学問ではないと思っているらしい。
 第二に,若手の参加の問題がある。先に人の和について触れたが,創立当時の中堅どころは,今や企業のトップである。年寄りの仲良しグループになった観がないでもない。しかし,若者から見放された組織は,間違いなく衰退する。これはいつの時代にも真理である。TECRISも登場したし,地質調査業も国際参入が常態になろう。21世紀はもはや族議員の政治力や談合などが通用する時代ではない。実力主義の到来である。その時に若手に実力がついていないと,国内の調査業務でも,外国企業に席巻される恐れがある。学会に新入社員など若手が出席して活動できるような配慮を経営者層に望みたい。
 第三は会員拡大と地方還元の問題である。会員数は図-1に示すように順調に増加してきたが,右肩上がりであるとはいえ,伸び率が鈍化している。若手の勧誘は当然として,福岡県以外の九州各県在住者にも積極的に働きかける必要がある。交通の関係で集会はすべて福岡で開かれているが,地方在住者にとってもメリットのある活動が必要であろう。もちろん,今までも見学会を地方で開催するなど配慮はしてきたが。また,賛助会員数の増加と口数増にも取り組み,財政基盤をより強固にする必要がある。
 第四は本部との関係である。先に独立自尊と述べたが,法人化を視野におくと,やはり改善の余地があろう。

5. 九州支部創立20周年記念事業

 先ず,本年5月の第20回定期総会を20周年記念総会として盛大に執り行う。第二に,20周年記念海外研修旅行を実施する。個人の観光旅行ではなかなか行けないところということで,7月にモンゴル巡検を企画している。第三に,明年3月に支部会報20号を20周年記念特大号として発行する。
 しかし,何と言っても20周年記念事業の目玉は,応用地質に関する普及書の出版であろう。『昨日,今日,明日―応用地質の歩み―』(仮題)という書名で築地書館から刊行される。記念シンポジウムを開催して,その論文集を自費出版するといった,どこの学会でも行うありきたりの方法を採らなかった理由は次の通りである。
 残念ながら地質学および地質コンサルタントの社会的地位は必ずしも高くない。地質学イコール恐竜化石であって趣味の学問と思われているし,コンサルタントと言えば経営コンサルタントと勘違いされる。やはり,地質学という学問や地質調査業という職業が社会的に広く認知されていないからである。自分の子ども達が学校で親の職業を聞かれたときに胸を張って答えられるような状況を作り出すためにも,もっと地質学を社会にアピールする必要がある。しかし,自費出版では会員以外の人の眼には触れないから,一般書店で容易に購入できるような出版形態が望ましい。
 出版理由の第二は,自分たちが今までやってきた到達点を明らかにし,将来の方向について思索する機会にしたいということである。マスコミ論調では,土木イコール談合・癒着,公共事業イコール無駄遣いとのイメージが振りまかれ,応用地質は自然破壊の共犯者かの如く思われている。確かに開発一辺倒のやり方には反省すべき点がない訳ではない。環境破壊も,自然の仕組みを理解せず,現在という一時点での最適適応といった一面的な工事を行った結果である。地質学の持つ長所,すなわちロングレンジの発想とグローバルな視野が生かされれば,もっとちがった結果になっていたであろう。21世紀は地球時代であり環境の時代である。インフラ整備にしても,地質学が土木の僕ではなく,もっと主導的な役割を果たし,環境をデザインしていく時代になるであろう。また,そうした方向を今から模索し開拓していかなければならない。
 一方,子ども達の理科離れも深刻である。小学生では大部分が理科好きなのに,高学年ほど理科嫌いが増える。子ども達を理科好きにする早道は身近な自然に目を向けさせることであり,地学はもっとも適した教材である。この普及書を通じて自然科学の面白さを知り,地学を志す後継者を育てたい。これが第三の理由である。

6. 九州の歴史と自然

 来るべき21世紀の九州支部を展望する前に,九州・沖縄のおかれている位置について概観してみたい。九州は中央から遠い遅れた辺境の地と思っている人がいるかも知れない。しかし,それは僅かこの100年間に作られた虚像に過ぎない。明治以降産業革命が進行する中で,九州はエネルギー基地・原料食糧供給基地の役割が与えられ,常に表舞台の中央を下から支える後方基地とされてきたことに由来する。
 昨年,鹿児島で最古最大の縄文遺跡が発見された。薫製肉を作ったり,かなりグルメな生活をしていたらしい。遺跡を覆う黒土から微粒炭も見つかっているから,もしかすると焼畑農業が行われていたのかも知れない。裸同然でドングリを食べているといった貧しい縄文観は根底から覆った。下って弥生時代には有名な佐賀の吉野ヶ里遺跡がある。邪馬台国がどこにあるにせよ,古代文明は九州に始まり,北へ波及していったことは間違いない。熊襲や隼人など「まつろわぬ民」と蔑視されるが,これも明治以降天皇神格化の中で故意に形成されたイメージであって,九州人の誇り高い反骨精神の原型である。幕藩体制下にあっても,九州は外様として必ずしも幕府の意のままにはならなかったし,倒幕の中心も九州人だった。第一,琉球王国は明治まで独立国の地位を保ってきたのである。以上見てきたように,九州は一貫して中央とは独立した独自の文化圏を築いてきたと言ってよい。
 海外との関係についてみても,九州人は常に海外に目を向け,海外に雄飛してきた。古代から朝鮮半島とは密接な関係があったし,遣唐使も坊津を拠点とした。倭寇時代から御朱印船時代まで,中国だけでなくルソンから遠くシャムまで南海を股にかけて活躍し,彼の地に日本町を建設したのは九州人が中心だったという。ちなみに『元和航海記』を著した池田与右衛門は肥後の人だし,加藤清正も16畳の大広間や風呂まで付いた大船を建造した。鎖国時代に出島や対馬が外国に開かれた窓の役割を果たしたことは周知の通りである。こうして九州人の中には進取の気性と国際性が受け継がれてきた。早慶二大私学の創設者大隈重信・福沢諭吉はそれぞれ佐賀・大分の出身だし,東京開成学校(後の東大)初代校長畠山義成は鹿児島出身である。現在でも九州出身の開明的な起業家が多いという。
 地質学の世界でも,鎖国の禁を犯して英国に密航した薩摩藩渡欧留学生(先の畠山もその一員)の中に,鉱山学を学んで帰った朝倉盛明がいる。彼の持ち物であろうか,鹿児島の尚古集成館にわが国最古のクリノコンパスがある(写真-1)2)。九州は実践的地質学発祥の地なのである。
 さて,翻って九州のおかれている自然条件について見てみよう。九州は西南日本弧と琉球弧の会合部に位置しており,四国や関東で確立された日本列島の地体構造区分を教科書的に当てはめることは出来ない。琉球弧はそれ自体長さ1,000kmもある独立した島弧である。九州の地質の特徴は,桜島はじめ世界でも有数の活火山を数多く抱え,火山性堆積物に広く覆われていることにある。土木地質学的にもそれに起因する独特の課題を抱えている。
 また,北西太平洋季節風帯に属し,梅雨前線が停滞しやすく,台風常襲地帯でもある。そのため,自然災害が多い。とくに土砂災害は他地方に比し群を抜いている(図-3)3)。まさに災害アイランドである。防災地質学が期待される所以である。
 離島を多く抱えていることも特徴である。水資源問題はじめ,離島であるが故の地質学的課題も多い。南西諸島から沖縄にかけては気候的には亜熱帯に属し,赤色風化や琉球石灰岩など亜熱帯特有の地質学的課題もある。

7. 21世紀の九州支部

 21世紀のキーワードにはいくつかある。先ず地方の時代である。今まで地方からヒト・モノ・カネを吸い上げて太平洋ベルト地帯に重点投資し,高度成長を図ってきた。前述のように九州はその後方基地としての役割を与えられ,社会資本の投下がベルト地帯に比べて極端に少なかった。今後は多極分散型社会をめざし,地方をもっと充実しなければならない。したがって,これからも九州における資本投下は進むものと期待される。九州の地に根ざした持続可能な開発のあり方を研究し,それを応用地質学の立場から理論付けていく活動や新たな手法の開発が九州支部の重要な課題となろう。
 次のキーワードは国際化である。これについては,前章で述べたように,九州には伝統がある。何しろ地理的に有利な位置にある。九州―東京と九州―上海の距離はほぼ等しい(図-4)。現在東アジアの経済は苦境に立たされているとはいえ,世界人口の1/3を擁しており,21世紀の成長センターになることは間違いない。九州はそのアジアへの表玄関である。九州は火山国であり,奄美・沖縄など亜熱帯も抱えている。われわれはこうした特殊な地質学的風土病に対するノウハウを長年培ってきた。東南アジアは九州と同様の地質条件にある。こうした諸国へ知識移転し国際貢献に資する道こそ,21世紀初頭の九州支部が目指すべき方向であろう。ただし,かつての大東亜共栄圏やエコノミックアニマル的発想は厳に慎まなければならない。荒稼ぎの対象とのみ捉えるのでは善隣友好関係は決して築けないであろう。
 第三のキーワードは環境である。地球温暖化といったグローバルな問題もさることながら,もっと身近な地域の環境,快適な住空間の創造も重要な課題となる。地方が見直されている理由の一つは,都会では失われたアメニティーが地方に残っているからである。環境問題というと,開発の後始末のように捉えられがちであるが,先にも述べたような環境デザインといった積極的な姿勢が求められている。もちろん,地質汚染など負の払拭にも対応しなければならない。九州ではまだ顕在化していないが,各地でかなり地質汚染が存在しているようである。また,廃棄物処分の問題も大きい。火山性堆積物の多い九州では,処分場建設にはより慎重な調査が要求される。幸い火山地域におけるダム建設にはノウハウを持っているのだから,処分場建設にも貢献できるはずである。
 第四のキーワードは防災である。先にも述べたように,災害アイランド九州にとって,防災は片時として忘れてはならない。防災地質学を発展させるのは九州支部の責務といってよい。
 第五のキーワードは海洋である。九州は海に囲まれており,海の問題は避けて通れない。本四架橋や東京湾横断道路など,全国的には経験があるものの,九州は取り残されたため,あまり技術の蓄積がない。しかし,天草三県架橋など,九州でも海域構造物の建設が出てくるに違いない。こうした海洋土木についても研鑽を積む必要があろう。
 第六のキーワードはメンテナンスである。コンクリートの寿命からいって,戦後造られた構造物はそろそろメンテナンスの時期にさしかかっている。21世紀初頭には,列島改造時代に大量に造られたものが一斉にメンテナンスの時期に入る。新しいものでも,アルカリ骨材反応などで寿命の短いものもある。九州は,地質からいって好ましい骨材が入手し難いため,問題がある材料を使った例も多いのではないかと推察される。応用地質学は新しく造るための調査には蓄積があるが,安全性調査や耐久性調査はあまり経験がない。今後開発すべき分野であろう。
 第七のキーワードは情報である。建設CALSなど既に始まりかけているが,21世紀は完全に情報化社会になる。若手にはキーボードアレルギーなどないだろうが,コンピュータを文房具のように自由に使いこなせなければ話にならない。今まで九州は遠隔地であるが故に不利な扱いを受けてきた。情報化時代には,もはや距離感はなくなった。九州にとっては有利な時代になったと積極的に受け止め対処していこう。さもないと従来のいわゆる「新幹線効果」のように,都会と直結したが故に地方は逆に収奪され,地盤沈下してしまうであろう。
 第八のキーワードは技術革新である。コンピュータに限らず,地質調査の分野でもさまざまな技術革新が急速なテンポで行われるであろう。誰かが開発した新しい機器を単に使いこなすだけでなく,地質屋も新技術の開発に自ら当たる力量が求められる。21世紀の地質屋はハードにも強くなければならない。
 第九のキーワードは実力主義である。これからは国際競争が厳しくなり,コンサルタント業界にも淘汰の時代が来ると言われている。終身雇用制もなくなり,アメリカ的な実力主義の社会になる。先にも触れたTECRISなどはそのはしりである。若手がもっともっと実力を付ける必要がある。地質屋の実力とは地質調査の技術であり,フィールドを見る眼力である。この基本をしっかり身につけなければならない。支部講習会でも野外実習・現場実習を企画したい。
 また,TECRISでは発表論文まで登録される。せっかく立派な調査をしても表に出なければ評価されないし,応用地質学の発展にもつながらない。論文を書く習慣を身につけよう。今までは守秘義務が壁になってきたが,これからは情報公開の時代,国民の税金で調査したのだから,調査結果も国民へ返すのが当然と考えられる時代になるであろう。そのためには,九州支部会報もキチンとしたレフェリーを置いた学術雑誌になって,そうした論文の発表の場にしたいと考えている。当面は,本部の『応用地質』誌に載せる前の練習台として使ってもらえたらと思う。誌名も『九州応用地質』というのはどうであろうか。現行の『支部会報』では同好会の連絡誌と誤解される。
 以上,いろいろなことを羅列したが,先に述べた問題点を克服し,以上の諸点を実践していけば,九州支部の明日は明るいであろう。

8. おわりに

 この原稿は少なくとも支部幹事会ぐらいには諮ってから投稿したいと考えていたが,締め切り間際に取りかかったため,個人見解のまま投稿してしまった。お詫びする。文責は岩松個人にある。

引用文献

  1. 山内豊聡(1984):応用地質学と土質工学,応用地質,Vol. 25, No. 4, pp. 151-157.
  2. 岩松 暉(1989):実践的地質学の源流としての薩摩,鹿児島県地学会誌,No.62, pp. 17-32.
  3. 砂防・地すべりセンター(1997):土砂災害の実態1996,砂防・地すべりセンター,pp.1-56.

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連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1998年2月15日