ボーダーレス時代の地盤工学と応用地質学

岩松 暉 (「土と基礎」創立50周年記念号 Vol. 52, No. 1, pp.13-15, 2004)


1.はじめに

 世は激動の時代,大企業まで倒産し国立大学も独法化,一昔前の常識は通用しない。21世紀型社会体制が生まれるための陣痛なのであろう。学術面も埒外ではない。大規模な歴史的転換が始まったのではないだろうか。第18期日本学術会議で行われていた議論を紹介する1) 2)

2. 行き詰まり問題

 帝国主義植民地主義の時代,自国市場の狭隘さを克服するためには領土拡張しかない。生まれたばかりの飛行機が直ちに戦争に応用されたように,20世紀前半までは軍事目的に科学技術が動員された。中山茂3)はこれを第1のパラダイム,「軍事的跛行の科学技術」と呼んでいる。しかし,2度にわたる世界大戦の結果,植民地の再分割は行き詰まった。以後は自国における生産性を高めるしかない。20世紀後半は第2のパラダイム,「市場経済のための科学技術」に莫大な投資が行われ,これによって科学技術は爆発的に発展した。その結果,先進国では豊かで快適な社会を実現したが,一方でエネルギーと資源の浪費は地球環境を破壊し,人類生存の危機さえ叫ばれるような事態を招来した。世紀末にいたって第2の行き詰まりに直面したのである。第1の行き詰まり問題は地球の空間的有限性であったが,今度は資源と環境の有限性であった。こうした人類史的課題としての「行き詰まり問題」を解決し,持続可能な社会を実現するために,学術は何をなすべきなのだろうか。今や第3のパラダイム,「地球環境保全の科学技術」が求められる時代になったと言えよう。

3. 社会のための学術 Science for Society

 伝統的ディシプリン科学は,認識と実践を切り離すことによって,また研究対象を自ら狭め深く追究することによって,目覚ましい自立的自己充足的発展を遂げてきた。科学のための科学Science for Scienceだったのである。結果として,学術の成果を社会に適用し,逆にその経験を学術にフィードバックする仕組みに乏しかった。己のディシプリンの中での最適解を追究するのみで,そのもたらす負の効果や社会的影響には無頓着だった。フロン問題や環境ホルモンなどが好例であろう。個別領域の研究を俯瞰する「俯瞰型研究」が必要である。
 今や一国の科学技術水準がその国の経済力を規定すると言われるほど科学技術の社会的・政治的影響力は強まってきた。こうした社会と学術との新しい関係の発生とその深まりという現代の特徴を前にして,学術は軌道修正を要請されていると言えよう。われわれは再び本来の姿に立ち戻り,知識の生産と利用との関係の再構築を通じて,人間と社会のための学術Science for Societyを確立しなければならない。当然のことながら,研究者には広い視野と見識が要求される。新しい学術の体系,「統合システムの科学と技術」が必要である。文理の融合さえ求められているのではないだろうか2)

4.応用地質学からみた日本の地質学

 私の専門である地質学を例に取ろう4)。石器時代・青銅器時代なる言葉が示すように,人類は太古より鉱物資源を利用することによって飛躍的な発展を遂げてきた。近代地質学もまた,産業革命期のイギリスにおいて,鉄と石炭,つまり資源とエネルギーを担う基幹学問として確立する。なお,世界で最初の着色地質図を作成したとして名高いW. Smith(スミス,1769〜1839)は石炭運河の土木技師であった。特定の化石が出るところでは,岩石が硬くて掘りにくいとか,ある化石の出るところはどこも柔らかくて崩壊しやすいといった経験則に気づき,地層累重の法則や地層同定の法則を見つけたのであろう。そのためSmithは層序学の父と呼ばれるが,同時に土木地質学の父でもあった。このように近代地質学は誕生時から土木技術と密接な関係があったのである。
 我が国においても同様,やはり資源中心の実学として輸入された。幕末の1867年フランス人F. Coignet (コワニエ,1835〜1925)が薩摩藩の招きで来日,鉱山地質学をもたらしたのを嚆矢とする。次いで1872年アメリカ人B. S. Lyman (ライマン,1835〜1920)が来日,北海道開拓使仮学校で石炭地質学や石油地質学を講じた。富国強兵殖産興業は新興資本主義国日本の国是である。以後,基本的に資源中心の学問体系,中山のいう第1のパラダイムが中心だった。
 もちろん,土木地質学の萌芽もあった。我が国においては丹那トンネルの難工事(1918〜1934)が地質学と土木との結びつきの最初であった。箱根火山地帯で,かつ丹那断層が走る最悪のところなのに,十分な地質調査なしに線引きがなされ工事に突入した結果,落盤・生き埋め事故が多発した。地質調査の重要性が痛感され,渡邊貫(1898〜1974)ら地質学科卒業生が初めて鉄道省に採用される。彼は土質調査委員会を設置し,『土木地質學』,『地質工學』などの大著を次々に著した5)。大学の地質学が見向きもしなかった岩石の風化や第四紀層・地下水問題から,土質力学や物理探査まで,学際的な分野をほとんどすべて網羅しており,今日の教科書としても恥ずかしくない構成になっている。土質力学の始祖K. Terzhagi (テルツァギー,1883〜1963)とほぼ同時期に活躍した斯界の先駆者であったが,鉄道省の役人であって大学人でなかったためか,アカデミズム地質学にはほとんど影響を与えず,大学理学部の地質学は資源中心の学問体系を保持し続けた。土質力学は工学部で教授されることとなったのである。
 1945年敗戦を迎える。戦後復興にとって産業再生は至上命題である。石炭・鉄鋼の傾斜生産方式が採用され,鉱山業は隆盛を極めた。金ヘン景気や黒ダイヤなる言葉もあった。地質学は花形の学問として活躍する。この頃まで応用地質学イコール資源地質学と見なされていた。
 もはや戦後ではないと言われた1960年代,エネルギー転換と円の変動相場制移行に伴って,我が国の資源産業は決定的に衰退する。代わって列島改造時代が到来した。地質学を支えるインフラが資源産業から土木建設産業へ完全にシフトしたのである。ここに至って応用地質学イコール土木地質学と見なされる時代になった。日本列島は現在も活動している新しい変動帯に位置しており,地質が極めて悪い。そこにトンネルやダムなど大規模構造物を次々と造ってきたのである。土木地質学は世界的レベルに達していたと言ってよい。青函トンネルが好例である。しかし,大学は時代のバスに乗り遅れ,依然として資源中心の学問体系を改めようとしなかったため,土木地質学は民間の手で自学自習せざるを得なかった。当然,理論化・普遍化に難点が出てくる。また,公共事業に伴って発展してきたため,守秘義務の壁に阻まれて,論文公表の自由もなかった。結局,残念ながら個人や会社のノウハウの段階にとどまらざるを得なかった。しかも当時は高度成長期,内需拡大が叫ばれ,金を使うことは良いことだと,プランニングの段階で十分な地質調査をすることなく,金にまかせて力ずくで構造物を造る風潮が蔓延していた。丹那の教訓が活かされなかったのである。そのため,サイトが決まった段階で施工に必要なデータを集める土木の僕に位置づけられてしまった。学問としても工学に引きずられ,理学の視点がややもすると希薄になる傾向があったと言ってよい。いわゆる乱開発も,自然の摂理をわきまえた地質学がプランニングの段階から関与していたら防げたのではなかっただろうか。
 一方,大学の地質学は第1のパラダイムに固執し,第2のパラダイムを生み出さなかったが,まだ高度成長期,アクセサリとして窓際に置いてもらえた。理工系大拡張のおこぼれに預かり,地方大学にも理学部が続々と新設された。しかし,卒業生の就職先は鉱山会社から地質コンサルタント会社に完全にシフトしており,社会のニーズと大学教育とのミスマッチは長く続いた。地質学における失われた10年,いや40年である。

5.人間と社会のための地質学

 過去を嘆いていても仕方がない。早急に第3のパラダイムに転換する必要がある。すなわち,地球環境科学の中核を担う学問として大きく脱皮することが求められている。地質学の学問的枠組みを資源中心の体系から環境中心の体系に変えなければならない。学術会議流に表現すれば「人間と社会のための地質学」である4)。幸い時代が求めている地球環境問題にしても,俯瞰型研究にしても,地質学は応える準備と資格を持っている。地球が地質学の学問対象であることは論を待たないし,地球環境研究には総合的アプローチが不可欠だが,もともと地質学は理学の中の他分野と異なり,物理的・化学的・生物的分野のすべてを包含した総合科学的色彩が強く自然をトータルとして見ることができるからである。
 これからの社会が地質学に要求する分野を具体的に見てみよう。まず環境デザインが挙げられる。開発最優先路線から自然との共存共栄を念頭に置いた国土マネジメントへの転換が求められている。前述のようにプランニングの段階から地質家がタッチしなければならない。我が国は環太平洋変動帯に位置し,自然災害が多い。まさに災害列島である。自然科学的メカニズム論にとどまらず,防災アセスメントや災害に強いまちづくりなど文字どおり災害を未然に防ぐことに貢献しなければならない。予知予測や危機管理などソフト対策も範ちゅうに入る。水問題は深刻である。世界人口の5人に1人が水不足であり,毎年数百万人もの人たちが不潔な水が原因で死亡している。伝統的地質学は岩石や地層しか取り扱わなかったが,もっと水文地質学の比重を高めなければならない。地質汚染も深刻である。農薬や化学肥料の使用に伴う土壌汚染だけでなく,有機溶剤や重金属による地下深部の汚染まで存在する。ゴミ処分場建設に関してはダム地質の蓄積が役立つ。高レベル放射性廃棄物の地層処分も地質学に課された大きなテーマである。地質現象の超長期予測の手法を開発しなければならない。その他,高度成長期に建設した構造物のメンテナンスや農地保全・砂漠化防止など枚挙にいとまがない。もちろん,従来の資源地質や土木地質の需要もあるだろう。ただし,近視眼的な目先の利益を追う開発は慎まなければならない。

6.ボーダーレス時代の地盤工学と地質学

 次に地盤工学との関係について考えてみる。前述の渡邊は『地質工學』の緒言で「地質學者と土木技術者とが密接な交渉と正しい理解とを持つやうになればよい。兩者の完全な提携が欲しいのである。その仲介者の役目を果すものが我が土木地質學である。…(中略)…土木技術者の地質的工學,換言すれば大地の工學にGeomechanikの新造語を與へた」と述べている5)。GeomechanikはTerzhagiの用いたErdbaumechanikに比べたら今日の地盤工学に近い。しかし,渡邊の先駆的な活躍があったにもかかわらず,「兩者の完全な提携」は未だに実現していないのではないだろうか。
 近年ボーダーレス時代という言葉をよく耳にする。たとえば超伝導など原子のオーダーの話になるともはや物理学そのものである。ゲノムにしても理学と医学の境界はなくなった。科研費の分科も理工系と大くくりになったし,学術会議も7部制から3部制(人文社会系・生物生命系・理工系)になるという。文理融合さえ叫ばれる時代,やがて大学の学部制にも波及するであろう。
 かつては軟弱な土を扱うのが土質工学会,硬い岩を扱うのが応用地質学会と棲み分けをしていたように思う。平野部における道路・橋梁の建設は土質屋,山間部のダムやトンネルは地質屋という訳である。しかし,太平洋ベルト地帯の沿岸低地にコンビナートや高速道路,超高層ビルを建設してきたブームはバブル崩壊と共に去り,道路も脊梁山脈を切り開く横断道の時代になってきたし,住宅団地も郊外の丘陵地に建設されるようになってきた。軟弱地盤ではメシが食えなくなったという時代的背景が土質工学会を地盤工学会に改称した理由の一つなのであろう。こう述べると身もフタもないが,やはり環境の世紀を前にして,従来の「プロジェクトのため」であった地盤工学技術に対する反省もあったのであろう。第17期日本学術会議地盤環境工学専門委員会も「快適な環境の創生と保生・再生のための学術・技術」である「地盤環境工学」という学問の創造を訴えている6)。一方の応用地質学会も,IAEGがInternational Association for Engineering Geology and the Environmentsと改称した。ますます両学会の守備範囲が重複するようになってきた。テリトリを侵すライバルとして敵視するのではなく,今こそ「兩者の完全な提携」が実現できる好機だと理解すべきなのではないだろうか。

7.フィールドの復権と理工融合

 最近,未熟な大学病院医師の手術ミスが話題になった。ある学術会議第7部会員が,博士は取ったがリンゴの皮もむけない医師がいると嘆いておられた。地質学や地盤工学でも似たような嘆きをよく耳にする。研究者の業績評価が論文数で決まる風潮から,地質学の基本であるフィールドサイエンスの軽視が著しく,分析機器やパソコンを多用して論文を量産する傾向が強い。実際,産業技術総合研究所の地質文献データベースGEOLISによると,毎年新規収録数は15000件だが,地質図付きの論文はわずか200件とのことである。山を歩けない地質屋,地質図も描けない地質屋が増えてきたのである。特に大学教員を養成する大学院大学がすべて地球惑星科学科に改組され,純アカデミックな傾向を強めているため,野外指導の出来る若手教員がいなくなったのが大きく影響している。
 地盤工学においても現場を知らない技術屋が増えているという。現場はソフト(しかも出来合いの)に入力するパラメーターを決めるためにサンプリングに行くところらしい。盛土など均質な人工材料を使って構造物を造っていた時代なら,机上の理論がそのまま適用できたかも知れないが,複雑な自然地盤を対象にするとそうはいかない。従来,ややもすると白紙のキャンバスに絵を描くように地質を無視した設計が行われてきたが,立地のプランニングの段階から地質学がかかわる必要がある。渡邊も「土木地質學なしには經濟的工事は不可能なり」と断じている。経済性だけでなく,まして地盤環境工学のように人類の生活環境や地球環境が対象になってくると,自然の摂理をわきまえた理学の視点が重要になってくる。Terzhagiは後半生,土質力学から応用地質学に転身,現場における観察の重要性を訴えていたという。彼は学生時代から登山を好み,フィールドに出かけて観察に励んだというし,若い時代建設会社で働いた経験があるからこそ地質ができたのである。絶対音感が身に付くのは3歳頃までだとのこと,自然を見る眼は若いうち,少なくとも20代までに養成しなければならない。地盤工学の教育に地質学の講義・実験・実習を大幅に取り入れるべきであろう。一方の地質学も現場に根ざしたエンジニアリングのセンスが必要である。地質学・地盤工学共にフィールドサイエンスの復権が望まれる。
 さらに言えば,「提携」から一歩進めて「統合」へと進むべきではないだろうか。もはや理学だ工学だと張り合っている時期ではない。石弘之は環境学を医学になぞらえて,中心に臨床医学に相当する環境対策学を据え,その周りに環境基礎学,さらにその周辺に環境産業を配置した同心円(学環)モデルを提唱している7)。解剖学や病理学を踏まえない臨床はあり得ないし,基礎医学も常に臨床を見据えていなければならない。地盤工学や土木工学が臨床医学なら地質学は基礎医学である。地盤工学・地質学さらには地球化学・生物学・気象学・海洋学・砂防工学等々まで含んだ総合的な地球環境学部や研究科があってもよい。GeoEng2000ではISSMGE・IAEG・ISRMの3者がユニオンの可能性を探った。シンボルマークのカモノハシは卵生哺乳類で水陸両用の何でも屋である。地盤工学会・応用地質学会,もっと言えば地質学会も含めて大連合すべき時期に至ったのではないだろうか。冒頭述べたように,今や歴史は大きく動きつつある。

参考文献

  1. 日本学術会議: 日本の計画 Japan Perspective, 日本学術会議, pp.1〜141, 2003.
  2. 日本学術会議: 新しい学術の体系, 日本学術会議, pp.1〜184, 2003.
  3. 中山茂: 近代科学技術史上の第3のパラダイム,人間と社会のための新しい学術の体系, 日本学術会議, pp.75〜81, 2003.
  4. 岩松暉: 地球環境時代における地質科学, 同上, pp. 31〜39, 2003.
  5. 渡邊貫: 地質工学, 古今書院, pp.1〜627, 1935.
  6. 日本学術会議地盤環境工学専門委員会: 21世紀における地盤環境工学, 日本学術会議, pp.1〜34, 2000.
  7. 石弘之編: 環境学の技法, 東京大学出版会, pp.1〜284, 2002.

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連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2003年12月9日