学問は自分で学ぶもの―山下さんと文献カード―

岩松 暉(『山―山下昇追悼文集』, p.62-64.)


 東大地質に構造地質学講座ができたのは1962年、教養学部助教授だった木村敏雄先生(現名誉教授)が昇格・新設されたものである。助教授が佐藤正さん(現筑波大学名誉教授)、助手が山下昇さんと杉村新さん(現神戸大学名誉教授)という陣容だった。そこに最初の卒論生として私が配属された。古生物学講座も含め層序関係でたった一人の学生だった。山下さんの東大時代における数少ない教え子の一人である。
 東大では、卒論の他に卒論演習報告というものがある。卒論とかかわりの深いテーマについて古今東西の文献を読み、レビューを書くのである。人によっては、大学ノート2冊も3冊も書く。戦前の岩波講座は、この演習報告だと聞かされた(真偽のほどは不明)。
 私の卒論は北上山地の構造解析だった。北上には劈開褶曲がよく発達する。そこで演習のテーマに「スレート劈開の成因」を取り上げた。演習報告は卒論以上に大変だと先輩たちに脅かされ、何とか手抜きはできないものかと考える。聞くは一時の恥、誰かに助けてもらうに限る。まさかテーマを与えた木村敏雄先生に聞くわけにはいかない。そうだ、同じ北上の古生層を研究したこともあり、『中生代』という著書もある山下さんに聞こう。早速、助手室を訪れる。
 話を聞いた山下さん、黙ってカードボックスのところへ行き、引き出しを開けて見せる。「そうだなあ、劈開やスレートについて書かれた文献を片端から探し出して、こんな風に文献カードを作ってごらん。中身は読まなくてもよいから、カードがこのくらいたまったらまたおいで。」と、指先で10cmくらいの厚さを示し、あとはまわれ右。とりつく島がない。やむなくそのまま図書室へ。当時の地質図書室は閉架式、書庫に入れるのは院生以上である。そこで、司書の市原正(まさ)さんに山下さんの話をする。「そうねえ、新着文献の引用文献からどんどん遡って孫引きしていくやり方と、テキストブックの脚注や巻末の参考文献欄にあるものから読む方法といろいろあるけれど、やっぱり最初はテキストのほうがいいんじゃない。」といって、書庫に消えたかと思うと、山ほど単行本を抱えて現れる。これにはへきえき。「当面は1冊だけでいいです。」と退散を試みる。後から追い打ち。「新着雑誌は見て行かないの。構造のことがよく載っているのはね、GSAのBulletinとRundschauとそれから……」
 やむなく閲覧室でカードを取り始める。山下さんのカードの書式にならって書く。雑誌名は適当に省略していると、またまた市原さんの声。「Abbreviationには規則があるのよ。雑誌自身が指定している場合には、それに従わなければならないし、そうでなければ、Bibliography and Index of Geologyのsource listに従いなさい。あんただって自分の名前を勝手に略されたんでは、気分が悪いでしょ。」
 そんなこんなでカードの厚さがやっと10cmくらいになる。また山下さんの部屋に行く。「たまったかい。カードに取っているとき、誰もがよく引用する文献に気づかなかった? 10ぐらいはあったろ?」「ありました、ありました、LEITHとBECKERとSORBYと……」「じゃ、それを読んだらまたおいで。」
 冗談ではない。読み終わったときには、もう聞きに行く必要はなかった。その時はなんて不親切な人だろうと思ったが、今にして思えば、オーソドックスな勉強法を教えていただいたものと感謝している。古典にまで遡って全体像を把握し、玉石混淆の論文の中から本物を探し出す眼を養う力になった。SORBY(1853)はペリー来航の年に出た論文だが(金文字革表紙のGeol. Soc. Londonが教室にはあった)、既に変形化石の歪解析など、1970年代に流行った方法が詳細に展開されていた。最新論文が必ずしもレベルが高いわけではないということも知った。トピックスを追い、流行にのることの好きな学生に勧めたい勉強法である。
 日赤病院にお見舞いにあがった時には、「ボクは徹底した唯物論者だから、癌も告知してもらった。」と大変お元気だったのに、突然の訃報に愕然とした次第である。ご冥福をお祈りする。

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更新日:2007年月日