津田禾粒先生と地すべり多発時代

岩松 暉


 津田先生と私との縁については退官記念誌『ある地質家の歩み』に寄稿したので、ここでは割愛しよう。私が新大に赴任したのは1970年春であった。ちょうど五十嵐への引越のときである。新設の地盤研助手としてであった。それまで私は褶曲の構造地質学的研究をしていた。しかも中・古生層から変成岩を対象としていたから、新潟のような第三紀層の軟岩は、どう料理してよいかとまどった。手慣れた構造地質の延長線上で、油田褶曲と地すべりの関係でも研究しようかと考えていた。
 ところが、たまたまその年に新潟で地すべり学会の研究発表会が開かれた。生まれて初めての地すべり学会参加である。地すべり地のケーススタディー的な話が多かったように記憶している。その中で異質の発表が一つあった。津田先生たちの「地すべり多発時代」の提言と題する講演(津田・岩永・永田,1970)である。氷期の気候変動と地すべりの関連について、花粉学の立場から実証された先駆的な研究であった。ケーススタディーの単なる積み重ねでは「学」にならない。個別具体的なケーススタディーの中から一般的法則性を導き出してこそ学問となる。先生のお話は魚沼だけでなく、地すべり一般に通用する。「地すべり学」なるものが存在するのかと疑問に思っていただけに、大変感銘を受けた。当時の地すべりに関する地質学的研究は、私も含めて、基盤の岩質や構造といったことだけに関心があったように思う。つまり、その頃まで「地質学は死物を扱う視点しかない」という本間不二男(1929)の指摘そのままだったと言ってよい。したがって、先生が強調されたもう一つの点、第四紀学的な視点で地すべりを見ることの重要性については本当には理解できていなかった。
 その後、鹿児島大学に転勤した。直後に大規模なシラス災害があり、本学の学生4人が犠牲になった。自分のところの学生が死ぬということは大変なショックである。新潟の地すべりでは人命の損失を伴うことは稀だが、鹿児島の災害では必ずと言ってよいほど人的被害が出る。人生観が変わり、災害科学に本腰を入れて取り組むようになった。手始めに災害論の勉強を始めた。半世紀も前に寺田寅彦(1935)が、地震と震災を峻別し、前者は地が震えるという自然現象であって人智をもってしては如何ともし難いが、後者は人間の努力次第でいかようとも軽減できると喝破していた。災害とは自然と人間社会と交錯するところで発生する負の社会現象だったのである。今までは自然現象としての地すべりをアカデミックに研究していただけであって、被災者不在の研究であり、災害科学ではなかったと反省させられた。人間が絡むとなると、まさに人類紀である第四紀学的な視点が欠かせない。とくに予知予測といったことになると、死物ではなく、動的にものを見なければならない。地すべりや崩壊を造地形運動として第四紀地史の中で位置づけることが重要になる。単にシラスが第四紀の堆積物だからではなく、災害を第四紀学の眼で見るようになってきた。新潟を去ってから、ようやくにして先生のご指摘の意味を理解できたのである。
 最近は災害の専門家として一応は言われるようになってきた。今日あるのは津田先生のお陰と言ってもよい。先生のご冥福をお祈りする次第である。

ページ先頭|追悼文もくじ
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1995年