大矢 曉 会員のご逝去を悼む

岩松 暉(『応用地質』Vol.46, No.6, p.372., 2007)


 大矢曉会員が平成18年11月13日交通事故のため急逝されました。享年74歳でした。
 大矢会員は、昭和30年に東京大学大学院地質学専門課程修士課程を修了後、同年財団法人深田地質研究所に入所され、昭和35年に株式会社応用地質調査事務所(現応用地質株式会社)に入社されました。
 入社後は、技術者としてそして経営者として、同社の経営理念である「地質工学の創造」を掲げ、理学としての地質学と、工学としての土木工学の境界領域の体系化を目指し、地質学を活用して社会に貢献するために活動してこられました。大矢会員は昭和45年に当日本応用地質学会に入会されましたが、平成7年全国地質調査業協会連合会技術委員長にご就任後は、当学会と地質調査業界を橋渡しするレールを敷いてくださり、当学会が、社会に開かれた学会として成長していく礎を築いてくださいました。
 その頃はちょうど世紀末、社会が大きく変化しつつあるときで、学問としての応用地質学も、地質調査業も共に脱皮を迫られていました。大矢会員は、常に先見性を持って次の進むべき道を説いておられました。ミレニアムの年平成12年には、世話人のお一人として(私もお手伝いしました)日本地質学会のシンポジウム「明日を拓く地質学」を主催・講演されました。これは後に本として出版されました。平成18年5月九州支部総会でも「応用地質学の将来について」という特別講演をされましたが、これが学会での最後のご講演になりました。その中で、オイルピーク問題のプランB・プランCを紹介された上で、応用地質学の将来展望を述べられました。21世紀は間違いなく分散型社会になるだろうとの前提に立ち、応用地質学のプランBは環境・防災・メンテナンス・土壌汚染など従来の延長線上にあるものだが、それにとどまらず、プランCにチャレンジしなければならない。そのキーワードは①洞察力、②インテグレーション、③コミュニティとの協働であると指摘され、新規事業は受け身では生まれないと強調されました。
 大矢会員が国際惑星地球年IYPEの顧問をされるなど国際的な幅広い活動をなさっておられたことは周知の通りです。これに伴って日本学術会議IYPE小委員会委員長にもご就任、平成19年1月早々、IYPEのオープニングセレモニーを主催される予定になっていた矢先の急逝でした。こうした公的活動だけでなく、アメリカで2つ(WSSI・GHI)、日本で2つ(GUPI・REIC)のNPO活動に主要な役員として携わっておられました。一例を挙げますと、GHI(Geohazard International)では、地震は防げないが、せめて子供たちの命だけは助けたいと、途上国の小学校を耐震補強することに力を注いでおられました。もちろん、資金援助はするのですが、単にお金を出すだけではなく、簡単な震動台を持ち込んで小学校のPTAに耐震補強の重要性について教育し、お金のある人は拠金を、ない人は勤労奉仕をしてもらって、耐震補強する、防災教育も兼ねたプロジェクトのようでした。毎年数百万円も個人寄付をしておられたようです。これは私がインターネットで知ってお聞きするまで黙っておられました。このようにヒューマニズムあふれる温かいお人柄でした。GUPI(地質情報整備・活用機構)では、ユネスコのジオパークを日本にも作り、日本人の地学リテラシーを高める一助にしたいと、会長として先頭に立って精力的な活動をしておられました。
 一方、最近では、地質情報は国民共有の知的公共財であると主張され、地質情報の整備公開に向けた法的整備を訴えておられました。恐らく地質調査業が地質情報のコンテンツサービス産業化していくであろうとの洞察の上に立ったご提言だろうと思います。これは近々地質地盤情報協議会の提言として公にされることになっています。
 このように、大矢会員は、当学会のみならず、地質学界および地質調査業界全体の卓越したリーダーでした。まさに「巨星墜つ」で、この損失ははかり知れません。心からご冥福をお祈りいたします。

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連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2007年3月7日