大矢さんを想う

岩松 暉(GUPI Newsletter No. 41, p.2-5, 2006


 熊本での応用地質学会に出席後、鹿児島の自宅に帰省してゆっくりしていた11日土曜の夕刻、大矢さんの主治医である山田静雄先生(GUPI会員)から、大矢さんが10日金曜午後9時頃自転車に乗って西巣鴨付近を通行中バイクと接触、骨盤骨折とそれに伴う大量出血のため意識不明の重体になり、東京女子医大第二病院救急救命センターに入院したとの電話連絡をいただきました。家族以外面会謝絶のため、担当医と面会して様子を聞いたが、楽観できる状況ではないとのこと、あわてて翌日曜日に帰京しました。主治医ですら会えないのに、医師でもない私が行っても救急センターには入れてもらえないと思いましたが、家にいても落ち着かないので、病院のある宮ノ前の尾久八幡にでもお参りに行こうと出かけました。参詣後、せめてご家族にお会いして様子をお伺いできないかと、病院に寄ってみました。幸いすぐ奥様とお会いすることができ、奥様から、午後7時過ぎに医師の説明がある、弟ということにしておくので、面会して医師の話も一緒に聞いて欲しい、感情が先に立って冷静に聞くことが出来ないから、と頼まれました。ご心情察するに余りあります。大矢さんは頭を打っていないため、お顔には傷一つありませんでしたが、肩や足が内出血により腫れあがって痛々しい状況で昏睡状態でした。医師の説明では、動脈硬化のためカテーテルが入らないので圧迫止血しか方法がなく、大量輸血と共に人工呼吸や人工透析を行い薬で血圧を保っているが、悪化しないようかろうじて食い止めている状態であるとのことでした。しかし、呼吸も血圧も安定しているから、24時間以内にどうのこうのという状況ではないので帰宅して休まれてはとのお話で、少しほっとしました。99歳のお母様のDNAを受け継いでいるのだから、持ち直し回復されるのではないかなどと、一縷の希望を抱いて帰宅しました。今考えてみますと、薬で小康状態を保っていたに過ぎず安心材料ではなかったのです。翌月曜日の夕刻、面会時間に山田先生と連れだってお見舞いに伺いました。廊下で奥様と二言三言立ち話をしているときに看護師さんが駆けてきて、皆さん至急部屋の中へとのこと、もう呼吸が不安定になっておられました。山田先生からもう時間の問題だから、あとはご家族だけにして差し上げようと言われ、病院を辞しました。「巨星墜つ」とはこのようなことをいうのだろうと、暗澹たる気持で帰路につきました。帰宅した頃お亡くなりなったことになります。
 奥様は方便で「大矢の弟」と病院側に告げられましたが、私は本当に弟のような気でおりました。私事ですが、医者になるつもりで東京大学理科Ⅱ類に入学しました(当時Ⅲ類はありませんでした)。教養学部時代、新制第1回生の大矢さん・羽田忍さん・伊藤和明さんらが創立された地文研究会というサークルに入会しました。地質・地理・天文・気象の4班ありましたが、地質班に所属しました。これが大変楽しかったので、毎日青白い病人を診ているより青空の下野外を歩いているほうがよいと志望変更し、理学部地学科に進学しました。一生の職業を決める人生の岐路に際し、この地文研は大きな影響を与えました。また、大学を定年退官し、第二の人生を歩もうとしたときも、地質の将来を憂え、地質家の社会的ステータスを上げたいとの大矢さんの情熱にほだされて、上京してGUPIに携わることになりました。人生の転機に当たり、大矢さんはいつも決定的な影響を及ぼしたことになります。
 大矢さんに初めてお目にかかったのは大学院の頃です。当時建設省土木研究所の地質官だった芥川さんの土木地質学を受講しましたが、その授業の一環で深田研に連れて行かれたときです。先輩と称する弥次さん喜多さんみたいな二人組が出てきて、新型圧密試験器の話をしてくださいました。このお二人が大矢さんと羽田さんでした。
 その後、教員になってからは応用地質学を担当したので、深田さんや陶山さん・羽田さん方とは親しくおつき合いいただきましたが、大矢さんは当時アメリカにおられたため、お会いする機会はありませんでした。ご帰国後、全地連技術委員長になられる前後から、おつき合いが復活しました。当時、地質学も地質調査業も曲がり角に立っていました。このまま手をこまねいていてよいのか、21世紀の地質学のあるべき姿は…などなど、『応用地質』誌はじめあちこちに駄文を書き散らしていたのが大矢さんの目に留まり、全く同感である、共に協力して何とかしようとおっしゃってくださいました。スタンフォード大学のadvisory board memberをやっているが、あそこもDepartment of GeologyからDepartment of Geological and Environmental Sciencesに変わった、単に看板を塗り替えて羊頭狗肉をやっているどこかの国の地学教室と異なり、"Earth Systems"といった教科書まで作って、カリキュラムを抜本的に変革したといった情報も教えてくださいました。「明日を拓く地質学」という地質学会のシンポジウムで一緒に講演したこともありました。これは後に本になりました。その後も「地球環境時代の地質科学」というタイトルで「人間と社会のための地質科学」を訴える論文を学術会議の報告書に書いたら、大変ほめてくださいました。そんなご縁で、私の定年を機にNPOを立ち上げることにしたから東京に出てこいと言われて、GUPIに関わることになりました。
 大矢さんの企業人としての側面はよく知りませんが、外国の地震計メーカーを傘下におさめ、OYOを世界一の地震計メーカーに育て上げたと友人の地震学者に聞いたことがあります。その上、物探学会会長として法人化を達成したことなどから、私の知り合いでも、大矢さんは地震工学が専門だと思い込んでいる人がいました。また、かつては土質工学会(現地盤工学会)でも大活躍され、平成16年には名誉会員になられました。これだけでも幅広いご活躍ぶりには驚くべきことなのに、環境方面にも深い関心を持っておられました。福島県三春町に疎開しておられたとかで、第二の故郷と呼んでおられました。そこに三春ダムが建設されるに際し、ダム湛水の前から環境調査を始め、1999年には応用生態工学研究所を設立されました。その研究成果、とくに硝酸性窒素汚染の話は日本工学アカデミー (EAJ) から出版された『豊かな石油時代が終わる』という本の中に「人類の遺産・地下水をまもる」と題して1章書いておられます(大矢さんは日本工学アカデミーの環境フォーラムメンバーでもありました)。2003年には応用生態工学会の理事になられました。
 単に研究をしたというだけでなく、「さくら湖自然環境フォーラム」という専門家から小学生までが参加して討論するフォーラムを毎年開催しておられました。子供たちの感性がいかにすばらしいか、地道な観察をいかに喜々としてやっているか、うれしそうに話してくださったことを覚えております。毎年フォーラムに参加するのを楽しみにしているとのことでした。このように理科教育・環境教育にも大変熱心でした。なお、私も水質調査のお供をしたことがありますが、水質調査だというのに、大きなロックハンマーを腰に下げ、藪こぎをして石をたたきに行かれました。そのお元気なことに驚くとともに、やはり根っからの地質屋さんだなあと思いました。
 この時、GPSとカシミール3Dというフリーソフトを併用すると、簡易GISとして調査データや写真を整理できること、地質図を入れれば、地質図のカーナビもできることなどをお教えしたら、早速ソフトをインストールして、自らいろいろ試してご覧になりました。普通、あのお年ではコンピュータなぞ苦手と敬遠する人が多いのに、知的好奇心が旺盛で、何でもすぐチャレンジされることにも敬服しました。おもちゃも大好きで、地形図も入ったカラー液晶のGPSが発売されたとか、静止画も取れるビデオカメラが出来たとか、最新情報をお教えすると、次の機会には、ちゃんと入手しておられました。新し物好きなのです。
 地質屋さんといえば、あと3度ほど一緒にフィールドに行きました。2004年12月新潟県山古志村(現長岡市)に中越地震の調査に出かけました。道路が寸断されていましたから、川底まで下りてまた登っての繰り返しでしたが、息切れすることなく、みんなに後れを取ることもありませんでした。岩松家の墓は山古志村の村境を越えたすぐ近くの栃尾市(現長岡市)中野俣という田舎にあります。案の定、墓石はひっくり返っていましたが、もう少しこの世にいてがんばれと言うことだよと笑っておられました。大矢さんの元気ぶりにはかなわないから、私のほうが先に逝きますよ、早々に修理しなければ、と答えたことを覚えています。
 2005年9月、三宅島全島避難5周年の当日にGUPIの三宅島巡検を実施しました。大矢さんも参加されましたが、学生時代硫黄鉱床をテーマにしておられたとかで、火山には関心が深く、熱心に質問しておられました。この三宅島巡検については既にNewsletter No.23でご報告済みですので省略します。
 最後は2005年11月前述の地文研のOB会で雲仙に行きました。地文研はご自分でも創立に関わったことから愛着もあったでしょうし、皆仲良しで楽しかったこともあって、4月に駒場の同窓会館(現駒場ファカルティハウス)で開かれる例会と秋の巡検を楽しみにしておられました。雲仙はジオパークの最有力候補地の一つでしたから、雲仙岳災害記念館など各種資料館の展示やフィールドミュージアムの看板など、熱心にカメラに収められておられました。
 地文研らしく「巡検ゴロ」(フィールド大好き人間のことを駒場ではこう呼んでいました)でしたから、世界三大地震断層を全部踏破するのだとおっしゃって、昨年はモンゴルのブルネイ断層、今年はコンロン断層を見に行かれました。特にコンロンは海抜4,000mを超すところですので、高山病の心配がありますからとお止めしたのですが、断固実行されました。カリフォルニアのサンアンドレアス断層はとっくにご覧になっておられましたから、結局、初志貫徹されたことになります。私は同じ時期に防災講演を頼まれていて、ご一緒できなかったのが残念です。
 大矢さんとの個人的思い出を書き出すときりがありませんから、最近のご活動について触れます。GUPI会長としてのご活躍ぶりはニュースレターでご報告済みですので、あまり皆さんのご存知でないそれ以外のご活躍をご紹介します。
 大矢さんが世界を股にかけて飛び回っておられてことはご存知のことと思います。最近はビジネスよりも学会出席やNPOのお仕事で月平均 1.5 回程度は海外出張しておられたのではないでしょうか。アメリカでもNPO活動に熱心に取り組んでおられました。一つはWorld Seismic Safety Initiative (WSSI)です。Board of Directorsをしておられ、ミャンマーやモンゴルなど途上国に出かけ、地震工学会結成を呼びかけておられました。ミャンマーで、ミャンマーからアンダマン諸島を経てスマトラに続く断層帯(造山帯)がある、地震の再来周期から考えて、ベンガル湾北東部、スマトラ・ニアス島付近、南緯 1゜~5゜間の島々、の 3 個所で近い将来地震が起こる可能性が高い、スマトラで地震があれば、人ごとではなく、ミャンマーも津波の被害を免れない、といった講演をされたそうです。その直後にスマトラ地震があったため、ミャンマー運輸省気象水文局の津波パンフレットには、アメリカのSieh教授と大矢さんのお名前が載っていました(図の赤線部分)。ミャンマーの方に読んでいただいたところ、「科学者は信頼に足る予測をすることが出来た。地震は予知できなくても、その傾向は予測可能だ」と書いてある由。ご本人は、東南海地震はいずれ来る、その時には津波にも注意、といったたぐいの一般論を言っただけなのに、と笑っておられました。
 もう一つはGeohazard International (GHI) です。Board of TrusteesのChairmanもしておられました。ずっと以前からやっておられたようですが、シャイですから、今まで私にも黙っておられました。インターネットで知ったのでお聞きしたところ、地震は防げないが、せめて子供たちだけは助けたいと途上国の小学校を耐震補強することに力を注いでいるとのことでした。毎年何百万円も個人寄付しておられたようです。カトマンズープロジェクトの話もしてくださいました。簡単な震動台を持ち込んで小学校のPTAに耐震補強の重要性について教育し、お金のある人は拠金を、ない人は勤労奉仕をしてもらって、耐震補強する、防災教育も兼ねたプロジェクトをやっているとのことでした。
 来年から国際惑星地球年 (IYPE) が始まります。IYPE の Eder さん(前ユネスコ地球科学部長)やde Mulderさん(元IUGS会長)が来日されたとき、大矢さんがアレンジして、学術会議や中央省庁・財界などをご案内したのが縁で、IYPEのsinior advisorを頼まれて就任されました。もちろん、国内でも対応する学術会議IYPE小委員会の委員長でした。日本国内では(NPO)リアルタイム地震情報利用協議会(REIC)の副会長をしておられました(会長は元文部大臣の有馬先生)。リアルタイム地震情報の活用によって、国内外の地震災害軽減に貢献することを目的としたNPOです。P波を感知したらS波が来るまでに新幹線や原発を止めるというもので、近頃メディアに紹介されて有名になりました。ご努力が実って、今年の8月1日から緊急地震速報の先行的な運用が開始されました。
 こう列挙してくると、いかにマルチ人間のスーパーマンだったかがおわかりになるかと思います。しかし、人間くさい面もおありでした。お酒が弱く甘党でした。当然糖尿病になり、主治医の山田先生から禁煙とカロリーコントロールを申し渡されました。私もそれを知っていましたから、大矢さんがお見えになる日には、お菓子などは隠しておくのですが、ご自分で饅頭や大福を買ってこられました。いつぞやはパリから、今日は美味しいフランス料理を食べた、山田先生には内緒だよ、とのメールをもらったことがあります。長時間の禁煙もつらいらしく、一緒に大宮に行ったとき、ちょうど雨が降り出したのですが、傘をさす前に先ずポケットのタバコをまさぐっていました。電車の1時間じっと我慢しておられたのでしょう。自転車も危ないから止めるよう再三申し上げたのですが、健康法だからと聞き入れてくれませんでした。パソコンなど重い荷物をいつも持ち歩くので、そのために必要だったのでしょう。お孫さんが恐竜の名前を全部知っているといった孫自慢もする好々爺の側面もありました。七五三のお祝いを楽しみにしておられたのですが、まさにその直前、事故に遭われたことになります。残念だったことでしょう。病院で奥様とお話ししていたとき、来年は応用地質50周年だから、それを機に完全に引退してNPOに専念する、あれもやりたい、これもやりたいと夢を語っておられたとお聞きしました。その夢を現実にしていくことが、残された者の務めと思います。精一杯がんばりますので、安心して安らかにお眠りください。

合掌



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更新日:2006年11月20日