井形明弘先生の思い出

岩松 暉


 井形明弘元鹿大学長が8月12日に亡くなられたと、新聞記事で知った。私が井形先生と親しくなったきっかけは1990年頃の入試の時である。学部の前教務委員長は現職教務委員長をサポートするのが建前で、学部の入試本部に詰めていた。何も仕事がない。そこへ井形学長が激励のため挨拶回りに来られた。私の顔を見ると、「ちょうど良いところで会った。全学風致委員長をやってくれないか」とのこと。「私の専門は応用地質、列島改造の環境破壊に一役買ったほうだ。風致委員長などとんでもない。」と断った。「桜島の降灰のせいもあって、鹿大キャンパスは日本一、つまり世界一汚い。今の人口構成から見ると、やがて入学者が減り、大学淘汰の時代がやって来る。入試を受けに来た学生が、キャンパスを見てガッカリして入学辞退をするだろう。実行力が欲しいのだ」と粘られた。早坂祥三理学部長(後学長)が、風紀委員長には絶対向かないが、風致委員長なら良いのでは」などと、チャチャを入れる。「少子化時代」などという言葉のなかった時代に、先を見通す井形先生の慧眼と熱意に負けて、「お金が無ければ何も出来ない。ゼロシーリングが続いた後、来年度予算で0.1%だったかちょっと増えるという。全教官・全部門に配れば,ごく僅かにしかならない。それを全部くれ。もう一つ、お金が無くてもできることはキャンパスの清掃である。クリーンキャンパスデーを設けて、全教職員・学生で降灰の掃除をすれば、学生のポイ捨てもなくなるだろう。その時、学長は作業服を着て出てくるか。この2つの条件を飲むならやっても良い」ととっさに答えた。「予算増の全部は無理だが、半分はやろう。清掃にはもちろん出る。」とあっさり条件を飲まれてしまったので、引き受ける羽目になった。何で私に声をかけられたのか、未だに分からない。前年の教務委員会での私の言動を見ておられたのかも知れない。
 風致委員会は各学部選出の任期1年の委員と、学長任命の委員(植物・建築などの教授)からなる。学長任命には任期なし、結局数年やらされた。4月の第1回委員会には学長が出席、「私は委員長に全幅の信頼を置いています。皆様、ご協力を。」と冒頭挨拶したっきり、後は出てこられない。「責任は全部自分が負うから、好きなようにやれ、任せた」とおっしゃる。こんなに信頼されては動かないわけにはいかない。
ロードスウィーパーを
運転する井形学長
生垣のゴモジュ
 当時、鹿大郡元キャンパスの塀は錆びた金網で、学生達が近道をするため、ところどころ穴が開いていた。外から見ると捕虜収容所よりも汚い。先ずこれを生垣にすることにした。林学科助手の迫先生に「鹿大らしいもので、どんなに生長したも下枝が生えていて、学生がくぐれないような樹種を選んで欲しい」とお願いした。現在植えてあるゴモジュを推薦された。鹿児島固有種ではないが、亜熱帯種で、鹿児島が北限に近いという。施設部長がどこにでもある樹種なら大量発注が出来るのに、と渋い顔をしたが、演習林で育ててもらえば良いと押し切った。
 もう一つは,クリーンキャンパスデーの実行である。隔月第3金曜日の午後、全学部で行ったが、文系の先生方の中には、清掃は用務員のやる仕事だと反発した人もいた。学長は工学部の先生が開発した小型ロードスイーパーを運転して参加してくださり、離れたところにある水産学部まで挨拶に行かれた。私の条件を実行してくださったのである。
 翌年、メインストリートのヤシ並木を舗装し直すと施設部が言う。私は、「大学は思索の場である。考え事をしながら歩いていて交通事故に遭うなど、論外だ。歩道と車道の区別をなくして広場にし、歩行者天国にするのだ。健常者は自家用車禁止だ」と意見を述べた。施設部長が虎ノ門に行き、「うちの委員長がこんなホラを吹いています」と述べたところ、「そんな具体的なアイデアがあるのなら、1本つけましょう」との返事だったという。お銚子1本は1億円である。私はすかさず、「鹿大には桜ヶ丘キャンパスなど、あと2つキャンパスがあるから1.5本」とやったら、本当に1.5億円ついた。まだ、独法化以前、学長裁量経費などない時代に井形先生がお金を出してくださり、自助努力でキャンパスをきれいにしてきた成果が認められたからであろう。この1.5本で歩道と車道の区別のないカラータイルを敷き詰めたペーブメントが完成した。しかし、自家用車禁止は文系学部がロックアウトする気か、と猛反発、中途半端になってしまった。残念。その他、いろいろのことをやったが、これは別項を参照されたい。
合格発表時の井形桜
 井形先生が学長退任に際して、鹿大キャンパスに桜の木がないのは寂しいと50万円寄付してくださった。大学本部前に植えることにして、植物や林学の先生に相談したら、ソメイヨシノは南国の低地には向かないし、生長するとバックの高木と競合するからと、カンヒザクラを推薦してくださった。これが今の井形桜である。
 退官されてから愛知県防府の国立療養所中部病院長に就かれた。遊びに来い、としきりにおっしゃるので、名大だったか静大だったかに集中講義に行った際、お寄りした。院長室でお昼をご馳走になった。部屋の中には桜島の絵など鹿児島ゆかりの品々があった。「この間、鹿児島に帰ってくる、と言ったら、事務長に鹿児島に行く、と言えと叱られたよ」と笑っておられた。鹿児島を愛しておられることがよく分かった。「本当に今日帰るのか、家に泊まってゆけ」と引き留められたが、公務員の出張日程は変えられないので、そのまま辞した。これがお目にかかった最後であった。何はずれたリーダーシップの暖かなお人柄は、今でも忘れられない。ご冥福をお祈りする。(2016/8/24)
参考:

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更新日:2016年8月24日