ブレーキのかけ方―猪狩三夫先生を悼む―

岩松 暉


 大学院博士課程のフィールドは福島県の相馬だった。当時はマイカーも珍しい時代、ビジネスホテルもなかった。フィールドの中に民泊するのが常だった。相馬では小学校の校長先生猪狩三夫先生のお宅に泊めていただいた。「貧乏学者の卵から金などもらえねェ。遠慮しないで何日でも泊まれ」と宿泊料を最後まで受け取ってもらえなかった。高校生の息子さんの勉強を少し見たのがせめてものお返しである。以来、大学院修了後も親戚以上の親しいおつき合いをさせていただいている。
 調査から帰ってデータ整理をしていると、「イワマツァン、勉強は終わったかね。ビールを一杯やっぺ。ナニ、風邪気味? 風邪などビールを飲めば治る。早く風呂さ入って来(こ)」と誘われた。私は下戸だが、お話が面白いので、断ったことがない。学校のこと、家庭のこと、社会のこと、台湾時代のこと、などなど話題は多岐にわたっていたが、教えられるところが多かった。まさに「人生の師」であった。
 調査が進んで北方の相馬市山上地区に移ることになった。しかし、遠い。本家のバイクを使えと言われたが、残念ながら無免許。そこで次回には免許を取得してから伺った。いきなり先生の愛車スバルを運転してみろとのこと。しかも奥様も乗せて観光に出かけることになった。緊張で汗びっしょり。山道の下り坂のカーブで対向車に出会った時、もちろん十分すれ違いできるのに、そこは初心者、反射的に急ブレーキを踏んだ。先生曰く「止まる寸前にちょっと力を抜くんだよ。そうするとすんなり止まる。子供の叱り方と同じだ。ガツンと食らわすだけではダメで、少し逃げ道を残しておくんだ。そうでないと、すんなり受け止めてくれないよ。」 そこが教習所の指導員と違うところ、先生のお話には、随所に心に響く言葉があった。本当にゲンコツを食らわしたことも度々だったようだが、教え子たちに慕われ、卒業後もしばしば訪ねて来ていた。やはり、先生の暖かな心情がちゃんと伝わっていたのである。
 夫婦仲がよいのも天下一であった。私が結婚してからも、赤ん坊を連れてお伺いしたことがある。奥様が倒れたときも本当に一生懸命介抱された由、われわれ夫婦の模範だった。仙台出張があると、必ずお寄りしたものである。もうお会いできないと思うと、残念でたまらない。ご冥福をお祈りする。

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更新日:2009年11月26日