同世代台湾人―早坂先生の思い出―

岩松 暉(鹿大地学科・地球コース同窓会誌『桜島』No.)


 早坂先生とは畑違いのため、始めてお目にかかったのは、鹿大助教授としてのお誘いがあり、1976年の正月頃、面接(?)のために鹿大を訪問したときである。早坂一郎先生のご子息であることも、その時始めて知った。亡父が石油屋で台湾にいたため、早坂一郎先生とはおつき合いがあったとのことで、書棚に石油に関する一郎先生のご著書が置いてあった。親子共々早坂先生ご父子にお世話になったことになる。誠に奇縁である。
 冬の新潟はどんより曇って毎日みぞれ続き、ところが鹿児島はカラリと晴れた晴天で桜島が白い煙を少し上げていた。「来ます、来ます」と二つ返事で承諾した。ところが、4月に荷物をまとめて越してきたら、桜島の降灰が毎日のように降り注ぐ。「あのとき、誰も一言も降灰の話をしなかった。ペテンだ。」と文句を言ったら、早坂先生曰く、「夏と冬で風向きが反対になるのは地学の常識である。新潟は地鉱学科だが、ここは地学科である。気がつかなかったほうが悪い。」 確かにそうだが、あのとき、桜島がモクモクと黒煙を上げていたら、私だって風向きのことを気にしただろうが、たまたま水蒸気を上げていたのが不運だった。
 共に台湾育ち、最初からお互いに何となく親近感があり、ウマがあった。昼食時、「おい、台湾人、ビーフンを食べに行こう」と誘われて、よく二人で農学部裏の翠園に行ったものだ。勤め先の本郷に台湾料理店があり、時々ビーフンを食べに行くが、その都度先生のことを思い出す。
 先生のお名前は祥三、昭和3年生まれである。私は13年生まれだから、ちょうど10年違う。しかし、私が40歳になった時、「ボクも49歳、あんたとは同じ40代、同世代だ」としきりに言われた。そこで、「学生も私も昭和2桁、先生は1桁、決定的に違う。後の9年10ヶ月は世代が違うと言うからね」と言い返したものだ。
 私が人間ドックから帰ってきたときの会話、「どうだった」「どこも悪いところはありませんでした」「ドックは首から上は検査しないからね」「要するに頭が悪いと言いたいのでしょ」「いや、一番悪いのは口だ」。こんなことをいう先生が一番口が悪い。「早坂一言居士」たる所以である。なお、後継者には「大塚二言居士」も出現したが…。
 その後、共通一次試験が始まった。共通一次は高校の学習の到達度を見る試験で、個別試験は適性を見るのだという。そこで、個別試験は記憶力テストではなく、趣旨通りに適性を見る面接も含めた新形式にしようと考えた。もちろん、前例のないことだから反対や時期尚早との意見もあったが、お互いに野次馬、新しいことをやるのは好きだから、二人が中心になって準備した。試験会場で先生が古生物学史の講義をして、設問に答えてもらう前代未聞の試験となった。新聞では「ユニーク入試」と報道された。実は、先生が風邪や交通渋滞等で講義が出来ない場合には、私が自然災害の話をすることになっていたのである。しかし、全国的には従来型の筆記試験が主流となり、単に2度試験をするだけの大学にとっても受験生にとっても負担増の結果になったのは残念だ。
 先生が学部長になられた頃、当時の井形学長が、「桜島の火山灰でキャンパスが汚い。これでは受験生が来なくなる。抜本的にきれいにしたいので、実行力のある風致委員長が欲しい。岩松ではどうか」と先生に相談された由。その時、「風紀委員長には向かないが、風致委員長ならよいだろう」と推薦されたとのこと、結局引き受けさせられた。しかも学部選出委員は1年任期なのに、学長指名委員には任期がないと、5年も委員長をやらされる羽目になった。キャンパス周辺の汚い金網を撤去して、鹿児島以南にしかないゴモジュという亜熱帯種の生け垣にしたり、メインストリートをカラーペーブメントにして歩行者天国にしたりしたが、金のかからない方法は清掃であるとして隔月にクリーンキャンパスデーを設けた。井形学長には小型ロードスイーパーを運転して学内をデモしていただき、早坂学部長には教職員学生の先頭に立って灰で埋まったドブの掃除をしていただいた。偉い先生方をこき使うとはと言われたが、お二人とも快く協力してくださった。これも掃除など事務職員のすることで、教官のすることではないという学部もあったが、理学部が率先垂範してくださったのは有り難かった。腕まくりをしてスコップを持つ先生の姿が思い出される。このクリーンキャンパスデーもその後、いつの間にか立ち消えとなった。先生のような方がおられないと続かないのである。
 学長になられたのは、教養部解体の一番難しい時期、どう舵取りをしても必ずあちこちから反発が来る。さぞご心労の多いことだったと思う。顔色も体調もお悪そうで見ていられなかった。時たま、学科事務室にお見えになる時には、馬鹿話をしてアハハと笑うぐらいしか、われわれにはお力になれなかった。学長に担ぎ出したのは間違っていたのではないかと、今でも気がとがめる。
 仙台にお帰りになった後、仙台出張があったので、お宅にお伺いしたいがと電話したところ、ちょうど検査入院の当日だからダメだとのお返事だった。結局、この会話が最後となった。出張でなくとも、その後お伺いしておけば良かったと悔やまれる。
 古生物学は門外漢だから、研究の面ではおつき合いはなかったが、人間的な面ではいろいろ親しくさせていただいた。さまざまなことが走馬燈のように思い浮かび、まとまらない。断片的な羅列で申し訳ないが、ご冥福をお祈りして筆を置く。(2008/4/15)

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更新日:2009年1月17日