濱田隆士さんと私

岩松 暉


 私は教養学部時代、喘息がひどくよく休んだ。保健体育の重田教授の薦めで喘息研究所に半年ほど入院したため、3年在籍した。その間に地学教室の助手伊藤和明さんがNHKに去り、代わりに濱田隆士さんが就任した。つまり、私は伊藤さんにとっては最後の学生、濱田さんにとっては最初の学生ということになった。教養学部は専門学部と違って学生は通過するところ、師弟の関係は出来にくい。私は上記のような特別な学生だったためか、病気で倒れて音信不通になるまで、ずいぶん可愛がっていただいた。
 駒場時代にはあちこち巡検に連れて行っていただいた。上野原に行った際、片山信夫先生のグループと濱田さんのグループと二手に分かれて別々の沢を調査することになった。夕方、駅で落ち合ったら、濱田グループだけにわか雨に遭い、びしょ濡れになったという。理学部の渡辺武男先生も雨男だったから、以来、東大では名字にさんずいへんが付いている人は雨男ということになった。しかし、濱田さんは若禿で院生の頃から髪が薄かったので、あだ名は「じいさん」である。したがって、われわれは「お天道様は己の照り返しがまぶしいので、濱田さんが行くところでは雲に隠れるのだ。」と言っていた。
 共通一次試験実施を決めた国大協常置委員会の委員長は駒場地学教室の湊秀雄先生である。そのためか駆り出された。学生時代、タダ酒を呑ませていただいたのは事実だからやむを得ない。高校生の子供がいる人は当然出題委員にはなれない。結局、委員は、子育ての終えた大先生か、子供の小さい若造となる。最年少が私で、次が濱田さん、いつも隣に座った。ある時、小学生の娘が父の日のプレゼントに作ってくれたフェルト製のペンケースをテーブルの上に置いた。花やハートなどが刺繍してある。それを濱田さんがジーッと見つめているのに気づいて、しまったと思った。濱田さん夫妻にはお子さんがいない。そういう人に限って子供が大好きなのである。それを知っていたのに、うっかりしていた。誠に申し訳ないことをしてしまった。
 私は定年退職後、上京してNPOを始めた。出来たばかりのNPOだから実績がないので、仕事の受注もできない。初代会長の大矢曉さんはアメリカでOYO Corporationの社長を永らくやっておられたので、寄附文化は当たり前と思っておられたから、大矢さんの個人寄附で賄っていた。その大矢さんが交通事故で急逝されたので、途端に資金的に行き詰まった。濱田さんは親身になって心配してくださり、「日本財団や科学協会から100万円くらい助成しても焼け石に水だろう。恒常的な資金の流れを作る必要がある。笹川会長のところに一緒に行こう。」と、おっしゃってくださった。ところが具体的段取りの段階になって、パタッと連絡がなくなった。電話も通じない。風の便りにどこかホームのようなところに入っておられるらしいとは聞いたが、場所もわからない。奥様が先に倒れたのは知っていたので、連絡のしようがない。お見舞いにも伺えないまま、鹿児島に帰る羽目になってしまった。思えば、NPOの資金のことで科学協会の事務所でお会いしたのが最後になったことになる。
 葬儀は真鶴の吉祥院で執り行われた。正面に掲げられた笑顔の写真が濱田さんのお人柄を端的に表している。怒られた記憶は全然ない。いつもニコニコしていて、優しかった。ご冥福をお祈りする。

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連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2011年1月29日