深田淳夫さんのこと―日本地質学の恩人逝く―

岩松 暉


 深田地質研究所および応用地質(株)の創立者深田淳夫さんが亡くなられた。深田さんは地質調査業という業を興した先覚者でもある。地質学科卒業生は資源産業に就職するのが当たり前だった時代、「地質工学の創造」を掲げて財団法人の研究所を創設された。その直後、国のエネルギー政策の転換により、資源産業は衰退した。元々資源に乏しいわが国は、遅かれ早かれ資源が枯渇するのは必然だったから、深田さんはそれを見通しておられたのかも知れない。いずれにせよ地質学を支えているインフラが資源産業から土木建設産業へ転換することを予見しておられた慧眼には脱帽する。もしもこの地質調査業という受け皿が用意されていなかったら、地質学科卒業生は路頭に迷ったであろうし、そうした学科は不要として学科自体が存立の危機を迎えていたであろう。実際、大学の鉱山学科や工専の採鉱学科はほとんどつぶされたのに、逆に理学部地球科学科の新設が相継いだ。その意味で深田さんは地質学界全体の恩人である。
 深田さんに初めてお会いしたのは私が大学院生の時である。当時、東大大学院には「土木地質学」という講義があり、日本物探の宮崎政三さんや土研地質官の芥川真知さんが非常勤講師として教えておられた(アカデミズムの権化のような東大にどうして土木地質学の講義があったのか不思議だが、恐らく木村敏雄先生のお考えだったのだろう)。ある時、芥川さんが土研と深田研の見学に連れて行ってくださった。君たちの大先輩だよと芥川さんに紹介されたのが深田さんである。温厚で物静かな学者肌の方というのが第一印象だった。最新型の圧密試験器を見せていただいたが、説明にあたった弥次さん喜多さんみたいな若い2人組が、今にして思えば大矢曉さんと羽田忍さんだったのだろう。
 新潟地震の調査でも深田研の方とおつき合いしたが、その時は陶山国男さんで、深田さんとはしばらくおつき合いはなかった。私が応用地質学の将来について憂え発言し出した頃、どういう経緯か忘れたが、応用地質(株)の本社に何度かお訪ねして、深田さん・陶山さんと懇談する機会があった。「キミ、その話を全地連の技術委員会でもしてくれないか」と頼まれた。まだパワーポイントなどない時代でOHPを持って行ったから、80年代後半か90年代前半だったと思う。全地連事務所にはOHPプロジェクターすらなかったので、困った記憶がある。その頃、土木や地質は3Kと言われて嫌われていたし、フィールド調査をやらない学生が増えつつあった。電気産業の研究組合「超LSI研究所」の例を挙げ、いつまでも土木の僕ではなく、土木をリードするような技術革新が必要、フィールドジオロジスト養成には、もう大学は頼りにならないから、業界立の私学でも作ったらといったホラ話をした。それからしばらくして、「一気に業界立研究所まで行かないから、先ず若手の技術力アップのため全地連技術フォーラムを始めたよ」、と第1回目の講演要旨集を送ってくださった。また、富士山麓に建設省施設があるので、それを払い下げてもらうことにしたとの話もあり、全地連矢島壯一専務が鹿大の研究室まで図面を持ってお見えになった。その頃バブルがはじけて、深田学長・矢島事務長・岩松教務主任からなる私学という話は立ち消えになった。しかし、フォーラムは今でも続いているし、富士は富士教育訓練センターとして機能している。脂のギラギラしたエネルギッシュな企業人というイメージからは一番遠い物静かな深田さんに、そのような行動力があると知り、正直驚いた。私のような口先だけの大学人とは違うと敬服した次第である。
 定年後上京して大矢さんとNPOを始めた。「キミのことはいつまでも応援するよ」と多額のご寄付を毎年してくださった。ニュースレターはお読みいただいていたようで、「なかなかがんばっているね」とお褒めの言葉を頂戴したこともある。毎年の深田研公開の日にいつもお会いしたが、「これからは君たちの時代だよ」と口癖のようにおっしゃっておられた。「同じ言葉を20年も聞かされている」と混ぜっ返したが、世襲で左前になっていく会社が多い中で、応用地質(株)は見事に世代交代し、発展し続けているのは、深田さんがご自分の言葉を身を以て実践して来られた賜物であろう。ご冥福をお祈りする。
 以下に研究所に関するOHPだけ残っていたので再録する。

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更新日:2011年1月29日