灰中散歩/江口浜/武史跡めぐり/モグラ新幹線/樟寿会/あいご会/建部神社/全国鳴砂サミット/気仙沼港/陸前高田/碁石海岸/吉浜/田老/野田/種差海岸/寒立馬/東通村/御所野縄文公園/吹雪/陸ジオパークシンポジウム/小原木仮設住宅/復興屋台村/松屋旅館/南三陸復興市/女川町防災庁舎/雄勝公民館/大川小学校/床上浸水/松島/末の松山/津波堆積物/原発20キロ圏/除染/恩人宅/飯館村/福島県庁

鹿児島のご隠居(2011.11)


★灰中散歩

 今日は晴天である。郵便局に行ったついでに散歩しようと思った。ところが、先日来の降灰がまだ残っており、車が通る度に巻き上がる。慌てて退散することにした。途中、西之谷ダムを遠望した。ほぼ完成したようだ。来年の梅雨には新川の水害を心配しなくても良さそうだ。(2011/11/1)

★江口浜

 今日は文化の日、おはら祭がある。しかし、降灰がひどいから、祭り見物は止めて、江口浜荘跡にオープンしたという新しい温泉を偵察に行くことにした。途中、美山で薩摩焼窯元まつりと遭遇。当然誰でも窯元まつり→道の駅蓬莱館→温泉と考えるに決まっている。案の定、駐車場は一杯。急遽、藺牟田池へ。これが正解、人も少なく、べた凪の池を眺めながら、露天風呂に浸かった。帰途、収穫後の稲わらを焼いている光景を目撃、のどかで良いなあと思った。新潟にいた頃は、さすが穀倉地帯、「稲わら公害」と言われるほどもうもうたる煙で、社会問題になっていた。今はバイオマスにでもしているのだろうか。(2011/11/3)

★武史跡めぐり

 どんぐり会の友人と武の史跡めぐりをした。建部神社は国道トンネル抗口の真上に鎮座している。いつも下を通るが、今回初めて参拝した。武村関係の石碑が集められている。西南戦争での武村の戦死者を弔う招魂塚があった。その中に西郷隆盛の名もある。武村の西郷どん(せごどん)と言われていたというが、確かに村民として扱われている。(2011/11/7)

★モグラ新幹線

 九州地質調査業協会50周年記念式典と九州応用地質学会と同日に福岡で開催された。新幹線が出来て9時からの学会でも朝早く出れば出席可能である。その点便利になったが、ほとんどトンネル、たまに地上に出ても高い防音壁で景色が見えない。辛うじて金峰山を見ることが出来た。便利さは味気ない。前半、学会に出て、後半式典に出た。懇親会も二次会まで別々で、三次会には学会の人達が私を呼びに来てくれた。うれしい。(2011/11/11)

★樟寿会

 年に1度の名誉教授の集まりがある。樟寿会という。やはり、毎年数人の方のご逝去があり、黙祷した。ここでは若年と思っていたが、いつの間にか中ほどになってしまった。(2011/11/12)

★あいご会

 町内会には子供たちのためのあいご会なる組織がある。今日はそことのふれあいグラウンドゴルフ大会。初めての子も多かったが、だんだん要領をつかんでくると上手になり、ホールインワンを決めた子もあった。どんぐり会側では私が一つ決めて、何とか面目を保った。(2011/11/13)

★建部神社

 市から配布されてきた「武・田上地域ガイドマップ」に武岡を支配している山神(やまのかんさあ)が建部神社の近くにあるという。先日の史跡めぐりで見落としたところだ。何となく気になったので、探しに出かけた。すぐ見つかった。なぜ先日は見落としたのだろう。神社からの桜島遠望はすばらしい。(2011/11/15)

★全国鳴砂サミット

 気仙沼の九九鳴き(くくなき)浜や十八鳴(くぐなり)浜が大津波にも耐えて残り、国の天然記念物になったのを記念して全国鳴砂サミットが開催された。この出席を皮切りに、大阪市大原口さんとともに、『東日本大震災津波詳細地図』を配布する行脚に出かけた。本当はファンドを得て、大量に印刷し、被災地全世帯に無償配布したかったのだが、今のところ当てはない。さしあたって2人の印税分を現物でもらって、被災地自治体の防災担当者に贈呈することにした。(2011/11/19)

★気仙沼港

 朝、ホテルの窓から見た光景である。気仙沼港は地盤沈下して、海面すれすれ、リアスシャークミュージアムの前には漁船がまだ横たわっていた。(2011/11/20)

★陸前高田

 陸前高田市街地は平場が多いからほとんど全滅、有名な高田松原も壊滅した。市立博物館職員も大勢亡くなったという。まだ瓦礫が積んだままになっていた。(2011/11/20)

★碁石海岸

 碁石海岸の民宿に泊まった。交通整理に来ている各地の警察官や工事関係者でいっぱいだった。家庭の電気復旧を優先したためか、交通信号はなく、警察官の手信号で交通整理をしているのである。お客の警官や土木作業員は体力を使うから、食事をたくさん食べる。われわれにも同量が出された。(帰宅後体重を量ったら2キロも太っていた。)朝食前、海岸に出てみたが、津波がウソのように碁石海岸は元通り。恐らく当時はここも瓦礫がいっぱいだったのだろう。(2011/11/21)

★吉浜

 吉浜は高台移転したために、被害を受けなかったとして有名なところだ。しかし、平場の農地は全滅、塩水をかぶったため、今年は稲の作付ができなかったという。(2011/11/21)

★田老

 世界一の防潮堤を整備したとして名高い田老である。一部は壊され、一部は残ったがやすやすと乗り越えられ、町は壊滅した。防潮堤も津波高の減衰には役立ったようだが。(2011/11/22)

★野田

 野田村役場は床上浸水の被害にとどまった。村長さんは「自宅を流されてよかった」とおっしゃっておられた。被災者と心を一つにできるからという意味であろう。厳粛に受け止めた。ここは昔、マンガン鉱床で有名な野田玉川鉱山があったところ、役場に標本展示が残されていた。昔、東大の卒論指導に来たことを思い出した。(2011/11/22)

★種差海岸

 種差海岸の一部大須賀浜には鳴砂がある。ここに「はちのへ小さな浜の会」の小屋があった。津波でさらわれた由で、コンテナとテントが小屋代わりになっていた。地元を愛する人たちのたまり場である。(2011/11/23)

★寒立馬

 被害のひどかった岩手・宮城ではお役所は休日も出勤していたが、さすがに青森は被害が少ないので、今日は祝日でお休み。尻屋岬まで北上し、翌日南下することにした。尻屋は昔調査したことがある。何十年ぶりだろう。昔は牛の放牧だったように記憶しているが、今は冬でも野良で越冬する寒立馬のいるところとして有名。防寒用か、毛もふさふさしており、やや脂肪太り気味である。(2011/11/23)

★東通村

 東通村には原発がある。そのため、村役場は超豪華だし、学校なども立派である。今もハコモノが建設中だった。原発がなくなったらどうするのだろう。(2011/11/24)

★御所野縄文公園

 明日は盛岡でシンポジウムがあるので、内陸部へ向かい、一戸町で泊まることにした。整備された御所野縄文公園と特別天然記念物根反(ねそり)の大珪化木を見学した。残念ながら博物館は祝日の翌日のため休館だったが、屋外施設は見学できた。竪穴住居に土を被せて保温していたことが証明されたところだ。腰布一つ、裸同然の縄文人が木の枝を立て掛けただけの竪穴住居で暮らしている復元はよく見かけるが、東北や北海道でも縄文遺跡が見つかるようになり、冬どうしていたのか疑問に思っていたが、これで納得した。(2011/11/24)

★吹雪

 昨夜は奥中山のスキー場センターに泊まった。アルカリ泉で、なかなか泉質が良い。朝起きてみたら何と20cmの積雪、写真は駐車場である。西岳に近いので吹雪いていた。(2011/11/25)

★三陸ジオパークシンポジウム

 盛岡で「いわて三陸ジオパーク震災復興シンポジウム」が開催された。各地のジオパークからの参加もあった。私が知らない方もたくさんいる。山陰海岸担当者によれば、立ち上げにかかわり、私と親しかった方は、3代前の先輩という。ジオパークも一人歩きを始め発展している。感無量。(2011/11/25)

★小原木仮設住宅

 気仙沼市の職員の方がお茶を用意していてくれるというので、コンビニでおにぎりを買ってから、小原木中学校にある仮設住宅の集会所に伺った。本棚があり、子供の本などが並んでいた。午後、健康相談があるとの張り紙があった。(2011/11/26)

★復興屋台村

 今日はたまたま復興屋台村のグランドオープンの日、早速、飲みに出かけた。看板に男子厨房とあるお店に入った。超満員でにぎやかである。皆明るい。何年ぶりかでホヤを食べた。しかし、「俺は親父1人亡くしただけだが、今も悲しい。お前は3人も亡くしたんだからなあ。」といった会話も聞かれた。今は明るいが、そろそろPTSD(心的外傷後ストレス症候群)が出だす頃、少し心配になった。(2011/11/26)

★松屋旅館

 卒論のときに下宿させていただいた松屋旅館が残っていた。私が学生時代の時だって相当古かった。その頃は建築基準法で木造三階建は禁止のはず、それ以前に建築されたことは確かだ。木造3階建の古い建物が地震にも耐えていたのである。驚愕した。呼び鈴を押してみたが応答がなく、営業していないようだった。(2011/11/27)

★南三陸復興市

 南三陸町の仮庁舎に行ってみたが日曜日で担当者不在だった。しかし、隣の体育館では復興市が開かれ大変賑やか、演芸や露店はもちろん、体育館内では津波の語り部のお話をやっていた。教訓が長く語り伝えられることを願う。(2011/11/27)

★女川町防災庁舎

 最後まで津波避難を呼びかけていた女性職員が亡くなった防災庁舎である。遺族にとっては見るのもつらいことだろうが、献花台を備え、鎮魂の場とすることによって被災遺構として後世に残せないものだろうか。子孫の命を守るためにも…。(2011/11/27)

★雄勝公民館

 雄勝公民館の屋上に大型バスが載っている。写真では見たことがあるが、実物を見ると唖然とする。(2011/11/27)

★大川小学校

 ここは石巻市立大川小学校である。先生12人のうち10人、学童108人のうち74人と大多数が亡くなったところだ。校門の上に地蔵菩薩と慰霊碑が建立され、献花台が設けられていた。すぐ近くに小山があり、竹藪などがある。そこに逃げ込めば助かったのに、誠に残念。(2011/11/27)

★床上浸水

 石巻で床上浸水した地質コンサルタントのお宅にお邪魔した。家具や蔵書がやられたとのこと。修理中だったが、まずバキュームカーが来て床下のヘドロを吸い取っていた。(2011/11/27)

★松島

 絶景の館に宿泊して、温泉を堪能した。しかし、瑞巌寺や五大堂など観光名所は素通り。残念ながら物見遊山ではないので割愛。(2011/11/28)

★末の松山

 多賀城市の末の松山である。貞観津波の際、ここは助かったと伝えられているが、今回も助かった。百人一首で有名なところだ。聞くところによると、京都の祇園祭は貞観地震の後の御霊会に端を発するという。当時の東北と京都間の情報網が発達していたことがわかる。(2011/11/28)

★津波堆積物

 相馬市から南相馬市にかけて荒涼たる光景が続く。水田に砂がかぶったり、塩害でやられているところもある。まるで砂漠状態。(2011/11/29)

★原発20キロ圏

 原発20キロ圏まで行ってみた。警官が物々しく警戒している。その前ではメディアが中継していた。(2011/11/29)

★除染

 相馬農業高校に立ち寄った。卒業生の寄贈した庭園というのに、芝生でなく土である。放射能除染のため、削り取った由。グラウンドも同様だった。これはまさに人災。(2011/11/29)

★恩人宅

 昔、大学院時代に南相馬はフィールドだった。猪狩校長先生宅に無料で泊めていただいた。人間的にも教えられることが多く、親戚以上のお付き合いをさせていただいた。今は息子さんの世代、敷地内の別の住宅に住んでおられる。昔の建物がそのまま残っていて懐かしい。昨夜は息子さん宅に泊めていただく。先生の奥様はご健在でうれしかった。しかし、南相馬市内では農作物の耕作は禁止とのこと。もちろん、放射能のためである。奥様の趣味である家庭菜園までダメとは!(2011/11/30)

★飯館村

 帰りは福島から新幹線に乗ることにして、福島へ向かった。途中の飯館村は放射能汚染で避難、シャッターが下ろされゴーストタウン状態だった。東電のずさんなやり方には憤りを覚える。(2011/11/30)

★福島県庁

 福島県庁に立ち寄って、津波詳細地図を寄贈、原子力災害に追われて、津波にまで手が回らないと喜ばれた。ここはまだ臨戦態勢、一角にはメディアのコーナーがあり、原子力保安院が記者会見をしていた。(2011/11/30)

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更新日:2011年11月30日