地方大学の組織改革と大学の自治

 岩松 暉(未発表,1994)


1.はじめに

 1991年に大学審議会による“大学の大綱化”の答申が出されて以来,どこの大学でも教養部廃止を主眼とする組織改革が進行している。わが鹿児島大学も例外ではない。遅ればせながらここ2・3年教養部廃止を前提とした組織改革の議論が行われてきた。しかし,珍奇な名称を用いて見せかけの新しさを出し,内実はできるだけ旧来の組織を温存しようとの姿勢に終始している。“改革案”の骨子は,教養部の理系教員は理学部に,人文・社会科学は法文学部に,体育系教員は教育学部に吸収しようとするものである。しかも,学生定員はそのままで,吸収した教員を原資に学科増を狙っている。教員当たり学生定員が大幅に減少する訳だから,小さな政府が叫ばれ定員削減が常態化している今日,こうした負担減が認められないのは自明に近い。当然,その分一般教育を担当するのだとの言い訳が出てくる。何のことはない,4年一貫教育という当初の理念はどこへやら,理学部・法文学部という名の新教養部を作ることに他ならない。旧文理学部への回帰である。ところが,一般教育は旧教養部所属教員が担当すべきものと放言し,われ関せずの人も多い。こうした案すら合意にいたらず,結局平成7年度の概算要求に間に合わなかった。一体鹿大の教員層は危機感を持っていないのであろうか。現状に満足しきっているのであろうか。

2.大学を取りまく社会情勢と改革の必然性

 確かに今回の組織改革は先の“大綱化”の方針に端を発していることは事実である。これを以て文部省主導の改革と見ることもできよう。しかし,もう少し大局的に見れば,遅かれ早かれ改革に直面せざるを得ない時期に来ていた。大学令以来1世紀余,新制大学発足より半世紀,大学は制度疲労の極に達している。大学は19世紀の学問体系を前提に組織されており,新しい世紀の付託に応えるにはあまりに古い革袋になってしまった。
 一歩大学の外に出れば,世はリストラばやり,産業界では円高・不況の二重苦に生き残りをかけて熾烈な減量作戦を展開している。しかし,これは一時的な不況対策ではない。力を盛り返し始めた欧米と激しく追い上げるアジア諸国に挟撃されている日本が,こうした世界経済の構造的な変化に対応しようと苦悩している姿である。学界も同様,21世紀を目前に,どこの学会も将来構想検討委員会を発足させ脱皮を図っている。学会誌の体裁をあか抜けしたものに変えたり,学生向け講座を設けたり,名称すら変更したところもある。産業界や学界だけでなく,どこの分野も新しい世紀における飛躍を狙って模索しているのだ。いわば普遍的な世紀末現象である。大学だけが埒外でいて良いはずがない。
 では今日の社会情勢はどのような大学を要求しているのであろうか。ひるがえって戦後日本の歴史を振り返ってみよう。日本人は,敗戦の疲弊から立ち直るや,先進諸国に追いつき追い越せを合い言葉に,ただただがむしゃらに企業戦士として働いてきた。欧米のパテントを買ってきて“軽薄短小”に加工し,それを輸出することによって世界一の経済大国になった。その過程で新制大学の果たした役割は大きかった。欧米のいわゆるブルーカラーと違って,格段に優秀な大量の技術者層を供給したからである。彼らが安価で使いやすい優れた商品を開発してきたのだ。しかし,今や日本はトップランナーである。もはやお手本はない。コンピュータを例に取ろう。単なる石に過ぎないICメモリなどは日本の独壇場だが,ソフトの塊,つまり頭脳の所産であるCPUはすべてアメリカに握られている。こんな状態に甘んじている訳にはいかない。就業人口を研究開発職・技術職・営業職に三分するとしたら,これからは第一の研究開発職を抜本的に強化する必要がある。その方策として考え出されたのがCOE(Center of excellence)構想であろう。旧制大学を大学院大学化して巨額の資金を重点投資し,ノーベル賞クラスの頭脳を養成しようとするものである。確かに日本の国力にしてはノーベル賞受賞者数は極端に少ない。だが,こうしたやり方はかつての社会主義国が,国威発揚を狙ってオリンピックの金メダルを獲得するために,ステートアマを養成した方法に酷似している。即席効果はあるかも知れないが,長い目で見た場合得策か問題が多い。
 一方,第二の技術職の多くは不要になってきた。ロボット化・ME化だけでなく,円高に伴う産業空洞化の進行によって,発展途上国の安い労働人口に肩代わりされるようになってきたからである。この部分を担ってきた新制大学はどのようにすればよいのであろうか。教養大学化して笑顔を売るセールスマン・営業職を供給すればよいのであろうか。

3.新制大学の生き残る道

 大学院大学では,大幅な院生定員増により,院生集めに必死である。こぎれいなポスターやパンフレットを配ったり誠に涙ぐましい。新制大学の修士試験に落ちた人が旧制大学大学院に合格した例など枚挙にいとまがない。地方大学の落ち穂拾いなどと笑っていられるのはここ2・3年だけ,その後は玉突現象により優秀な人材の中央集中が極端に進行し,地方大学には落ち穂すら来ない事態が招来するであろう。COE構想には前述のような批判があるにしてもこれが現実である。地方大学がその中で生き残るためには,研究者養成機関ではなく,実学を中心とした高度職業人養成機関と割り切るしかない。ただ,教養大学化の道は取るべきではないと思う。ライフゴール(生涯の目標)を持ち得ないカルチャーセンターは,結局レジャーランド化するのは必然だからである。
 もちろん,研究を全部諦めろと言っているのではない。しかし,すべての地方大学に博士課程を設置し,ミニ東大化を企図しても絵空事に過ぎない。田舎のよろず屋が大都会のデパートにかなうはずがないのだから。研究を目指すのなら,やはり,中央にもどこにもない専門店になるしか生き残れないであろう。地域の特性を生かして特化するしかないのである。一例を挙げれば,鹿児島ならさしづめ火山国の特質を生かし,総合火山学研究科を作るなどである。東大に地震研究所,京大に防災研究所はあるが,文部省にも他省庁にも国立火山研究所はない。しかし,わが国は世界一の火山国であり,火山の恵みも多いが災害も多い。火山を本腰で研究することは,社会的要請でもあり国際的責務でもある。だが,狭い意味の地球科学者だけいれば済むものでもない。(社)土木学会でも雲仙災害を契機に「火山工学」の創造を提唱している。火山を知り,火山を生かすすべての分野,理学・工学・農学・人文科学の関係分野からなる学際的な博士大学院が求められているのである。こうした国際的にも第一級の大学院なら,大学院大学を振ってでも優秀な人材が集まるに違いない。これに研修センターも併設して発展途上国や地方自治体の防災関係職員を受け入れ,教員の専修免許に相当するような防災診断士といった資格を付与すれば,社会の強い要望に応えることにもなる。

4.大学の自治を売り渡すもの

 第1章で述べたように,誰が考えても荒唐無稽に近い案を出し,文部省に拒絶されてすごすご引き下がってくるなど,大学人の見識を疑われる。先にも述べたように,大学改革は客観的に求められている。時代の要請に応え得る斬新な改革案を提言し,文部省に実現を要求するのでなければ,時代に先んじて憂える知識人としての誇りが泣こうというものだ。中にはこうした非現実的な案を文部省に提出したのを通過儀礼とまでいう人もいる。世間の情勢に疎い人たちに,今のままでは通用しないことを知らせしめるためだという。文部省のお役人に頭を叩かれなければわからないのだろうか。文部省から門前払いを食らわされ,その意向にそうよう手直しをしてまたお伺いをたてる,こういったことの繰り返しで,結局,文部省の意向通りの大学改革が実現する。これでは大学の自治など微塵もない。自ら墓穴を掘り大学の自治を売り渡すものである。文部省の強権的指導の非をならす資格さえない。現状では文部省に禁治産者扱いされても仕方がない。文部省主導の改革どころか,消費税値上げのスケープゴートとして,民営化候補のトップにノミネートされるのではないかと恐れる。
 もしも「文部省主導による上からの改革押しつけ反対」「教養部制度廃止反対」を主張するのなら,文部省がなんと言おうと,組織改革関係の各種委員会は廃止し,議論に明け暮れするのはやめて研究にいそしんだほうがよい。逆に,故矢内原忠雄氏(東大教養学部長,後総長)によって唱えられた一般教育の高邁な理想を再び高く掲げ,教養部教育の内容を抜本的に改革すべきであろう。少なくとも教養部時代は無駄だったと学生に言われるような事態は改善しなければならない。前述の高度職業人養成を前提とすれば,例えば,鹿大卒業者は全員バイリンガルでコンピュータに強いと胸を張って言えるような人材を輩出すべきである。そのような実績を上げてこそそれも説得力があり,世人も納得し文部省も受け入れるであろう。

5.全学的な組織改革を

 それではどのような改革が望ましいのであろうか。先発大学の例を参照して,その真似をする発想が随所に見られる。総合大学院のときもそうだった。いつも右顧左眄して二番煎じをやるのである。独創が身上の研究者として誠に恥ずかしい。全国のトップを切って斬新なアイディアを出したいものである。立派な案ならば文部省とて認めるに違いない。今回の組織改革は,教養部組織を実質的になるべく無傷で温存しようとするような案ではなく,既存学部の大幅な改変を伴う抜本的なもので,今後1世紀,少なくとも30年はもつようなものであって欲しい。
 20世紀は分析哲学全盛時代,学問が細分化される時代だった。例えば地球科学系学会一つとっても,関連学協会数は十指に余る。あまりにタコ壷になったとの反省から,最近では地質学会と地球惑星科学関連学会が学会時期を合わせたりして互いに協力しようとの機運にある。21世紀は総合化の時代なのかも知れない。となると,大学の研究教育体制も,旧来の理・工・農・医…といった枠を取り払って,研究対象や研究手法を同じくする学際的な学部や大学院が生まれてもおかしくない。前述の総合火山学研究科もそうだし,例えば,環境科学部や地球システム工学部・生命科学部・バイオサイエンス学部などいろいろ考えられる。
 ただ,ここで注意したいのは,今回の組織改革はあくまでも教育体制の改革が主眼だということである。学生が主人公だということを忘れてはならない。どのような人材を育てるのかといった議論がもっともっと盛んになってしかるべきである。教員層の共同研究などは,どこの組織に属していようと,他大学とも外国とも自由に出来るし,実際今までやってきた。まして,在職中の教員の専門分野を議論の大前提に据えるなど論外である。

6.もっとビジョンの討論を

 学部を超えた改組ということになると,当然,学生定員の変更まで含むし,今までのような旧来の枠組みを前提とした名称変更や部分手直し程度の議論ではおさまりがつかない。21世紀における鹿児島大学発展の道は何か,大学をめぐる客観情勢はどうなっているのか,一般教育はどうあるべきか,どのような学生を育てるのか,といった根本的なところの全学的な討論が今こそ求められている。哲学が問われているのだ。こうした根本問題でのコンセンサスが得られないまま,具体的な組織いじりを始めれば,学部間の思惑の違いやささいな利害の対立からデッドロックに乗り上げるのは火を見るよりも明らかである。
 学部間の厚い壁を打ち破って熱気のこもった本質的な討論を巻き起こすのは学長の出番であり,その点での学長のリーダーシップも問われている。学長はこうした根本問題に対するご自分の哲学を披瀝し,熱っぽく全体ビジョンを説く必要がある。ワイツゼッカー前ドイツ大統領は,ドイツの良心と言われ,その説くところは常に世界の注目を浴び,国民からは絶大な信頼をかち得ていた。大学の学長とはそのような重みのある存在でなければならない。構成員に心服されてこそ,学内世論を引きつけ,改革も実行されるのである。学長の行政手腕・リーダーシップとはそのようなものであって,官僚の場合のように実務能力で評価されるのではない。細かなことは評議会や委員会に任せておけばよいのである。
 今からでも遅くはない。全学挙げた活発な討論を巻き起こそう。さもなくば,民営化どころか,自滅の道しか残っていない。恐らく現実に教職員の失業問題も起きるであろう。

7.おわりに

 現状を憂えるあまり,かなり過激な文章になってしまった。学長はじめ関係各位に失礼の段お詫びする。しかし,平成7年度概算要求が見送りになった今日,「学長が見えない」「委員をやらされ一生懸命真面目に議論したのに,これではもうやる気をなくした。もうどうなっても良い」といった声をしばしば耳にする。相互不信が蔓延するのを恐れる。

(1994.7.30稿,8.1一部追加,8.4訂正,8.21訂正,8.25訂正)

追記 ― 組合ニュースに転載するに当たって ―

 初稿を書いてから2ヶ月,平成8年度概算要求もまとまりそうもない情勢という。もともと出す気がないのだと言われても仕方あるまい。第一本気で概算要求を出そうというのなら,スケジュールというものがある。年明けから年度末にかけて大枠の改組案について全学的なコンセンサスを得て,春には学長は文部省に日参してすり合わせと説得を行い,夏には新カリキュラムから個人調書に至るまでの膨大な書類を準備して,省議を経た上で秋には大蔵と交渉に入るのが普通の段取りである。単なるアリバイ工作のような議論はやめ,平成9年度向けでよいから,もっと本質的本格的な議論に取り組むべきであろう。
 「他大学では現状維持に近い案が通っているのに,なぜ率先抜本改革しなければならないのか」との疑問が底流にあって前へ進まないのだという。つまり,自分たちは現状で満足しきっていて改革の必要を感じていないのに,文部省からいわゆる「上からの改革」を押しつけられているとの認識が背景にある。小論で述べたように,大学が制度疲労の極に達していて改革が客観的に求められていることを理解していない議論である。いくら鹿児島が中央から離れた僻遠の地にあるからといって,あまりに情勢に疎いと言わざるを得ない。第二に,他大学の先例は参考にはならない。為政者のやり方は中国三千年の昔からたいして変わっていない。「分断して支配せよ」と「アメとムチ」である。文部省は戦後一貫して,帝国大学系,旧医科大学系,旧制高校昇格組と厳格な序列を堅持してきた。熊大に総合大学院ができたから鹿大もと考えるのはお人好しすぎる。大学院にしても先の順序で,大学院大学,総合大学院,連合大学院と差別を付けるのは既定の方針だったのである。もっとも30年前にはinter-facultyの大学院,inter-collegeの大学院と仮称されていたが。
 また,最初の頃率先改組したところはご褒美として,大目に見てもらえたり,純増を認められたりしたから,後発も同じような特典にあずかれると考えるのは甘い。それどころか全く同種の案でも拒絶されることもある。追試験問題ほどだんだん難しくなるのが文部省のやり方である。遅れるほどより厳しい条件を突きつけられるのは目に見えている。
 それどころか平成8年度にすら間に合わなかったところは,改組の必要なし,教養部存続もOKと言われるかも知れない。もちろん,あらゆる予算はストップ,ただ存在しているだけという状態にしておき,トカゲの尻尾切りの尻尾として残しておくのである。現在,消費税値上げの前提として,大幅な行政改革が求められている。消費税値上げに反対の人でも行政改革は賛成の人が多い。国立大学と国立病院を民営化すれば公務員が40万人削減できると週刊誌でも書き立てられ,世論づくりが進んでいる。社会党すら消費税値上げや行政改革に賛成しているのだから,文部省も流れに抗し難いと考えているであろう。官僚の常として,縄張りや権限の縮小には本能的に抵抗するが,こうした世論に対する譲歩のデモンストレーションとして,トカゲの尻尾を切るゼスチュアはしなければなるまいと踏んでいるに違いない。現に国立病院の統廃合は随分進んでいる。明日は国立大学である。
 もちろん,こうした脅しにおびえて唯々諾々と文部省に迎合する必要はない。こちらからもっとよい,来世紀に通用する立派な案を提案すればよいのである。しかし,断固粉砕を叫ぶのみで,時代の要請にマッチした自己革新を怠ると,撃ちてし止まんと一億玉砕を叫んで国を滅ぼした前車の轍を踏むことになるであろう。

(1994.10.20稿)

<注>
 結局これは組合ニュースに掲載されなかった。組合執行部内で異論があったらしい。
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更新日:1997年8月19日