大学の社会貢献

 岩松 暉(日本学術会議九州・沖縄地区ニュース, No.98, 2003)


 この1・2年各地で開催された日本学術会議九州・沖縄地区会議主催のシンポジウムを見ると,いずれも地域貢献・社会貢献をテーマとしたものばかりであった。少子時代を迎え,国公私立の別なく大学冬の時代が到来するし,とくに国立大学にとっては独立法人化を目前にしていたから,いかに生き残っていくか真剣に模索しておられる様子がひしひしと伝わってきた。科学者懇談会でも,学長さんたち大学行政を預かる幹部の方々は,異口同音に地域社会からの支援が決定的であると語っておられたのが印象的だった。実際シンポジウムでは,地域の村おこしやまちづくりに研究室挙げて貢献しているすばらしい実践例が報告されていた。日本学術会議もscience for society(社会のための学術)を標榜している。上記大学の地域貢献・社会貢献もこれと軌を一にするものであろう。
しかし地域に根ざした学術だけが社会貢献ではない。大学には研究と同時に教育というもう一つの大きな柱がある。社会が求める優秀な人材を輩出することこそ高等教育機関としての重要な社会貢献である。そこで大学教育の現状を振り返ってみたい。戦後のキャッチアップに果たした新制大学の役割は大きい。とくに地方大学は理系の比重が大きかったから,優秀な技術者層を多数輩出した。彼らが戦後の技術革新を担い,安かろう悪かろうと言われたメイドインジャパンのイメージを一新し,輸出大国を実現したのである。しかし今や大学全入時代の到来,「分数も出来ない大学生」なる流行語まで登場する始末。リメディアル教育と称して補習授業を行う大学も出てきた。学力崩壊が大学まで及んできたのである。これでは科学技術立国を目指す人材を送り出すのは難しい。
 では学生の質だけが問題なのであろうか。教員側に問題はないのであろうか。ここ数年来,教養部廃止に端を発した大学改革の波が全国の大学を襲った。元教養部教員がどこの学部に分属するかといった単純な問題ではなく,多くの学部の改組と連動していたから,それぞれの思惑や利害が複雑に絡み合っていた。さらに当時の文部省からの強い干渉に対して迎合するのか対峙するのか,学内世論も二分した。互いに疑心暗鬼になり,抜き難い不信感が芽生えた。以前は学内食堂で他学部の先生が出会うと,お盆を持ち寄り話に花が咲いたものである。今はせいぜい黙礼すればよいほう,スーッと通り過ぎる。さらに大学院博士課程設置やCOEが日程に上り,教員任期制が取り沙汰されるようになると,業績主義が煽られ,論文数を増やすのに汲々とするようになった。一方で,委員会がたくさん作られ,会議に次ぐ会議,研究時間を確保するのも難しい。教員の顔には疲労感が漂い,とげとげしい雰囲気がキャンパスを覆う。結局,学生の教育にしわ寄せがくる。講義はお座なりになり,卒業研究も先生の下請的になった。論文のデータ出しのテコに使うのである。Science for societyどころかscience for me(自己保身の学術)である。これでは学生が育つはずがない。
 新制大学発足時はないない尽くし,顕微鏡すら学生数に見合うだけなかったが,清新の気だけは充ち満ちていた。新日本建設を合い言葉に教職員・学生が心を合わせて努力したからこそ,輝かしい成果を上げたのである。「新しき酒は新しき革袋に」を実践したのだ。今求められているのは,中期目標を文科省向けの単なる作文に終わらせず,新しく設定した目標に向かって,教職員が一致結束することではないだろうか。溌剌とした雰囲気がキャンパスに満ちていれば,学生は感化され自ずから育つに違いない。大学の評価も,評価機構が決めるのではなく,長い目で見ればどれだけ優秀な人材を輩出したかで決まるのである。

連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2003年8月4日