コーヒー風味の砂糖水

 岩松 暉(未発表, 1995)


 近頃,鹿大郡元キャンパスは何となく雑然とし荒れた感じがする。所狭しと不法駐車があふれているし、カラータイルを敷き詰めた歩行者天国や分類植物園として全国的に有名な鹿大植物園の中をバイクがわが物顔に走り回っている。「日本人は進入禁止の漢字が読めないのか」と言った留学生がいた由。見かねた院生が学内ニュースのknit.freeに投書しても反応はサッパリ。議論がまき起こり、教員や当局が動き出すと期待していたとのことであるが。しかし、教員も見て見ぬ振り、門衛さんがいなくなった後は無法地帯である。警察が大学の自治を尊重して入構を遠慮し、取り締りを行わないのをいいことにしている。
 もともと大学の自治は、大学人には自らを律する能力があることを前提としていた。私は学生の頃寮委員をしていたが、寮生雇いの食堂従業員もいたし、自治寮を経営するには大変な苦労があった。しかし、寮自治を主張するからには責任を伴うのは当然であると思っていた。現在の学生は、親や学校の監視と指示の下に行動することが習い性となっており、自治能力が全く育っていない。
 もっとも学生だけを責められない。今回の組織改革が未だにもたもたしていて成案すら得ていない状態だからである。教員たちは、世の中の情勢には全く無知で、狭い自らの既得権益の擁護だけで行動する。教授会で「本省の意向はどうなんですか」などと平気で発言する教授もいる始末。文部省とは独立しているとの気概もなく、出先機関の下級役人との意識なのだろうか。一方、学長も鹿大発展のビジョンを提示して学内世論をまとめていくリーダーシップがない。学内四分五裂、先ほどの荒れたキャンパスは人心荒廃の象徴と言えよう。
 このように学長から学生まで自治能力の欠如を示しているのが鹿大の現状であろう。これでは、自治を叫び文部省の強権的指導の非をならす資格さえない。一昔前、「クリープの入っていないコーヒーなんて、コーヒーではない」とのコピーが流行ったことがある。自治のない大学なんて、コーヒー豆の入っていないコーヒー風味の砂糖水に過ぎない。

<その後の一風景>
 この写真は台風一過の姿ではない。ここから先の椰子並木が歩行者天国である。本来良識を前提にしていたので車止めなどない。そうすると平気でバイクを乗り入れるので、誰かがベンチを運んできて通せんぼした。それでも隙間から入るので、ゴミ箱まで持ち出したらしい。空き缶が散乱しているところを見ると、それを蹴散らして乗り入れたのであろう。もう末期症状に近い。大学に自治があると思っているのは、世の中で警察当局だけだろう。(1996)

<その後の一風景(その2)>
 バイクの構内乗り入れは禁止なのに、その上、駐車禁止の掲示の真ん前に堂々と置いている。違反の二乗である。ここはピロティー、雨に濡れない絶好の場所だと思ったのだろう。倫理感覚の麻痺した官僚や金融マンも、こうした学生のなれの果てか。こうしてみると、昨今の世相についても、自治を喪失した大学の責任が大きいようにも思う。(1998)

<その後の一風景(その3)>
 雨が降り出したので,傘を差して生協に買い物に行った。帰りに傘がない。誰か間違えたのだろう。名前と電話番号を書いたテープが巻いてあるから、そのうちに気がついて連絡があるだろうと思った。学生が「甘い、甘い。それは間違えられたのではなく盗まれたのです。自転車でさえ何とも思わず失敬するんだから。テープなんて剥がせばいいでしょ。」と言う。賭をしたが、結局負けてしまった。嗚呼。(1998)

<その後の一風景(その4)>
 最近、ついに上述の植物園入口に写真のようなバイク止めが設置された。昔は林学科実習園として非公開で鍵のかかる扉が付いていた。私が全学の風致委員長時代に農学部と交渉し、学生たちの憩いの場として開放してもらったのである。年中小鳥のさえずりが聞かれ、ここに来ると気持ちが落ち着く。そこをバイクが走り回るなどとは考えても見なかった。不明を恥じる。(1999)

<その後の一風景(その5)>
 大学祭になると、玄関のガラスが割られるのは年中行事になった。大学公開の日だから、外部の者の犯行だろうということになっていた。ところが、ついに普段の日に割られる事件が発生した。分厚い硬質ガラスだから、酔ってぶつかったくらいでは簡単には割れない。恐らく鈍器様のもので、力一杯割ったのだろう。意識的な犯行である。これが大学の実態なのだ。(1999)


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更新日:1998年3月7日