学災と鬼

 岩松 暉(西部地区自然災害資料センターニュース, No.14, 巻頭言, 1996)


 寺田寅彦は地震と震災を峻別し、「地震の現象と地震による災害とは区別して考へなければならない。現象の方は人間の力でどうにもならなくても災害の方は注意次第でどんなにでも軽減され得る可能性がある」と述べた。震災予防調査会もそのような趣旨で設立されたのであろう。しかし、それから半世紀、地震学も見違えるほど進歩したが、学者の通弊としてやがてアカデミズムに流れ、災害貢献を忘れ、自然現象のほうにのみ興味が集中していった。地震波を使って地球の内部構造を調べるのが目的で、地震は手段であると公言する者まで現れた。可視光線でものを見たりX線で身体内部を見るのと同じで、見る波長が違うだけだというのである。
 こうした昨今の風潮に対して、太田一也九大島原地震火山観測所長は学災(学者災害)と厳しく指弾しておられる(災害科学研究通信,No.48)。雲仙噴火も千載一遇のチャンスとばかり、学問的興味だけで出稼ぎにやってきてそれぞれ勝手な放言をする。それで行政は振り回され、住民はパニックに陥る。住民の生命財産に対して事実上の最高責任者としての役割を果たさなければならなかった先生としては、大変苦々しい思いであったに違いない。「災害科学は、社会に、人に直接役立つものでなければ、存在価値はない」と率直な感想を述べておられる。災害科学に携わる者は、cool-headed pure scientistである前に、warm-hearted citiznであらねばならないのである。被災者の痛みに思い至らないのでは、災害科学をやる資格がない。
 雲仙の活動が下火になった頃、かの阪神大震災が発生した。断水・交通途絶という最悪の状況で、消防士や警察官たちはよく健闘したが、迫り来る火炎の中で見殺しにせざるを得なかったケースも多々あったという。実態調査に当たった社会心理学者林春男京大防災研助教授は、昨年の自然災害シンポジウムにおける講演で、「防災関係者は、大局のためには時に鬼になる必要がある」と述べられた。個々人が時に応じて鬼になっていたのでは本人に精神的後遺症が残る。鬼になるケースをオフィシャルに事前に決めておくことが必要になる。防災工事や施策の場合も同様である。あらゆる施設をどんな災害にもビクともしないように作っておくのが不可能な以上、重要度に応じて順位付けをするのは当然である。日本列島は変動帯に位置しているから、全国民が危険地帯を完全に避けて住む訳にはいかない。誰かはリスクを冒さなければならないのである。災害科学に携わると、象牙の塔の中とは違って、きれい事では済まされなくなる。生きた現実と悪戦苦闘を強いられる。阪神大震災をきっかけに鬼という言葉が学会で聞かれるようになったのは、災害科学がアカデミズムから脱してより実践的になってきた証拠であろうか。

引用文献
太田一也(1993): 雲仙普賢岳災害で思うこと−災害科学って何だろう?−. 災害科学研究通信 No.48, 3-5.


ページ先頭|災害科学雑文集もくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日