現代水害の特徴と治水の考え方

岩松 暉(『治水とダム―河川と共生する治水―』,川辺書林, 144-169, 2001)


●川とは何か

 水害を考える前に、川とは何かについて触れてみたいと思います。どこの町にも村にも川は必ずありますから、日本人には大変なじみ深いものです。何を今更と思われるかも知れません。確かに私たちは八岐大蛇の神話から桃太郎の昔話まで、子どもの頃から川にまつわるお話を聞いて育ちました。八岐大蛇は斐伊川の洪水を象徴しているお話だそうです。さしずめ素戔鳴尊は土木技術者だったのでしょうか。中国の「治水治国」と同様、川を治めることは為政者の最大関心事でした。川の恐ろしい側面を表しています。
 しかし、同時に、洪水は上流から肥沃な土壌を供給し、平野を形成します。出雲平野も斐伊川の氾濫の賜物です。稲作文化は川沿いの平野で生まれました。この豊かな大地があったからこそ、大和朝廷に比肩できる大国主命の政権が栄えたのです。
 桃太郎の桃のお話は、いろいろな解釈がありますけれど、桃太郎の誕生は川が生命を育むことを象徴しています。また、どんぶらこどんぶらこと流れ、川が山と海の生態系をつなぐ回廊の役割を果たしていることも示しています。今も宮城県気仙沼には牡蠣の森があり、漁師達が植林運動に取り組んでいます。森が牡蠣を育んでいるのです。後世では物流にも大きな役割を果たしてきました。昔陸上交通は想像以上に困難でしたから、上流と下流との交易には川が使われていたのです。お酒で有名な伏見も内陸の京都盆地にある河港でした。
 このように、川は災いと同時に恵みももたらしてくれました。川に限らず、自然に存在するものは、何らかの存在理由があるのです。現代人は、ややもすると、水害をもたらす厄介者と見たり、交通の障害と見て暗渠にしたりしますが、川を目の敵にするのは考え物です。

●川をとりまく日本の自然

 日本列島は北西太平洋モンスーン地帯に位置していますから、台風の通路になり、梅雨前線が停滞しやすいところです。冬にはシベリア寒気団が日本海を渡ってたっぷり水分をもらい、豪雪をもたらします。それ故、水に恵まれており、年間平均降水量は1,728mmにも達します。アメリカは760mm、中国は660mm、世界の平均値が973mmだそうですから、ほぼ倍は降っています。「水に流す」とか「湯水のごとく」といった言葉を日常語として使える幸せを感謝しなければなりません。世界の農業地帯で深刻な塩害が大問題になっていますが、日本では塩分を文字通り水に流してくれます。
 最近、時間雨量100mmを超すような大雨が多くなった、地球温暖化の影響ではないか、といったことが言われています。公共土木の必要性を強調するときによく使われます。しかし、確かにここ数年を取れば多くなっていますが、もう少し長いスパンで見れば、あまり変化がありません。
 一方、日本列島は南北に細長い島です。しかも2,000m級の山々が背骨をなしています。脊梁山脈と言います。したがって、日本の川は流域長が短く勾配がきついのが特徴です(図1)。明治初頭、オランダの土木技師デレイケが成願寺川を見て「川ではない、滝だ!」と叫んだとか、それほど急流で暴れ川なのです。
 そこに多雨が重なるわけですから、年中行事のようにどこかで洪水が発生します。洪水比流量(流域の単位面積当たり洪水量)は、ローヌ川が0.152、ライン川が0.071に対して、利根川が1.98、黒部川が8.49と1桁も2桁も大きいのが特徴です。

●現代水害の特徴

 それでは水害の問題に入りましょう。昨年(2000年)も東海豪雨で大水害があったことはご記憶に新しいことと思います。新川・天白川・庄内川のような中小河川が氾濫しました。かつてのような大河川の大規模な氾濫は少なくなりました。ダムや堤防の建設、河川改修など水防工事が大河川を優先して行われてきたからです。水害による浸水面積も減少の一途をたどっていますし、死亡リスクも確実に減少しています(図2)。
 公共事業は諸悪の根源のようにいう人もいますが、こうした成果を享受していることを忘れてはいけないでしょう。中小河川の氾濫が多いということは、小規模群発型になってきたということを意味します。これが現代水害の特徴の一つです。
 次に、河川および流域の人工化に伴う問題がクローズアップしてきたことも特徴です。上流が開発され、雨水のしみ込む場所が少なくなりましたし、流路も直線化され、その上、いわゆる三面張りなどの床固工が普及しましたから、ピーク時が早くなり、かつ、ピーク流量も大きくなりました。また、堤防も頑丈になりましたから、破堤よりも溢水のほうが多くなりました。
 また、頑丈な堤防が出来たため、今までの遊水地に人家が進出するようなことも起きています。遊水地はもともと洪水時に水が滞留するところですから、一度破堤すると、激甚な被害を受けます。防災工事が危険地を増やすといった矛盾が起きているのです。
 第三の特徴は都市型水害が増大したことです。都市はアスファルトなど人工被覆が多いため、雨水がしみ込まず下水に集中します。道路や鉄道などの盛土によって人工的な窪地が出現し、排水が悪くなったところもあります。そのため、河川自体は氾濫していないのに、下水が溢れる内水氾濫による被害が多くなっています(図3)。その上、沿岸低地に位置している都市は、満潮と重なると、より一層被害が大きくなります。満潮による逆流を防ぐため水門を閉め、排水できなくなった例もありました。
 被害の面でも都市型災害の特徴が出ています。都市には人口と資産が集中していますので、被害者数も被害額も大きくなります。給水・給電施設あるいは銀行のATMなどライフラインが損壊することにより、被害が他地域まで波及したり、あるいは長期化したりする傾向があります。昔と異なり、個人はもとより商店もストックを置かなくなりましたから、食糧や日用品がすぐ絶え、物価が高騰するといったケースも起きています。災害ゴミの問題も深刻です。
 近年、地下室の水没事故も問題になっています。大都市には地下街が増えましたし、地下駐車場をおく建物もたくさんあります。痛ましい水死事故が発生しています。また、事業所では地下室に機械室や電源室を置くのが普通です。病院の地下室が水没したため、停電の際自家発電装置が働かず、手術に支障を来したという人命に関わる事例もありました。

●氾濫を前提とした治水

 さてそれでは、都市型し群発化する水害にどう対処したらよいでしょうか。本当は、地方でも十分に生計が成り立つ世の中にして、都会への一極集中を抑えることが肝心だと思いますが、それには社会の仕組みそのものの抜本的変換が必要です。真の意味での「地方の時代」の到来が待たれます。
 でも、それまで手をこまねいているわけにはいきません。従来路線を続けて公共土木に巨額の資金を投入すれば、水害は根絶できるでしょうか。しかし、これ以上ハード的に被害を減らすためには、費用が幾何級数的に増大します。天気予報の的中率を50%から5%上げるためには、コイン投げから観天望気に切り替えるだけで済みますが、80%を85%に上げるためには、気象衛星を打ち上げるなど巨額の投資が必要です。それとまったく同じ理屈なのです。巨額の財政赤字に苦しんでいる現在、公共事業は縮減せざるを得ません。
 こうした情勢を踏まえ、河川審議会も2000年12月、「流域での対応を含む効果的な治水の在り方について」という中間答申を行いました。「はじめに」でまず「我が国の治水対策は、築堤や河道拡幅等の河川改修を進めることにより、流域に降った雨水を川に集めて、海まで早く安全に流すことを基本として行われてきた。しかし、都市化の進展に伴う流出量の増大、氾濫の危険性の高い低平地などへの人家の集積、市街地での河道拡幅の難しさの増大、さらには近年頻発する集中豪雨による極めて大規模な洪水氾濫の危険性の拡大、それに伴って地域によっては連続堤方式では生活基盤が堤防敷地として失われてしまうような問題の発生など、通常の河川改修による対応に限界を生ずるようになってきている。」と現状認識を示し、「ダムや築堤などの通常の河川改修を引き続き着実に実施することに加え、
の流域対策を導入し、治水対策のメニューの多様化により、地域の選択肢を増やし、地域や河川の特性に応じたより効果的な治水対策を実施すること」としています。

●祖先の知恵に学ぶ

 この河川審議会の中間答申について、「画期的な方針転換」と報道されました。しかし、考えてみますと、大昔から私たちの祖先は、自然災害とはほどほどに仲良くつき合ってきました。冒頭述べたように、洪水は肥沃な土壌をもたらす、なくてはならない自然の摂理だということを知っていたのです。
 自然の征服といった不遜な考えになったのは、明治以降のたかだか百数十年に過ぎません。わが国は近代土木工学をオランダから学びました。オランダ人はご承知の通り海抜ゼロメートル地帯に住んでいますから、「一滴も漏らすな」という発想になって当然です。以後、コンクリート製の連続堤防が各地に建設され、水を堤外地(堤防の内側、川が流れている方のことですが、守られる人間を主体に考えて、河川工学では逆に「堤外地」と呼びます)に力ずくで押し込めようとの努力が最近まで続いたのです。しかし、土砂供給の多いわが国では河川敷に土砂が溜まり、結果として天井川になって、かえって水害の危険性を招くという皮肉な事態になりました。
 それでは祖先は自然災害にどのように対処してきたのでしょうか。ある時は敬して遠ざかり、ある時には適当にいなしたりして、柔軟に対応しました。例えば、武田信玄の造った信玄堤は、雁行状に配列しており、土石を含んだ洪水の奔流は川の中心部を流れますが、上澄みは周辺の田畑にオーバーフローするようになっています(図4)。肥沃な土壌が客土されますから、当年は不作でも翌年は豊作となります。軽くいなす例です。
 鹿児島では土石流扇状地を洗出といいますが、藩政時代ここは耕作禁止だったそうです。幕府から外様として搾り取られていたため、八公二民という過酷な税制を取っていた薩摩藩でも、僅かな年貢収入より農民を失うことを恐れたのでしょう。敬して遠ざかる例です。
 加藤清正の水普請も大変ユニークです。熊本市内を流れる白川と井芹川は上流がまったく別の場所ですから、同時に洪水になることはありません。そこで、両河川を接近させてその部分だけ堤防を共通にし、さらにぐっと低くします。どちらかの川が氾濫すると、もう片方の川にオーバーフローするような仕掛けになっているのです。これを石塘と言います(図5)。今も現存しています。また、水勢を殺ぎ、堤防を守る石刎や合流点に造られる遊水装置の轡塘、さらには阿蘇の火山灰土であるヨナの堆積を防止するためにわざと乱流を起こして流す鼻ぐり井手など、さまざまな工夫をしました。
 その他、河川審議会中間答申でも出てきましたが、木曾川の輪中は有名ですし、桂離宮の笹垣(水除林)と高床式書院(水屋)も桂川の氾濫対策でした。このように祖先たちは、地域の自然を巧みに利用し、叡智を凝らして水害対策を行ないました。
 次に、鹿児島市内中心部を流れる甲突川を例にとり、やや詳しく祖先の知恵を見てみましょう。信州の例でなくてすみません。

●甲突川の8・6水害

 1993年は気象台が梅雨明け宣言を撤回し、そのまま秋になって夏がなかった年と言われました。お米の緊急輸入をした年ですから、ご記憶のことと思います。6月の梅雨時から長雨が降り続いていたのに、さらに「平成五年八月豪雨」と気象庁が命名した豪雨が追い打ちをかけました。
 とうとう8月6日、鹿児島市の甲突川は大氾濫を起こし、県都は水浸しとなりました(図6)。8・6水害と呼ばれています。当日の日雨量は259mmでした。夕方の帰宅ラッシュの頃、排水孔からの逆流による溢水が始まりました。内水氾濫です。その後、堤防の越流が発生、真夜中になると、さらに満潮による高水位と重なり、被害を大きくしました。最大浸水水位は約3mにも達しています。その結果、浸水面積約424ha、浸水家屋約12,000戸もの被害を出しました。
 夕方の帰宅時だったため、勤め帰りのサラリーマンや塾帰りの生徒たちが、近くのビルや駅に避難し、安否確認に手間取り、ラジオが大活躍しました。また、甲突川と併走する国道が奔流と化したため、自動車が流され、車社会のもろさもさらけ出しました。天文館と呼ばれる繁華街も被災し、地下の飲み屋は全滅しました。中でも鹿児島市民の誇りであった五大石橋のうち二つも流失したのは痛恨の事態でした。水道局の浄水場が甲突川河畔にありましたので、長期に断水しました。
 なお、同時に鹿児島特有の土砂災害も発生、鹿児島市と外界を結ぶ国道3号と10号および九州自動車道のすべてが不通となり、一時鹿児島市は陸の孤島と化しました。生鮮食料品の供給が途絶えたため、物価も高騰しました。この災害で死者行方不明者47名という痛ましい犠牲者を出してしまいましたが、大部分土砂災害によるもので、洪水による死者は3名でした。

●岩永三五郎の治水工事

 文化財である石橋が流失したのが社会問題化しました。行政側は眼鏡橋であるが故に断面積が狭く、流木などをせき止めて氾濫を助長したとして撤去の方針を打ち出したからです(図7)。市民運動側は、石橋撤去反対を唱え、上流の団地造成が原因であったとして、上流地域の植林や団地内の透水性舗装、学校敷地内での貯水など総合治水を対案として打ち出しました。しかし、団地が造成される前の明治・大正時代にも水害はしばしば発生していますから、団地主犯論には無理があります。また、土砂の問題もありますが、後ほど触れます。
 問題の石橋ですが、これは江戸時代後期、肥後の石工岩永三五郎が造りました(図8)。長崎の眼鏡橋は大変有名ですが、甲突川は長崎の中島川に比べて川幅が広いので、4連・5連の大規模なものです。岩永三五郎は石工として知られていますが、単なる石工として橋梁建造に携わったのではありません。薩摩藩内主要河川の河川改修全般にわたって指揮を執った河川技術者でした。
 甲突川については、まず曲がりくねった河道を矯正し、下流部の土砂を浚渫しています。その時の浚渫土砂捨て場が天保山です(図9)。天保年間にできた山だとして名付けられたのでしょう。幕末薩英戦争の際砲台が置かれたところです。堤防に関しては、城下側に石組みの立派な連続堤防を造るとともに、反対側荒田側の堤防を意識的に1尺低くしました。洪水時に田圃のほうにオーバーフローさせて、武家屋敷や町屋のあるお城側を守るように設計したのです。同時に石橋にかかる水圧を軽減する狙いもありました。その上で、荒田側の民家には舟筏の用意をさせたとのことです。
 石橋群は1845年(弘化2年)から1849年(嘉永2年)にかけて次々に造られました。石材としては溶結凝灰岩が用いられています。周辺に多産することと、柔らかくて当時の技術でも加工が容易だったからでしょう。石橋の位置もよく考えられています。ほとんどが蛇行湾曲部のすぐ下流に造られています。洪水は直進する性質がありますので、その圧力を避けたかったのだと思われます。中流部には遊水池機能を持たせた河頭太鼓橋を架けています。実際、8・6水害時には河頭に最大水深3mを超す遊水池が出現しました。最後に、上流山岳地帯の治山に努め、樹木の伐採を禁じたとのことです。
 このように岩永三五郎の治水対策はよく練れた非常に優れたものでした。唯一つ、彼の失敗と思われることがあります。それは天保山を河口に作ったことです。今でしたらコンクリート護岸で保護した上で捨てるのでしょうが、当時はそのまま海岸に捨てたと思われます。海流に流されて河口部が浅くなる原因を作ってしまったのです。つまり、三五郎は河川工学の専門家でしたが、海洋土木は不得手だったのでしょう。
 河口部が浅くなれば、結果的に甲突川全体が浅くなり、氾濫しやすくなります。「我は海の子」という小学唱歌をご存じだと思います。作者の宮原晃一郎は鹿児島の人で、幼少時河口から2kmほど上流の加治屋町から天保山まで泳ぎ、桜島を見て帰るのが日課だったそうです。つまり、明治時代は泳げるくらい深かったのですが、今ではせいぜい膝くらいしかありません。
 もう一つ、土砂対策が浚渫しか考えられていないことも残念です。もっとも現代でも名案はないので、無理な注文でしょうが。甲突川の後背地は大部分シラス(非溶結の火砕流堆積物)地帯です。当然、崩れやすくて、水害の発生するような豪雨時には土砂災害も同時に起きます。1917年(大正6年)の水害時、「普通1日で引く水が、3日経っても護岸すれすれを流れるので、おかしいと思って竹竿を入れたら、約20cmの深さしかなかった。土砂が厚く溜まっていた」との記録もあります。8・6水害の時も、上流の郡山町上常葉・鹿児島市小山田でシラス地盤が深く洗掘されました。小山田キャニオンが出現したと報道されたものです(図10)。この土砂が全部下流まで流されてくるのですから大変です。シラス洪水と言います。通常の河川で言われている総合治水を教科書的に適用しても役に立ちません。災害に関しては、決まり切ったマニュアルはないのです。その地域地域の地質地形特性に応じた創意工夫が何よりも大切です。加藤清正が乱流によってヨナを流したような工夫はないものでしょうか。
 現代になって、岩永三五郎の予期していなかったような事態も生じています。一つは市街化が進んで、荒田側も市街地になったことです。とくに西鹿児島駅が出来てからは大きく発展しました。そのため、三五郎の設計思想に反して、こちら側の堤防もかさ上げせざるを得ません。結局、洪水の水圧がもろに石橋にかかってしまいました。もちろん、舟筏を用意しているところは皆無で、それどころか地下室までこしらえました。8・6水害後、若干下駄履き住宅も増えましたが。
 もう一つは、上流に団地が造成されたことです(図11)。鹿児島県は全体としては過疎県ですが、鹿児島市に一極集中し、55万都市になってしまいました。県民の3人に1人が鹿児島市民というわけです。この流入人口を収容するために、シラス台地が切り拓かれ、あちこちに団地が造成されました。森林が伐採された上に、アスファルト舗装されるわけですから、当然、保水力は低下しました。市民運動側のいう通りです。
 こうして、岩永三五郎の努力を無にするような事態を招き、水害に対して脆弱な都市になっていましました。災害後、激特事業により、河川改修が行われると共に、五大石橋はすべて撤去され、1スパンで川をまたぐコンクリート橋に変わってしまいました。石橋群は石橋公園に移築されています。自動車まで通って立派に現役として活躍していた石橋が公園に据え付けられているのを見ると、剥製の鳥を見るようで可哀想な気がします。
 なお、災害後、鹿児島県では甲突川沿いの民有林3,000haヘクタールを購入し、植林することになりました。市民側も植林ボランティアを組織して活動に取り組んでいます。団地にある学校の校庭を雨水一時貯留施設にする工事も進んでいます。その点では市民運動の提言も生かされています。

●治水の考え方

 近代治山治水事業は1896年(明治29年)の河川法、翌97年(明治30年)の砂防法・森林法に始まると言われています。いわゆる治山治水三法です。これ以降、従来の氾濫の受容から自然との全面対決へと向かいます。戦後はアメリカのTVAが模範とされ、上流には多目的ダムが、河口には排水機場や河口堰が無数に建設されるようになりました。
 ここ数年、環境問題が広く認識されるようになって、1997年河川法が改正され、河川事業の目的が、治水・利水・河川環境の3本立てとなり、環境の柱が付け加わりました。さらには先程述べた河川審議会の中間答申の方向も打ち出されています。最近では多自然型河川工法なども積極的に取り入れるようになりました。しかし、単にコンクリート護岸の代わりに、石積みにすればよいというものではありません。「川との共生」といった発想の転換が必要です。モノづくりから河川環境の創造へと転換が求められています。河川との新しい関係の創造です。
 しかし、冒頭にも述べましたように、この考え方は決して新しいものではありません。祖先が何千年来やってきたことです。昔は技術が未熟だったから、やむを得ず自然と折り合いをつけてきたという側面もありますが、祖先は自然を熟知し、自然の摂理をわきまえていたからと考えたほうがよいのではないでしょうか。
 もともと日本人は自然の中に八百万の神々を見いだし、自然を畏れ敬ってきました。アイヌのコロポックルにしても、沖縄のキジムナーにしても、人間にとって近しい存在だったのです。森は豊かな木の実と冷たい飲み水を供給してくれました。恐ろしい洪水でさえ豊かな稔りをもたらしてくれたのです。当然、砂漠の民のように自然征服といった発想にはなり得ませんでした。もう一度、祖先の知恵に学ぶ必要があるのではないでしょうか。それ故、少々詳しく昔の水害対処法を解説した次第です。
 ただし、行政が財政上の理由から、やむを得ず、ソフト対策重視に方針転換したとしても、住民が氾濫を受容するかどうか問題です。やはり、少なくとも床上浸水は防がなければなりません。床下浸水程度は、「数十年に一度は長靴を履いてもよい」と笑って済ますことができるでしょうか。泥水に浸かった調度品は使い物にならず、結局廃棄するしかないからです。「自然を守れ、河川改修反対!」と叫んでいた人でも、一度被災を経験すると、「一滴も漏らすな」と意見が変わります。治水についてもっとオープンな議論をして、日頃からコンセンサスを得ておく必要があるように思います。

●ソフト対策

 「川との共生」だからといって、ハード対策不要と言っているのでも、まして水害で犠牲者を出してもよいと言っているのでもありません。力ずくで自然を抑え込むのではなく、自然の摂理をわきまえた自然とのつき合い方が重要だと言っているのです。
 そのためには、科学的総合的な流域調査が必要です。河道周辺だけではなく、水源の森林から河口、さらには河川水が影響を与える沿岸海域まで、広い視野で物事を考えなければなりません。河川工学はもとより、地質学・地形学・陸水学・生態学・砂防工学・海洋学等々関連諸分野を糾合する研究体制が望まれます。始めに工事ありき、あるいは予算ありきではなく、よりよい河川環境の創造のために、プランニングの初期の段階から、こうした研究者・技術者がタッチすべきなのではないでしょうか。なお、後述の避難誘導さらには災害後のケアまで考えたら、社会学や臨床心理学など、文科系学問も重要です。
 ソフト対策では河川審議会中間答申も言っているように、ハザードマップ、さらにはリスクマップの整備が求められています。1998年の福島県郡山市の水害では、たまたま事前にハザードマップが公表されていました。このマップを見た人は見なかった人より早めに避難したそうです(図12)。それだけ犠牲者を少なくするのに貢献しました。自主防災組織や水防団の活動も重要です。災害は「自分の命は自分で守る」のが基本だからです。
 

●防災教育

 自然災害は毎年必ず起きますが、同じ地域ではそれほど頻繁には発生しません。祖父母から孫へ伝わる程度の周期です。しかし、現代は核家族時代、祖父母からの伝承には期待できません。学校教育における防災教育・自然教育が重要になってくる所以です。
 1999年神奈川県の丹沢でキャンプ事故がありました。あれも川に関する地形地質的なちょっとした知識があれば防げたはずです。台湾成功大学謝教授のお話によると、土砂災害で死ぬのは漢族ばかりで、少数山岳民族は死なないとのことでした。山岳民族は自然を熟知しているからです。日本人も都会生活に慣れ、自然と遊離した生活を送っていますから、他人事ではありません。幼少の頃から自然に親しむ習慣をつけて欲しいと思います。
 また、日本列島は環太平洋地震火山帯に位置し、かつ、冒頭述べたように北西太平洋モンスーン地帯にも位置していますから、自然災害を受けやすい自然的特質を持っています。こうした災害列島に住む日本人にとって、地学は国民教養といってもよいのではないでしょうか。学校教育では受験にあまり関係がないとして軽視されているのは大変残念です。しかも地学が教えられている学校でも、野外実習は危険を伴うとして敬遠されているのが実情です。強く改善を望みます。

●おわりに―脱ダム論について

 私が信州大学自然災害環境保全研究会で講演した時には、「都市地盤と災害」というタイトルでした。その中で水害についてはごく簡単にしか触れませんでした。本稿はご依頼に応えて、いわば誌上参加したようなものですから、皆さんのご批判をまだ受けていません。忌憚のないご批判をお願いいたします。
 なお、最近、田中長野県知事の脱ダム宣言が大変有名になりました。全国のダム反対論者を勇気づけています。また、数年前アメリカで大ダム建設を中止し、中小ダムに切り替えることが決定され波紋を呼びました。
 しかし、私は、ダム不要論は採りません。言うまでもなくダムは治水だけでなく、農業や発電にも役立っています。鹿児島県のシラス台地は水がないため、長く不毛の地と言われていました。昭和初期まで数10mを超す深井戸を掘り、釣瓶で水を汲んでいたのです。釣瓶を数人がかりで引いたり、牛馬に引かせたりしました(図13)。数10m綱を引いてバケツ一杯分の水しか手に入らないわけですから、水汲み仕事は大変でした。「いやじゃ、いやじゃよ、笠野原はいやじゃ、55尋の綱を引く」と歌って、重労働を嘆いたものです。しかし、高隈ダムが完成して、今や穀倉地帯に変貌しました。四国高松の毎度の渇水騒ぎも高知県の早明浦ダムから貰い水して何とかしのいでいるのです。
 資源小国日本にとって、エネルギー資源として多少挙げられるものといえば、石炭と水力しかないと言われてきました。石炭は石油との競争に敗れ閉山しましたから、もう坑道は水没して使えません。水力は残された大事なクリーンエネルギー資源なのです。
 アメリカは大規模ダム建設を止め、中小ダムに切り替えたとよく引き合いに出されます。アメリカのフーバーダム一つの貯水量は日本中のダム貯水総量に匹敵するそうです。日本のは大ダムと言っても、アメリカの水準で言ったら小ダム程度に過ぎません。そのことはわきまえておく必要があると思います。
 もちろん、だからといって、私はダム建設積極推進論者でもありません。なるべく自然を壊さないほうがよいに決まっています。自然に手を加えるのですから、不可避的に影響が出てきます。自然はシームレスの織物に喩えられるように、複雑な有機体だからです。まったく悪影響を出さないように、自然と共生するためには、縄文時代程度か、せめて江戸時代くらいまでの人口に減らさなければなりません。1億の人口を養うためには、自然に手を付けざるを得ないのです。ラベンダーの絨毯で覆われる美瑛の丘も、もともとは鬱蒼とした原生林でした。開拓農民が営々と北の大地を切り拓いてきたからこそ、アイヌ時代とは比較にならない人口を支えることができるようになったのです。これを自然破壊と責められるでしょうか。
 結局、開発に当たっては、メリット・デメリットを冷静に科学的に評価し、長い目で見て後世の批判に耐える判断をする必要があると思います。場合によっては、自然に一切手をつけない防御的自然保護(protection)が必要なこともあるでしょうが、人間が生活していくためには、多くの場合、自然に逆らわず、自然のしくみを巧みに利用し、人間と自然との調和的共存(harmonious coexistence)をはかるのが本当でしょう。日本自然保護協会・沼田真会長の比喩を借りれば、元金には手をつけてはいけないが、利息は利用させていただこうというものです。保全的自然保護(conservation)です。
 高隈ダムの場合も水没住民を中心に激しい反対闘争がありました。父祖の地を奪われる方々の痛みは大変よく理解できます。ダムを造れば、特定の動植物が絶滅することもあるでしょう。下流や河口周辺海域の生態系に影響が出る恐れも多分にあります。早明浦ダムの場合も吉野川河口で海苔が採れなくなったと聞いたことがあります。個々のケースごとに先程述べたようにメリット・デメリットを勘案した上で、総合的判断をしなければならないのではないでしょうか。ダム一般を悪と決めつけるのはいささかどうかと思います。
 私は信州の個々のダムについて具体的なことは何も知りませんし、田中知事の論拠も寡聞にして知りませんので、具体的に問題になっている浅川ダムなどについて意見を述べるのは差し控えさせていただきます。小論がその議論の参考になれば、望外の幸せです。

付図キャプション

図1 日本の川・世界の川(高橋裕・坂口豊「科学」1976岩波書店より)
図2 治水効果と風水害死亡リスク(河田惠昭,1995)
図3 三大都市圏の洪水被害(戸田圭一,2000)
図4 信玄堤(保坂家文書/保坂達氏所蔵)
図5 加藤清正の石塘(建設省九州地方建設局熊本工事事務所「しらかわ・みどりかわ川物語」より)
図6 甲突川8・6水害浸水図(横田修一郎原図)
図7 甲突川洪水河道流下推定図(鹿児島県土木部河川課,1993)
図8 岩永三五郎と甲突川五大石橋の西田橋(鹿児島県土木部都市計画課『石橋記念館(展示解説書)』(財)鹿児島県建設技術センター刊)
図9 天保山
図10 洪水でえぐられたシラス地盤(写真提供/国際航空写真)
図11 甲突川流域の都市化(増留貴朗『提言=五大石橋を考える』1987より)
図12 ハザードマップ公表の効果(片田敏孝「平成10年8月末集中豪雨災害における郡山市民の対応行動に関する調査報告書」より)
図13 牛で釣瓶を引く光景(桐野利彦『鹿児島県の歴史地理学的研究』1988,徳田屋書店より)


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連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2002年3月2日