防災都市づくりにおける地質学の役割

岩松 暉(『』)


1.はじめに

 1993年は1月の釧路沖地震に始まり、北海道南西沖地震・鹿児島豪雨災害と続く自然災害の多い年だった。雲仙普賢岳は何時止むとも知れず活動を続けている。全国的な冷夏で米の緊急輸入というおまけまで付いた。  災害が発生すると、テレビには地震学者や地質学者が登場して、とくとくとメカニズムの解説をする。被災地には早速各省調査団はじめ各方面から調査団が繰り込む。例年のパターンである。しかし、いっこうに災害はなくならない。いや、高度成長期の列島改造ブーム以来、都市化の進行に伴ってますます増えていると言って過言ではない。

2.社会現象としての災害

 米の凶作は長年にわたるノー政のせいだとマスコミはたたく。一方で地震や豪雨災害は天災と書き立てる。本当にそうであろうか。確かに地震は人間の力を以てしても如何ともし難い自然現象である。山崩れや土石流も侵食現象の一形態に過ぎない。緑豊かに植生が繁茂し、これに伴って肥沃な土壌が形成される。この土壌が山崩れなどによって下流に供給されることにより、平野が形成され、農耕が成り立つ。海岸侵食も防止されるのだ。自然界はこうした微妙な動的バランスを保っているのである。そういう意味では、自然現象としての山崩れ・土石流などは決してなくならない。
 しかし、それが災害になるか否かという点になると話は別である。無人島で山崩れが起きても単なる地質現象である。人命や財貨が失われ、人間社会に損害を与えるとき災害となる。いわゆる自然災害とは自然と社会の交錯するところで発生する社会現象なのである。先に述べたように高度成長期に災害が激化したという事実がそのことを雄弁に物語っている。そうなると災害を防止するためには自然現象を人間に有利にコントロールすることと、賢明な土地利用との両面からの取り組みが重要になってくる。

3.自然とのつき合い方

 宮沢賢治は、火山活動を制御して豊作をもたらすことを夢みた(グスコーブドリの伝記)。かつて原爆を使って台風を消滅させるなどという物騒な話もあった。それはともかく、少なくとも治山治水に関しては自然より人知のほうが勝っていると自負し、力で抑え込もうとしてきた。明治以来のハード主義である。水害を防ぐために延々と連続堤防を築き、三面張りのコンクリート河川まで構築した。遊水池をなくして堤防に換え上流の氾濫を防ぐ。それが下流の氾濫を招き、下流の連続堤防は天井川を出現させた。近代技術を過信してギリギリまで土地利用する。防災施設が逆に災害要因に転化するのである。それだけではない。コンクリート河川は粘土鉱物による有害物質の吸着を阻害するから、汚染水がそのまま河口に直行し漁業にダメージを与える。砂防ダムは鉄分不足の水を供給し磯焼けを起こすという。自然界はシームレスの織物に例えられる。相互に複雑に絡み合った有機体である。自然の理をわきまえず、近視眼的に征服をもくろむと、とんでもないところでしっぺ返しを食らう。
 その点、祖先は自然とそこそこにうまくつき合ってきた。信玄堤(霞堤)・輪中・遊水池など典型例と言えよう。頻繁な中小氾濫には対処するが、数十年に一度といった例外にはある程度の被害は甘受しようという一病息災の発想である。災害絶滅ではなく災害無害化である。昔は慢性喘息では死なないと言われてきた。乾布摩擦で体力をつけ、軽微な発作で済ませる対処法である。最近は強い吸入薬でピタッと抑えるため、つい使用頻度が高くなり、心臓に負担をかけて死に至るのである。
 また、危険な箇所を避けて土地利用してきた。「天狗の踊り場で野宿するな」という山村での言い伝えがある。平坦なところの少ない谷川では土石流扇状地にテントを張りたくなる。しかし、ここは天狗様の踊り場、神聖なところだから不浄な人間が使ってはいけないのだ。もう一つ鹿児島の例を挙げよう。シラス崖の下には大抵なだらかな坂の部分がある。崩壊土砂の堆積地形である。自然のままなら崖錐は水が豊富だから竹薮になっていたであろう。明治以前ここは神様の領域であって、筍採りに行くことはあっても、宅地にすることはなかった。現在のシラス災害はほとんどこの部分で発生している。自然の領分を侵した罰と言えよう。
 本家分家の理論(?)なるものがある。確か天草災害の時言い出された。被災したのは圧倒的に分家が多かったという。古くからある本家は適者として生存してきたのに、新しく作った分家は当面の利便性だけを考慮して立地していたからである。

4.地質学の出番

 近代土木技術の破綻を現代テクノパワーで乗り越えられるか。また、果たしてその方向だけで良いのだろうか。上記のようなイタチごっこをもっと大規模に繰り返すことがなければよいがと思う。切った張ったの西洋医学も大切だが、慢性病には患者の体質にあった東洋医学も重要である。殷の昔には医学博士と対等に厨房博士があった。「健康のもとは食事から」は今でも真理である。薬漬けの半病人よりうまい食事をたらふく食べられる医者いらずの健康体のほうがずっとよい。コンクリート法面だらけの要塞都市よりも緑豊かな町のほうが望ましいのである。
 最近はプランニングコンサルタントなるものが出てきた。町づくり・村興しの相談に乗りますと看板にある。都市工学科の出身者が多いせいか白いキャンバスに自由に絵を描くセンスで事に当たる。キャンバスの下、地面の下に岩石や地層があることを忘れている。これでは乱開発の愚は犯さないとしても、またまた災害要因を作りかねない。
 やはり、ここは地質学の出番である。前述のようにシームレスの織物である自然を相手にするためには、短いオーダーでの最適適応ではダメで、地質学のように悠久の自然史の流れの中で現在を捉えるロングレンジの発想が不可欠である。また生産力の発展が地球の環境にまで影響を与えるようになった今、まさにGeo-(地球)logy(科学)のグローバルな視野が求められている。環境を破壊した後、ppmの環境科学を持ち出すのではなく、環境を保全しながらいかにうまく利用していくかが問われている。自然の理をふまえた環境デザインが重要になってくる。治療医学から予防医学へである。

5.防災都市づくり

 防災も然り。災害が起きた後、後追い的に対処するのでは先のppmの環境科学と何ら変わりない。やはり文字通り未然に防ぐのでなければ意味がない。しっかりした哲学の下に都市計画の段階から災害に強い都市づくりが必要である。昨年の豪雨災害で流出した鹿児島の石橋を設計したのは肥後の石工岩永三五郎である。彼は河川改修と浚渫を行うと共に、城下町側には今でいうスーパー堤防を築き、城下町側の堤防を田んぼしかなかった荒田側より1尺高くして、洪水時には対岸にオーバーフローして住民を守る工夫をした。同時に上流部の山林開拓を固く禁止したという。土砂流出による下流の河床上昇を心配したからである。明治以降この戒めが破られ、最近では大規模団地が続々と造成されている。もちろん荒田側も市街化したため堤防は嵩上げされ、今回城下町側も浸水した。先人の都市計画を台無しにした罰である。
 このような災害に強い都市づくりの考え方がだんだん浸透してきて、1984年消防庁から『防災アセスメントマニュアル』が出された。まだ法制化されていないが、これを契機に各地方自治体でも防災マップや防災地質図が作成されるようになってきたのは喜ばしい。しかし大部分がいわゆるハザードマップの類で、既存都市における防災対策に資することを目的としている。とはいえ、現状よりは一歩前進である。全ての地方公共団体で作成して欲しい。こうした防災マップに関してはいつも公表のことが問題となる。行政も住民も消極的である。その点で国分寺市の例は参考になる。専門家が作って上から与えるのではなく、町内会単位の防災会が自ら町を歩いて災害要因をチェックして災害診断地図を作成公表したのである。市は防災学校を開いて啓蒙すると共に、専門家を派遣するなどして防災会の活動を側面から援助した。行政と住民との協力共同の関係の模範と言えよう。
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連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日