りんごの重み

 岩松 暉(『災害科学研究通信』,No.48, p.15, 1993)


 1991年、長野で自然災害科学シンポジウムがあり、その折一般市民を対象にオープンレクチャーが行われた。私が司会役をすることになっていたが、急に閉会の辞までせよという。とっさのこととて何を話してよいかわからない。そこで、初めて長野に来たときの思い出をお話した。
 私が長野に初めて来たのは学生時代、松代群発地震直後のことである。地下の地震観測所や地震時に出来た地割れなどを見学した。震源の皆神山の麓にはりんご畑が広がっている。真っ赤に熟れたりんごがたわわに実っていた。ちょうど喉も渇いたことだし、そこで働いていた農家の小母さんに1個所望した。「どうも遠いところをご苦労さんです。よろしくお願いします。いえ、銭など入りません。」と大きなりんごをリュック一杯詰めてくれた。
 どうも防災関係者と誤解されたらしい。われわれは単に学問的興味でやって来ただけ、いわば他人の不幸を喜んで見に来たのである。地震は大地の震動であり、地割れは岩石の破壊現象に過ぎない。住む家や生活手段を失った人々の苦しみや悲しみに思い至らなかった。この小母さんとて、われわれが地震を止めてくれるとは思っていなかっただろうが、震災軽減に役立つことをしてくれると思ったに違いない。感謝の気持ちを込めてりんごをくれたのだ。
 帰途、背中のリュックが重い。一杯入ったりんごの物理的重みだけではない。農婦の感謝と期待の気持がずしりと重いのだ。学生だから、学問の無力さに責任を感ずるようなことはなかったが、学問する姿勢について大いに反省させられた。当時は純アカデミックな構造地質の勉強をしていたのに、現在は学際的な応用地質・災害地質の研究をしている。今にして思えば、この時のりんごの重みがきっかけだったのかも知れない。
 こんな思い出話を枕詞にした後、「この自然災害総合研究班も、自然“災害科学”を現象解釈の学問から、より住民に密着した実践的な文字通りの“防災科学”へ発展させようと努力しているので、どうぞご理解とご支援を」と結んだ。


 その後、九州大学理学部附属島原地震火山観測所の太田一也所長が、私のこの文章をエッセイに引用されたので、紹介しておく。


雲仙普賢岳噴火災害からの教訓―危機管理の視点から―

九州大学理学部附属島原地震火山観測所
教授 太田一也

1.はじめに

 長かった雲仙岳の噴火活動も、4年3か月の歳月を経てやっと終わった。今回の噴火は198年振りであったが、巨大な溶岩ドームの形成と火砕流をともなうような大噴火は、雲仙岳ではほぼ4千年間隔で起きていることが指摘されている。今回、たまたまそのような大噴火に遭遇したことになるが、それだけに、火山学的には貴重な知見が得られた。また、大きな災害がもたらされたが、その対応において、貴重な体験をすることが出来た。
 雲仙岳噴火以後、北海道南西沖地震のよる奥尻の被害、鹿児島の大水害、兵庫県南部地震による阪神淡路大震災、北海道トンネル事故、新しいものでは長野県土石流災害などの自然災害が相次いだ。それらが報じられる度に、折角築き上げられた素晴らしい災害科学の成果が、実社会に活かされていないような、あるいは、雲仙岳噴火災害で得られた教訓が活かされていないような気がしてしようがなかった。
 先日、九大の平野宗夫教授との雑談の中で、これは一体誰の責任なのだろうかと話題になった。当事者の一人であった我々としても、個々に発信を試みてはいるが、真剣に受け止めて頂けることは殆どない。やはり、自然災害科学研究者グループとして議論を深め、社会に向けてもっと発言すべきではないだろうか。その結果、行政機関から国民全体に至るまで関心が高まり、自然災害が少しでも軽減されれば幸いであり、それが我々の責務であるような気がしてならない。
 このような意味で、阪神・淡路大震災以後、災害科学や大学の社会に対する在り方に関する論議がにわかに高まって来たことは大変喜ばしい。本誌や「災害科学通信」にも、度々登場するようになった。自然災害に携わる研究者は、社会の一員として「りんごの重み」(社会の期待:岩松、1993)を十分自覚してほしい。

2.雲仙岳噴火災害で大学が果たした役割

 それでは、雲仙岳噴火災害の教訓として発信すべきものは何なのか。それは多岐にわたるが、ここでは、自然災害科学と最も関わりの深い地域社会の安全確保について、体験したことの一端を述べてみたい。
 雲仙岳噴火では、全国から多くの研究者が駆けつけて来て、多彩な観測や調査が実施された。雲仙火山を研究対象としている我々の観測所としては、彼らの協力を得ながら、この稀有な噴火過程を可能な限り克明に記録するとともに、これらの観測結果をどのように社会に活かすかが、重要な課題であった。
 噴火災害発生時に、火山観測機関と社会との関わりで最も重要なことは、住民の安全確保である。災害時の危機管理は、災害対策基本法により市町村長が全責任を負わされている。また、活動火山対策特別措置法は、火山噴火時の対応について、国(気象庁)の情報に基づいて、「知事は予想される災害の事態ととるべき措置について判断し、市町村長に通報または要請しなければならない。これを受けた市町村長は、住民や関係機関に通報したり警告をする」ことになっている。火山学には素人集団である地方自治体に、そのようなことが、果たして可能であろうか。
 他方、気象業務法によると、気象庁には、火山現象に関する情報発信の義務はあるが、「予報・警報」を発する義務はない。その「火山情報」や、火山噴火予知連絡会の統一見解あるいは会長コメントは、専門的な観測結果の報告に留まり、具体的な見通しと防災に触れていないことから、地方自治体が十分な防災対策を講じることは不可能である。詰まるところ、噴火災害における対応の責任は、法的には国に及ばないことになっている。そこで、地方自治体の大学への依存度が、必然的に高まっているのが実情である。
 先般の雲仙岳の噴火では、我々はそのような社会の期待に応えるべく最大の努力をした積りである。西部地区自然災害資料センターには、我々の観測所で対応できない分野の山体崩壊研究班(代表:九大工学部堤一・落合英俊教授)、土石流・火砕流研究班(代表:九大工学部平野宗夫教授)、津波研究班(代表:九大工学部入江功教授)および危機管理研究班(代表:九大文学部松永勝也教授)を編成し、それぞれの専門分野で調査・観測して頂いた(本誌No.4,6,7参照)。それらの成果は、直接或は我々を通じて、行政の危機管理に反映させるべく努力した。
 その雲仙岳噴火では、火砕流と土石流が災害の元凶であった。これらに対する抜本的対抗手段はなく、だだ避難するのみであった。それらはどのようになされたか、我々はどのように関わったかに触れてみよう。

1)住民の避難問題への助言
 火砕流の危険が、次第に居住区域に接近して来たことから、我々は島原市長に対して避難勧告をするように提言したのは、使者・行方不明者43人を出した1991年6月3日の大火砕流発生8日前であった。市長は、ほぼ即時実行に移した。しかし、報道機関を主に、土石流や空き家の警備に当たっていた消防団や一部の住民が入域していた。我々は、危険性が一段と高まって来た5日前には、市災害対策本部や警察に対して警告を発したが、「避難勧告」は、入域者を法的に強制力がないことから、警備に当たっていた警察も、警告はしても強制的に排除しなかった。報道機関には、報道の使命感と同時に、過熱した報道合戦と治外法権的特権意識があった。
 6月3日の最初の大火砕流は、避難勧告地域設定ラインの内側に留まっていた。したがって、避難勧告が厳守されていれば、死者は出なかったことになる。我々観測陣の危険性の指摘が足りなかったとの批判も出て来た。しかし、それは当たらない。危険性が高くなければ、避難勧告を提言する筈が無いからである。
 6月7日以後、知事の要請で、やや広目に「警戒区域」が設定され、入域を厳禁した。6月8日の2回目の大火砕流は、設定ラインの30m手前で止まっていて、死者は出なかった。初めから警戒区域にしておけばよかったとの批判が出たが、それも当たらない。過去の有珠山や伊豆大島の噴火の時も、俗に「避難命令」と云っていたが、法的には避難勧告で対処された。なお、雲仙では、後に「警戒区域」と「避難勧告地域」が併用され、後者は前者に比べて危険性がやや低く、昼間だけ入域出来る緩衝地帯の役割を果たさせていたが、6月7日以前に設定された避難勧告地域とは、危険性についての認識は全く違っていた。
 その後、観測陣として人命第一に警戒区域を3倍程広くするよう助言し、島原市と深江町により実行されたが、結果的にそれ以上の火砕流被害の拡大はみられなかった。被害が無ければ、今度は過剰防衛だとの批判の声が聞こえて来た。それは、警戒区域設定によって、家畜の餓死、花卉類や農作物の枯死、工場閉鎖、営業停止等を余儀なくされ、また、主要国道の閉鎖は、近隣も含めて莫大な経済的損失を被ったからである。官災と呼び、補償問題も持ち上がった。
 そこで、生活や経済への悪影響を無視出来なくなり、人命と生活・経済とを両天秤に掛け、次第に支点を生活・経済へシフトさせざるを得なくなった。市・町は、50日目には警戒区域内を横断している国道の限定的通行を許可、80日目には、住民の警戒区域内自宅への一時立入りを許可、そしてほぼ100日目には、警戒区域の段階的縮小に踏み切った。また、6月30日には大土石流も発生し、大きな被害をもたらしていた。その素因である火山灰の堆積は、ますます進んでいたため再発が懸念され、砂防工事も緊急課題であった。しかし、警戒区域を設定していては、工事を発注出来ないとの行政の論理で、8か月目からは不合理な縮小をせざるを得なくなった。警戒区域を解除すれば安全になるわけでもなく、同意した観測陣としては薄氷を踏む思いであった。噴火活動は、1992年秋には下火になったことから、警戒区域の縮小が加速された。
 ところが、1993年2月になって噴火活動が再び活発化した。行政としては、これまでの経験から警戒区域の拡大には慎重であった。観測陣としても、過去2年間の経験を活かして最小限に抑える努力をしたが、火砕流は、遂に3 回程、警戒区域を越え、うち2回は避難勧告地域も越えてしまった。同年6月、火砕流が勢いを増して来た時には、市災害対策本部は、避難勧告地域にも入域しないように、入域者は直ちに退去するように防災無線で警告していたが、避難勧告地域内で1 人の死者が出たことは残念であった。
 その後、さらに大規模な土石流が頻発し、大きな被害がもたらされた。噴火終息の見透しが立たないこともあって、警戒区域内でも砂防工事に着手せざるをえない事態に追い込まれた。建設省は、一部に無人化工法を取り入れて対処した。
 このように住民の避難問題は、災害が長期化すればする程、人命第一とばかり云っておれなくなってくる。経済的損失を如何に最小限に食い留めるか、また、そのために人命に関わる安全性の限界を越えようとする行政の独走を如何に阻止するかは、大学観測陣の役割となってしまった。観測情報を提供しただけでは、災害科学は社会的に十分活用されないばかりか無視されることもある。助言・提言が必要なのである。

2)自衛隊と大学の火山監視による危機管理支援
 あの6月3日の大火砕流発生直後、陸上自衛隊が「人命救助」を目的に災害派遣されて来た。被災区域の中での任務を安全に遂行するには、噴火状況の把握が不可欠であった。
 そこで、偵察隊を繰り出し、2か所に監視所を設営するとともに、我々に協力を求めて来た。隊員を24時間体制で我々の観測所に常駐させ、地震計が捉える震動流波形から火砕流の発生を即時把握、その振幅と継続時間から規模を推定した。また、監視所では目視や暗視カメラあるいはレーダーを駆使してその流下方向とその先端位置を特定し、これらを刻々と無線発信する態勢を、即日構築した。
 その結果、安全性が確保され自衛隊の災害派遣機能を高めたが、同時に、警備を担当していた県・市・町の災害対策本部や警察、消防機関も、自衛隊のリアルタイム情報を傍受することによって、それぞれの防災機能を高めることが出来た。さらには、危険地帯で治山・砂防工事をしていた林野庁や建設省の工事現場でも傍受され、1分間で危険性を判断し、3分間で避難する態勢が取られるなど、安全確保に寄与した。このような監視態勢は、土石流についても機能した。こちらは流下速度が遅いため、数分間の余裕があった。
 このように自衛隊の火山監視は、地域の安全確保に不可欠なものとなってしまったことから、長崎県の災害派遣要請の目的は、「人命救助」に「それにかかる情報収集・警戒」を追加した。
 また、我々観測陣は、自衛隊のヘリコプター支援を得て、連日、溶岩ドームの成長状況や火砕流の流下状況を空中から把握した。空中観測に使用したヘリコプターは、延べ1400機にも達した。さらには、危険で過酷な山頂部での観測点の設営や電源確保のためのバッテリー交換にも自衛隊の支援を得た。その結果、火山学的に貴重なデータを得ることが出来た。同時に、自治体の避難勧告地域や警戒区域の拡大・縮小、あるいは警察災害警備隊や林野庁、建設省の工事現場の安全確保に助言出来たのも、その成果である。
 まさに自衛隊の戦闘力と大学の火山学を融合させた、極めて実用的火山監視態勢の構築であった。縦割り行政が歴然とする中で、大学がそれぞれの防災機関に協力することによって、それぞれの機関の本来の機能を格段に向上させることが出来たと思っている。

3)火山観測情報と見解の公開
 観測情報の一般公開にも努めた。危機管理班の調査によると、被災地の住民は、火山活動と先の見通しについての情報提供を渇望していた。先の見通しは極めて困難であり、研究者個々によって、見解が異なっていた。火山噴火予知連絡会は、一時期、誤解と不統一による混乱を理由に言論統制を行っていたが、我々は、報道機関のインタビューに応じる形で、個々に自由に発信するようにした。
 それは、混乱や間違いを恐れての情報隠匿は、憶測を呼び不安と混乱を誘発する恐れがあると考えたからで、結果的に、見解の不統一や予測の誤りによる住民の混乱や不満は殆どなく、むしろ、不安から来るストレスの緩和や、デマの発生予防に有益であったと思っている。ことに、誤報を避けるため記者自身に火山現象を理解し把握させ、併せて、ややもすると理解し難い研究者の言葉を、住民が理解しやすい言葉に置き換えて報道してもらうために、報道機関へ観測所を解放したのは、正解であった。
 また、住民や工事現場の安全性に関しては、多くの研究者の様々な見解の中で、一つの決断を迫られたが、結果的に、大過なく対応出来たのも、この情報や見解の公開による独断へのチェック機能が作用したからに他ならない。

3.あとがき

 教訓は、失敗がなければ生まれないものであろうか。以上の3 点は、大学を核にした教訓として取りあげてみたが、うまくいった事例であり、今後どこかで噴火災害が発生した時に、是非応用して頂きたい事柄である。残念ながら、このような実態は、余り知られていない。大学は研究機関であり、そこまで踏み込むことは邪道だとの冷ややかな意見もある。学会と社会からうける感覚には、大きな隔たりを感じている。

文 献

岩松 暉(1993):りんごの重み。災害科学研究通信、48、15。

(NDIC News-西部地区自然災害資料センターニュースNo.16, March 1997)


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更新日:1997年8月19日