岩松 暉著『残照』8


幇間稽古

 私は池波正太郎の時代小説が好きだ。『鬼平犯科帳』も『剣客商売』も江戸の下町が舞台である。学生時代下宿していたところも登場する。何となく親しみが湧く。もちろん、舞台だけの問題ではない。「善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ。」といった人間観が救われる。確かに主人公はスーパーマンであるが、人間性に溢れ、決して完全無欠の聖人君子ではないのである。ところで本題。『剣客商売』にこんな文章があった。
 「そこ、そこ。もうすこしだ」とか、「残念。いま一歩、踏み込みをきびしくされい」とか、「それだ。その呼吸だ」とか、後藤は余裕たっぷりに門人をさばきつつ、一人一人へ[うまいこと]をいってやるものだから、門人どもは、もう夢中になってくる。一見、教え方が上手のようにおもえるけれども、こんな[幇間稽古]では、たとえ十の素質がある門人でも三か四のところで行き止まりになってしまうし、当人はそれで、じゅうぶんに上達したとおもいこむことになる。
 これは剣術の話だが、大学教育にも当てはまるように思う。私の恩師木村敏雄先生(東大名誉教授)は、それはそれは厳しかった。ゼミで厳しい質問攻めに合い立ち往生するなどは茶飯事、時々「馬鹿もん!」と怒鳴られた。ほめられた記憶は駒場時代だけだ。専門がまだ決まっていない教養学部と、プロを育てる専門学部と、扱いがこうも違うものかと思った。先生の薫陶のお陰で、3・4しか素質のない私も5ぐらいまで引き揚げていただいたのだと感謝している。さて、そのダメ学生が今や大学教師、学生に対してどう向き合っているか、反省するところしきりである。幇間稽古どころか、要求水準をどんどんどんどん落としているのが実情である。基礎をがっちりたたき込む授業が少なくなり、学生に媚びた市民講座の寄せ集め的な講義ばかりになってしまった。もっとも「媚びた」というのは少々酷だ。学生の基礎学力が低下したため、大学らしい授業ができないのである。学生による授業評価が行われるようになると、ますますこの傾向が助長されるに違いない。これではプロが育つはずがない。こんなことでよいのだろうか。

(1999.12.12 稿)


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更新日:1999年12月12日